| おはようございま〜す。 pipitさま、またお邪魔しちゃうね。
『先行する何ものにも依存せずに、何かを直観することなどできるのだろうか。この問題をカントは「いかにして対象の直観が対象より先行できるのか」(Ak282、中公50、岩波68)とまとめる。』の、「いかにして対象の直観が対象より先行できるのか」についてね。
わたし、カントは「直観は対象より先行”してないはずだ”」っていったけど、まちがっちゃった、逆、ごめん。ここんところ、訂正のため、わたしの憶測書かせてもらうね。
カントの場合、「直観」っていうのは〈理性に属してるもの〉ってしてるんじゃないかしら?(これを「純粋直観」ってしてるのかも?) カントは「対象は直観に先行している」を認めてはいるけれど、直観は理性に属してるものとしてるから、対象を先行するものとしちゃうと、理性第一からするとまずい。そこで「直観は対象に先行している“はずだ”」あるいは「直観は対象に先行して“いなければならない”」ってしちゃったんじゃないかしら?
たとえカントが二種類の直観として、「純粋直観」と「経験直観」に区別して見たとしても、それだけで純粋直観が経験直観に先行するとは言えないんじゃないかしら?カントにとってあるのは「ただ理性のみから」でなくてはならなかったのかも?
ここらへんがカント沼ゆえんかな?
哲学者によって「直観」の意味が違う見たい。ここんところ、Whatのところで書いて見る。
きょうは純理とWhatを行ったり来たりしちゃうかも。
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