| 勿忘草さん こちらこそいつもありがとうございます。
>>パウロの福音理解と福音書のイエスの福音理解、旧約に隠されている予期的な福音理解、この三つが同じであることは、三位一体の構造を踏まえて初めてわかると思います。パウロは三位一体という語すら知りませんが、彼がイエスにおいて遭遇したのは、三位一体そのものだと思います。 > > なるほど、パウロは、三位一体そのものに出会ったと言う事なんですね。 > だから、衝撃的な回心をしたのでしょうね。
リアルタイムで復活したイエスに出会った弟子たちも、三位一体そのものに出会ったのでしょう。遡れば、マリアもイエスを懐胎した瞬間に三位一体そのものに出会った。
> つまり、神は唯一で、一つしかなく、聖霊もただ一つ。 > > 父、子、聖霊は一つの本質からなっており、それは霊の本質だから。
一つですが、厳密にいうと、父から子と聖霊が派遣されるということだと思います。
> 神は霊において働くことも、主イエスのように受肉して働くこともできます。 > > しかし、神が霊において働かれても、肉において働かれても、本質ではそれはやはり神の霊がご自身の働きをなさっているという解釈で、よろしいでしょうか。
父・子・聖霊が働いていない瞬間はない、宇宙においてあらゆる瞬間働いている、時間がなくても父・子・聖霊はある、宇宙万物が消滅しても、分離不可能な父・子・聖霊は消えることがない。これが、いわば公理ともいうべきものだと思います。
> アウグスティヌスは「あなたが理解できることは、おそらく神ではない」として人智を超えた方が神なのだとしています。
アウグスティヌスは海辺の貝殻の喩えで、人智を超えた三位一体の神の神秘について語っていますね。時代が降ると、科学者たちも似たような喩えで、自然や宇宙の神秘の測り難さに頭を垂れています。
> 神は、言ってみれば、霊のかたまりで変幻自在。
神そのものは一切変化しないことを本質としていると思います。自然や人間に変幻自在の動きを起こす主体が神ではないでしょうか。
> さらに、その神の霊は、時々普通の人間に入り込んで、その普通の人間の心を変えてしまうような働きをするのを聖霊の働きと呼ぶ。
これはその通りだと思います。
|