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■377 / inTopicNo.1)  Re[28]: 被爆国のルサンチマン
  
□投稿者/ ひよこ -(2017/11/10(Fri) 22:48:53)
    皆さん、こんばんは、お久しぶりです。ひよこです。

    アメリカではライフル協会という団体があって、

    ものすごいお金と権力を持っているそうですから、

    銃規制はできないみたいですね。
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■372 / inTopicNo.2)  被爆国のルサンチマン
□投稿者/ パニチェ -(2017/09/24(Sun) 14:44:58)
    2017/09/24(Sun) 17:28:36 編集(管理者)

    米国の銃規制が進まないのはナッシュ均衡にある。法律で銃を規制したとして、これに従うのは善良な市民であり、無法者は相変わらず銃を所持したままとなる。結果的に法を順守する善良な市民が今以上に危険に晒されることになるため、良識的な市民でさえも銃規制には首肯しない。

    核武装の論理もこれに同じで、攻撃されないために核武装するというという核保有国同士の均衡によって成立している。
    実際、第二次大戦後は核保有国が攻撃されたことはない。現状の核保有国に核を保有をする権利がどこにあるのか?
    そんなものはない。核拡散防止条約とは現状の核保有国の安全を担保し、リスクを増やさないための取り決めであって、保有国優位の均衡を保つためのものでしかない。

    世界唯一の被爆国として核のない理想世界を目指すために非保有国であり続けようとするならそれなりの覚悟が必要である。聖徳太子の教えに準じ敵と戦うことなく自害した太子一族のような高貴な死に方を受け入れるべきである。

    もしくはアメリカの奴隷ではなく高貴な国家として、日本主導で理想世界に導こうとするなら核武装しかないだろう。

    現実は何の予告もなく突然やって来る。
    攻撃され多くの犠牲者が出てからでないと日本は敵国と交戦することはない。

    銃社会で自らが銃を持たないことで銃規制を叫んだところでナッシュ均衡が崩れるはずもなく、誰も追随しないだろう。
    これと同じく無抵抗で死ぬ覚悟もないままに、自分たちが非保有国であることをもって世界の非核化を実現しようとする発想は、国内はおろか世界中で戦争に賛成する国民や民族などいないにもかかわらず、戦争好きの仮想敵を想定し「戦争反対」を声高に叫びデモする自画自賛に陶酔する似非平和主義者と変わらない。

    現実社会では無法者に攻撃されないために武装し、多くの戦闘は自国の平和や民族の自立を目的として生じているのだ。
    社会主義や共産主義の挫折は性善説に基づいた国家論にあり、世界の非核化や戦争反対は、自らが善人で平和主義者であるかの如く自己陶酔した人間の寝言に等しい。

    奴隷道徳が非道徳的であるのと同じく、世界の非核化を非保有国であることによって先導できるかのような甘っちょろい発想は、被爆国のルサンチマンの裏返しに過ぎない。

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■353 / inTopicNo.3)  Re[26]: お礼
□投稿者/ なん -(2017/07/30(Sun) 13:35:25)
    紹介されてたサイト、読みましたー!・・・と言っても、ほとんど理解できないんですけどね。

    ミンコフスキーって、ガンダムのミノフスキー粒子の人なの??ってレベルでわかんないんですが(^ ^)とっても面白かったです。後半の心の哲学辺りはついていけそうな気がしましたけど、気持ちだけ。

    インド時間ってあるんですね!私は沖縄タイムの生まれです。最近は、妖怪時間を採用していたりもして、どれぐらい人を待てるか?って状況で「記憶がある限り」みたいな、自分の中の精一杯の壮大さ(可愛い)で生きてけたらなーとか考えています。

    ちらっと聞いた解説では、「沙悟浄の首にかかってるドクロは、9個あって、全部、三蔵法師の前世のもの」と言っていて、時間軸の壮大さ、すごさに、ちょっとめまいを感じたりしました。ちょっと前に流行った「君の名は」って映画の「前々前世」って曲では、前々前世から君を探してたって歌ってましたけど、3倍だ!規模が違う〜ってなりましたよ。

    サイトが面白かったです、の御礼でしたー。
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■351 / inTopicNo.4)  お礼
□投稿者/ 田秋 -(2017/07/30(Sun) 07:29:06)
     なんさん、パニさん、返信ありがとうございます。

     時間ほど興味が尽きないものはありませんね。古来、哲学者や科学者、宗教家や数学者などを巻き込んで様々な考察がなされてきました。素人でもある程度考えることができる、毒性のない(あるかも?)麻薬みたいなものですね。

    >生成・変化・消滅を繰り返す。
    こういうことができる容器みたいなものが時間という気もします。

    >運動を記述するための時間という仮象が生じる。
    これは説得力がありますね。

    真剣な議論を離れて、西遊記中のお釈迦さまの言動には私なりの仮説を持っています。インドには「インド時間」というものがあるそうです。簡単にいうと時間を守らないということで、日本人からみるとルーズということになるのでしょうが、彼らにはそういう意識はないのだそうです。お釈迦さまにもこの血が流れているいて時間の経過を「気にしない」んじゃないかなあ、というのが私の仮説です。

    西遊記世界での現実(?)では、仏界も天界と同じく、仏界の1日=下界の1年なのだろうと想像しています。それと仏界時間の曖昧な記述には西遊記の作者の意向も少なからず働いているんだろうなあとも考えています。

    こういうサイト、見つけました。
    https://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/142.html#footnote_body_21
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■350 / inTopicNo.5)  Re[24]: 仏教の時間
□投稿者/ パニチェ -(2017/07/29(Sat) 13:42:32)
    え〜っと、まず般若心経のパニチェ訳はpanietzsche Roomの仏教>中論>1.般若心経でカキコしてます。
    参考までに。。。

    で、所謂下天と天界(六欲天)では時間の進行に違いがある云々のことは、般若心経では触れられてないですね。
    般若心経は一貫してこの世界には単体で自性があるものなんて無いってことを説いています。

    全ての物質や現象は複数ものの相関関係上(相依性縁起)に生成・変化・消滅を繰り返す。
    自己という主体も無自性なのだから。。。

    不生不滅 不垢不浄 不増不減〜無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色聲香味触法 無眼界 乃至無意識界〜無無明 亦無無明盡 乃至無老死 亦無老死盡 無苦集滅道 無智亦無得という展開になります。
    苦を感じる主体も無いことを観ずることによって観自在菩薩は彼岸(菩提)に至ったと説かれます。

    この理屈からいけば時間も単体では無自性ってことになるんでしょうね。
    物質があって、それが運動しないと時の進行なんてことも生じえないし、しかもそれを観察する何者かがいることで運動を記述するための時間という仮象が生じる。
    中論の時間の考察でも認識なくして時間なんてものはありえないし、過去や未来もどこにも属しようのないものであると説かれています。

    答えにはならないかもしれませんが。。。^^

引用返信/返信 削除キー/
■349 / inTopicNo.6)  Re[24]: 仏教の時間
□投稿者/ なん -(2017/07/29(Sat) 09:41:02)
    2017/07/29(Sat) 09:57:32 編集(投稿者)
    2017/07/29(Sat) 09:50:45 編集(投稿者)

    田秋さん、お悔やみの言葉をありがとうございます。

    私には今こそパンドラの箱が必要なのです!!開けちゃって、大正解でしたよー。(^ ^)面白いです。


    天界の1日のあり方については、想像できないのですが、お釈迦様の時間感覚については、私、一つの仮説を思いつきましたよ。

    「お釈迦様は、脳科学的に、フロー、またはゾーンの状態が常であられるので、時間感覚がアバウトなのは、むしろ当然である。」

    です!

    https://ja.wikipedia.org/wiki/フロー_(心理学)

    ウィキペディアですが、フローは無我の境地とも呼ばれると、書いてあるではありませんか。
    (すいません、ページリンクがうまく貼れていないようですが、やり方がわからないので、お手数ですがフローで検索お願いします)

    茂木さんはフローとゾーンを区別するのを提唱しています。

    https://lineblog.me/mogikenichiro/archives/1070670.html

    フローの概念を提唱したミハイ・チクセントミハイも、仏教や道教や禅との関係を認めているそうです。
    お釈迦様ですから、悟りを開いてらして、無我の境地、フローでゾーンが自在のお方であられるのではないでしょうか。
    「仏界」とは、この状態でいられることを指していると想定すると、俄然納得ができてしまいます。

    西遊記のお釈迦様は、現代の脳科学や心理学から見て、正しく描写されている、との説は、いかがでしょうか?
引用返信/返信 削除キー/
■348 / inTopicNo.7)  仏教の時間
□投稿者/ 田秋 -(2017/07/29(Sat) 06:57:07)
    2017/07/29(Sat) 08:35:23 編集(投稿者)

      なんさん、ご無沙汰しています。過去ログを読み返すとご主人がお亡くなりになったとの事、ご愁傷さまです。心よりお悔やみを申し上げます。

    >西遊記つながり、どの辺でどう繋がるのか、おもしろそうで、聞きたいです。
     ああ、なんさん、聞いちゃいましたね!パンドラの箱を開けたかも・・・

     西遊記では天界の1日は下界の1年という設定です。これは何か所かに書かれています。では仏界と下界の時間の関係はどうなのかというと、これははっきりとは書かれていません。それについては釈迦さまは2回言及しています。1回目は悟空が五行山に閉じ込められて下界時間で約500年経ったときのお言葉
    「ここでは(お釈迦さまお住まいの霊鷲山雷音寺)どれほどの年月がたったかわわからぬが、俗界ではおよそ500年にはなるであろう」
    これはかなり不思議な発言です。自分の世界の時間の進み方はわからない、と仰っているのです。
     もう1回は文殊菩薩の乗り物である青毛獅子が下界で悪さをしている時
    「山(仏界)を下りて7日(仏界時間)でも下界では何千年にもなる」
    と仰っていますが、これは明らかに間違っているのです。証明は割愛しますが、この12年前(下界時間)にお釈迦さまの命により下界に下りているのです。

    このようにお釈迦さまの時間に対する感覚というか捉え方は、あたかもボケ老人のようなのです、西遊記では。
    天界の1日=下界の1年、これを説明するにはひょっとすると相対性理論が必要かもしれません。いえ、その前に天界の1日というのが、地球の自転によって昼夜ができる、と同じ原理で天界の1日が成り立っているのか!?という問題もあります。それに対して仏界は西牛貨州という地球上の大陸にあります。

    聞かなきゃ良かったと思ってます?^^;

    何しろ西遊記の研究は私のライフワークですから、相当すっ飛んだところまで来ています。ハイ。

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■345 / inTopicNo.8)  Re[22]: 仏教の時間
□投稿者/ なん -(2017/07/28(Fri) 09:03:11)
    田秋さん、こんにちは。今、毎日のように般若心経を唱えているので、この質問を読んで思い出すのは

    乃至無老死 亦無老死尽

    の部分です。

    あれも無い、これもない、が並べられてる中で、この部分の老いや死は生物に流れる時間の概念を指してるのかなぁ、と思いまして、時間というものも無い、と述べていると考えます。

    西遊記つながり、どの辺でどう繋がるのか、おもしろそうで、聞きたいです。
    以前、youtubeの動画で西遊記について話してるのを観たのですが「西遊記は中国からインドに行く話で、悟空のイメージはハヌマーンにとても近くて、インドから持って帰ってきたのはお経とヒンズー教の神様みたいで、猿が行って帰ってきたようで、面白いではないか?」って結論が興味深かったのです。

    私も出入りが頻繁になりそう仲間ですので、今後ともよろしくお願いしますね。


引用返信/返信 削除キー/
■344 / inTopicNo.9)  Re[22]: 仏教の時間
□投稿者/ パニチェ -(2017/07/27(Thu) 22:41:30)
    こんばんは、田秋さん
    明日以降に再投稿しますが、取り急ぎ現段階で知っていることだけ返信します。

    No343に返信(田秋さんの記事)
    >   パニさん及びニーチェクラブの論客の皆さま

    > 般若心経ですべては空であると説いていますが、時間というものも無いと説いているでしょうか?西遊記つながりで質問しています。

    般若心経のもととなる大般若経を読んでないので何とも断言はできませんが。。。
    般若の空を大乗仏教の首座として確立した龍樹の中論によれば、時間も実体のないものと看破しています。

    >  定年退職して急にニーチェクラブにへの出入りが頻繁になってしまいました。。。
    >  宜しくお願いいたします。

    こちらこそ、よろしくお願いします。
    ここは自由気ままに使って下さい。^^
    私は土日くらしかカキコできないと思いますが、何なりと気の向くままにカキコして下さい。
引用返信/返信 削除キー/
■343 / inTopicNo.10)  仏教の時間
□投稿者/ 田秋 -(2017/07/27(Thu) 20:46:05)
      パニさん及びニーチェクラブの論客の皆さま

     般若心経ですべては空であると説いていますが、時間というものも無いと説いているでしょうか?西遊記つながりで質問しています。

     定年退職して急にニーチェクラブにへの出入りが頻繁になってしまいました。。。

     宜しくお願いいたします。
引用返信/返信 削除キー/
■341 / inTopicNo.11)  カラスの未来計画
□投稿者/ なん -(2017/07/25(Tue) 00:08:36)
    脳科学ということで、最近面白かった記事を共有したいです。

    http://www.afpbb.com/articles/-/3135731?pid=0


    論文の詳細も紹介してくれる方がいました。

    https://togetter.com/li/1132456

    「カラス科,類人猿,そして人間が「先の計画」を立てることを可能にする様々な領域の認知能力が発達したと考えられている。」

    過去の記憶があり、それを踏まえて、未来予想をして、今の行動を選ぶ、未来計画能力がカラスにはある、と。
    あげられた3種の生物には、社会的な動物であるとの共通点があるとのこと。
    もしかしたら、カラスが一番「超人」に近い生き方かも!!とか思って興奮しました(^ ^)

    カラスに自制心がある、ってすごいですよねぇ!
    人間的な「思考」の基準で、知能を測ってるので、カラスシステム的には違うんでしょうけど、脳科学的には非常に面白く感じます。

引用返信/返信 削除キー/
■308 / inTopicNo.12)  Re[19]: 自己超克と永劫回帰
□投稿者/ パニチェ -(2017/07/15(Sat) 11:34:40)
    返信遅くなりました。ニーチェに関するレス交換はやっぱ時間のある時に本を読み返しながらカキコしたいので、今後も遅れがちになったり、他の返信が先になったりしますが、よろしくです。
    でも、こうしてラミィ〜さんがニーチェやツァラトゥストラに関してカキコしてくれるお陰で読み返すきっかけになったり、さらに読解が進んだりするので有難いです。
    サンキュ〜♪^^

    No286に返信(らみさんの記事)
    > 本当は先日に一回投稿したのですが、消してもう一度投稿しなおしました。少しだけ内容変わっています。

    了解!

    > 永劫回帰という思想の受け入れ方について「最大の重し」だけを読むと「同じことが又繰り返されるならば、繰り返されても良いような人生を生きよう」という解釈になると思いますが
    > 「何か一つでも今迄の人生で「然り」と言える体験があったのならば、その一瞬を繰り返す為だけに同じ人生を又繰り返しても良いじゃないか。」という読み方も出来ると思います。
    > 幻影と謎では前者の解釈になりますが、酔歌では後者のような受け入れ方が新たに登場したように思います。

    なるほど、そういう読み方もあるんですね。

    > <あなたがたはかつて一つのよろこびに対して「然り」と肯定したことがあるのか?おお、わが友人たちよ、もしそうだったら、あなたがたはまた全ての嘆きに対しても「然り」と言ったわけだ。万物は鎖でつなぎ合わされ、糸で貫かれ、深く愛し合っているのだ、あなたがたはかつて、ある一度のことを二度あれと欲したことがあるなら、「これは気に入った。幸福よ!束の間よ!瞬間よ!」と一度だけ行ったことがあるなら、あなたがたは一切がもどってくることを欲したのだ!」」(酔歌10)>

    永劫回帰と運命愛ってのはセットだと思うんですね。で、運命愛ってのは文字通り運命を愛するってことなんですが、この運命の中には現在の自分あるいは自己も含まれる。
    単に自己愛みたく自分を愛するのではなく、今ある自己を全肯定する。自己を全肯定するってことは今ある自己を形成してきた経験(苦しかったことも楽しかったことも)を全肯定することで、それが運命愛だと解釈しています。
    よって自己を全肯定するなら永劫回帰には辛かった経験が反復することも含めて「然り!」と言えるだろ?というニーチェからのメッセージみたいに受け取っています。
    このように解釈する理由はラミィ〜が引用してくれた前段、以下の部分を重視しているからです。

    『苦痛は同時にまた快楽なのだ、呪いは同時にまた祝福なのだ、夜は同時にまた太陽なのだ、──立ち去れ、しからずんば、そなたたちは学ぶべきだ、賢者がまた同時に阿呆であることを。そなたたちはかつて何らかの快楽に対して然りと言ったことがあるか?おお、わたしたちの友人たちよ、そう言ったとすれば、そなたたちは一切の苦痛に対しても然りと言ったことになる。…以下ラミィ〜さんの引用』

    > ちなみに上巻で
    > 〈創造する意思がそれに向かって、「しかし、わたしが、そうあることを意思している!そうあることを意思するだろう!と言うまでは。だがまだ意思はそう言っていない。それはまだ起こっていない。意思はまだ自分自身の愚劣さから脱却していない。意思はまだ自分自身の救済者、よろこびをもたらす者となっていない。意思は復讐の知能とすべての歯切しりを忘れていないのだ。
    > 誰一人意思に向かって、時間との和解を、またあらゆる和解よりもさらに高いものを教えたものはいなかった。すべての和解よりさらに高いものを、意思は意思しなければならない(救済)〉
    > というツァラのセリフがあり、つまり上巻ではまだ時間との和解はできていなかったのだと思うのですが、この酔歌10で彼は初めて時間との和解ができたのだと言えないでしょうか。
    > なぜなら上の酔歌での「一切」というのには、過去に起こった自分ではどうしようにもできなかった出来事も含まれるからです。

    時間との和解とは前述のことも含めて永劫回帰を受け入れ運命愛(自らの運命を含めた高貴な自己肯定)に至ることだと解釈しています。

    > >> >未完成のもの、未熟な未人は永遠を欲する。
    > >> ここなのですが、未熟なものが欲すのは永遠ではなく、自分自身ではない強いもの、明るいものだとあります。
    > >同意です。
    > >未熟な者が欲するのは「より自分らしくありたい(現状の自分ではない自分でありたい)」の運動(生)を肯定する自己超克ですね。完成は停止であり、自己超克は生という名の運動。
    > >つまり永遠の未完こそが自己超克の源泉でもあり、永遠を好むってことだと思います。
    > なるほど。そういう意味で仰ったのですね。
    > でも・・やはり違和感があるのは、この章の中で「永遠」を欲しているのは未熟な人間ではなく、「よろこび」だと思うのですね。未熟な人間は完全なものに憧れを抱きますが、完全なものにとっては逆に、出来損ないであることに憧れるのだ、と言っています。未熟なもの達は完全な存在になり成熟することに憧れているのであって、未完であることに憧れているわけではないと思うのです。

    ここはラミィ〜さんと読み方が異なりますね。
    喜びを欲するなら、それは同時に苦しみをも欲するということになると読みます。
    現在肯定している自己を形成した苦痛は、その意味において快楽と等価なのですから。

    > 又以下は最も醜い人間の言葉です。
    > 「あなたがたはどう思うのか、この今日いちにちに巡り合えたために、はじめてわたしは、自分がこれまで生きてきたことに満足した。しかし、それだけの証言では、わたしはまだ十分ではない。まことにこの地上で生きるのは、甲斐のあることなのだ。ツァラトゥストラとともにした一日、一つの祭りが、わたしにこの大地を愛することを教えてくれた。『これが・・人生というものであったのか?』わたしは死に向かって言おう。『よし、それならもう一度!』と〈酔歌1〉」

    上記は超人の告知者にして永劫回帰の教師であるツァラトゥストラと出会うことによって永劫回帰を受胎したという話始めの言葉と受け止めています。

    > これを知る人間が最も醜い人間、とのことですが醜い人間が「これが人生か、ならもう一度」と言った理由は先程の永劫回帰の受け入れ方の例で言うなら「最大の重し」の前者ではなくむしろ後者ではないでしょうか。
    > 前者の場合だとすれば自己超克と繋がるのはわかるのですが、最も醜い人間がこれ(永遠の未完こそが自己超克の源泉でもあり、永遠を好むということ)を知っている、というのはどこに書いてありますか?
    > 又、「未人」というのはおしまいの人間を指すようなのですが、だとすると違和感があるのですがいかがでしょうか。

    最も醜い人間がこれ(永遠の未完こそが自己超克の源泉でもあり、永遠を好むということ)を知っているというのは書いてないと思います、文脈からの私の解釈です。
    で、未人とは超人以前の全ての人間のことだと思います。

    PS.一応返信はしましたがある一つの解釈に固執する必要もないでしょうね。それぞれがそれぞれの機根や人生にかぶせて読むのもありだと思います。

引用返信/返信 削除キー/
■286 / inTopicNo.13)  Re[18]: 自己超克と永劫回帰
□投稿者/ らみ -(2017/06/28(Wed) 23:41:55)
    2017/06/28(Wed) 23:43:19 編集(投稿者)

    本当は先日に一回投稿したのですが、消してもう一度投稿しなおしました。少しだけ内容変わっています。


    永劫回帰という思想の受け入れ方について「最大の重し」だけを読むと「同じことが又繰り返されるならば、繰り返されても良いような人生を生きよう」という解釈になると思いますが
    「何か一つでも今迄の人生で「然り」と言える体験があったのならば、その一瞬を繰り返す為だけに同じ人生を又繰り返しても良いじゃないか。」という読み方も出来ると思います。
    幻影と謎では前者の解釈になりますが、酔歌では後者のような受け入れ方が新たに登場したように思います。


    <あなたがたはかつて一つのよろこびに対して「然り」と肯定したことがあるのか?おお、わが友人たちよ、もしそうだったら、あなたがたはまた全ての嘆きに対しても「然り」と言ったわけだ。万物は鎖でつなぎ合わされ、糸で貫かれ、深く愛し合っているのだ、あなたがたはかつて、ある一度のことを二度あれと欲したことがあるなら、「これは気に入った。幸福よ!束の間よ!瞬間よ!」と一度だけ行ったことがあるなら、あなたがたは一切がもどってくることを欲したのだ!」」(酔歌10)>



    ちなみに上巻で
    〈創造する意思がそれに向かって、「しかし、わたしが、そうあることを意思している!そうあることを意思するだろう!と言うまでは。だがまだ意思はそう言っていない。それはまだ起こっていない。意思はまだ自分自身の愚劣さから脱却していない。意思はまだ自分自身の救済者、よろこびをもたらす者となっていない。意思は復讐の知能とすべての歯切しりを忘れていないのだ。
    誰一人意思に向かって、時間との和解を、またあらゆる和解よりもさらに高いものを教えたものはいなかった。すべての和解よりさらに高いものを、意思は意思しなければならない(救済)〉


    というツァラのセリフがあり、つまり上巻ではまだ時間との和解はできていなかったのだと思うのですが、この酔歌10で彼は初めて時間との和解ができたのだと言えないでしょうか。

    なぜなら上の酔歌での「一切」というのには、過去に起こった自分ではどうしようにもできなかった出来事も含まれるからです。



    >> >未完成のもの、未熟な未人は永遠を欲する。

    >> ここなのですが、未熟なものが欲すのは永遠ではなく、自分自身ではない強いもの、明るいものだとあります。



    >同意です。
    >未熟な者が欲するのは「より自分らしくありたい(現状の自分ではない自分でありたい)」の運動(生)を肯定する自己超克ですね。完成は停止であり、自己超克は生という名の運動。
    >つまり永遠の未完こそが自己超克の源泉でもあり、永遠を好むってことだと思います。



    なるほど。そういう意味で仰ったのですね。


    でも・・やはり違和感があるのは、この章の中で「永遠」を欲しているのは未熟な人間ではなく、「よろこび」だと思うのですね。未熟な人間は完全なものに憧れを抱きますが、完全なものにとっては逆に、出来損ないであることに憧れるのだ、と言っています。未熟なもの達は完全な存在になり成熟することに憧れているのであって、未完であることに憧れているわけではないと思うのです。


    又以下は最も醜い人間の言葉です。

    「あなたがたはどう思うのか、この今日いちにちに巡り合えたために、はじめてわたしは、自分がこれまで生きてきたことに満足した。しかし、それだけの証言では、わたしはまだ十分ではない。まことにこの地上で生きるのは、甲斐のあることなのだ。ツァラトゥストラとともにした一日、一つの祭りが、わたしにこの大地を愛することを教えてくれた。『これが・・人生というものであったのか?』わたしは死に向かって言おう。『よし、それならもう一度!』と〈酔歌1〉」




    >完成したもの、熟したものは、幸福のうちに死ぬことを欲するが、未完成のも
    >の、未熟な未人は永遠を欲する。

    >これを知る者が最も醜い人間であり、彼が語ろうとする永劫回帰は真夜中に語る>に相応しい暗黒面が強調されたより深い思想である。



    これを知る人間が最も醜い人間、とのことですが醜い人間が「これが人生か、ならもう一度」と言った理由は先程の永劫回帰の受け入れ方の例で言うなら「最大の重し」の前者ではなくむしろ後者ではないでしょうか。

    前者の場合だとすれば自己超克と繋がるのはわかるのですが、最も醜い人間がこれ(永遠の未完こそが自己超克の源泉でもあり、永遠を好むということ)を知っている、というのはどこに書いてありますか?

    又、「未人」というのはおしまいの人間を指すようなのですが、だとすると違和感があるのですがいかがでしょうか。



引用返信/返信 削除キー/
■275 / inTopicNo.14)  自己超克と永劫回帰
□投稿者/ パニチェ -(2017/06/11(Sun) 07:47:37)
    No267に返信(らみさんの記事)

    > パニの解説ではいつも、自己超克と永劫回帰が一セットになっていると思うのですが、今更ですみませんが、「自己超克と永劫回帰」の繋がりが書かれてる場面てありますでしょうか。

    ツァラトゥストラで探してみましたが見当たりませんでした。
引用返信/返信 削除キー/
■272 / inTopicNo.15)  永劫回帰と自己超克
□投稿者/ パニチェ -(2017/06/10(Sat) 08:05:16)
    2017/06/11(Sun) 07:35:48 編集(管理者)

    こんにちは、らみぃ〜♪

    No267に返信(らみさんの記事)
    > なんか最近トップページでbbsのクリックができなかったり色々変じゃないですか?

    あれ?そうですか。私のPCからは普通ですが、なんせPCには疎いもんで。。。^^

    > そうだ、パニって確か真夏生まれでしたね(^^)!

    そうです。夏嫌いの夏生まれです。w

    > 蛇の説明もありがとうございました!

    どういたしまして。

    > パニは数冊ツァラ持ってるんですね。
    > 好きな訳者さんだと買う、とかなのでしょうか。
    > わたしは訳者さんは誰でも良いので、この本は電子図書で買いたかったです。それでワード検索するんです。どこに書いてあったか忘れてしまった言葉とかを。

    白水社版の訳が好きなのと、やっぱ主要著書はペーバーバックではなくてハードカバーで持ちたいってのがあって第一巻から四巻まであります。
    電子図書って検索できるんですね、それは便利かも。^^

    > わたしが、この酔歌の章に拘る一つの理由として、次のラストの章でツァラに初めて「徴」が現れますよね。なので、今迄の章では語られなかったはずの何かが絶対に語られてると思うのです。それなしには永劫回帰の教師にはなりえない何かが。。
    > ■No268に返信(らみさんの記事)
    > ああ、見落としてました。
    > ツァラが自分も共感するところのある、ましな人間たちへの同情を断ち切ったことですよね。

    同意です。

    > 生意気にすみませんが

    いえいえ、とんでもない。^^

    > 「永遠」という言葉はこの章では真夜中の属性として語られてると思うので、そう使われてないことに違和感を感じてしまうのです。

    らみぃ〜が「永遠」という言葉を真夜中の属性として解釈している理由をもう少し詳しく教えて下さい。

    > パニの解説ではいつも、自己超克と永劫回帰が一セットになっていると思うのですが、今更ですみませんが、「自己超克と永劫回帰」の繋がりが書かれてる場面てありますでしょうか。

    ツァラトゥストラで探してみますね。
    永劫回帰と自己超克は「悦ばしき知識 第341番」で以下のように述べられています。

    『最大の重し。──もしある日、もしくはある夜なり、デーモンが君の寂寥きわまる孤独の果てまでひそかに後をつけ、こう君に告げたとしたら、どうだろう、──「お前が現に生き、また生きてきたこの人生を、いま一度、いなさらに無数度にわたって、お前は生きねばならぬだろう。そこに新たな何ものもなく、あらゆる苦痛をあらゆる快楽、あらゆる思想と嘆息、お前の人生の言いつくせぬ巨細のことども一切が、お前の身に回帰しなければならぬ。しかも何から何までことごとく同じ順序と脈絡にしたがって、──さればこの蜘蛛も、樹間のこの月光も、またこの瞬間も、この自己自身も、同じように回帰せねばならぬ。存在の永遠の砂時計は、くりかえしくりかえし巻き戻される──それとともに塵の塵であるお前も同じく!」──これを耳にしたとき、君は地に身を投げ出し、歯ぎしりして、こう告げたデーモンに向かい「お前は神だ、おれは一度もこれ以上に神的なことを聞いたことがない!」と答えるだろうか。もしこの思想が君を圧倒したなら、それは現在あるがままの君自身を変化させ、おそらくは紛糾するであろう。何事をするにつけてもかならず「お前は、このことを、いま一度、いな無数度にわたって、欲するか?」という問いが、最大の重しとなって君の行為にのしかかるであろう!もしくは、この究極の永遠な裏書と確証とのほかにはもはや何ものをも欲しないためには、どれほど君は自己自身と人生を愛惜しなければならないだろうか?──』

    上記の「もしこの思想が君を圧倒したなら、それは現在あるがままの君自身を変化させ、おそらくは紛糾するであろう。」は「永劫回帰を肯定するなら、今ある自分自身を絶えず超克していくこと、破壊しては創造していくことが必要となろう。(そうでなければ永劫回帰は変わらない自分を未来永劫繰り返すという悪夢にしかならない)」と解釈しています。

    > 上巻の「三段の変化」は、自由の精神や新しい価値の創造について言っているだけで、自己超克は関係ないように思うのですが。

    精神の三変化も自己超克の譬えだと私は思いますが、らみぃ〜が関係ないと考える理由はどんなところにありますか。

引用返信/返信 削除キー/
■268 / inTopicNo.16)  徴が出た理由
□投稿者/ らみ -(2017/06/08(Thu) 19:52:29)
    ああ、見落としてました。

    ツァラが自分も共感するところのある、ましな人間たちへの同情を断ち切ったことですよね。
引用返信/返信 削除キー/
■267 / inTopicNo.17)  Re[16]: 死と永劫回帰
□投稿者/ らみ -(2017/06/08(Thu) 18:07:13)
    こんにちは!

    なんか最近トップページでbbsのクリックができなかったり色々変じゃないですか?



    そうだ、パニって確か真夏生まれでしたね(^^)!

    蛇の説明もありがとうございました!



    パニは数冊ツァラ持ってるんですね。
    好きな訳者さんだと買う、とかなのでしょうか。
    わたしは訳者さんは誰でも良いので、この本は電子図書で買いたかったです。それでワード検索するんです。どこに書いてあったか忘れてしまった言葉とかを。




    >> >未完成のもの、未熟な未人は永遠を欲する。

    >> ここなのですが、未熟なものが欲すのは永遠ではなく、自分自身ではない強いもの、明るいものだとあります。



    >同意です。
    >未熟な者が欲するのは「より自分らしくありたい(現状の自分ではない自分でありたい)」の運動(生)を肯定する自己超克ですね。完成は停止であり、自己超克は生という名の運動。
    つまり永遠の未完こそが自己超克の源泉でもあり、永遠を好むってことだと思います。


    わたしが、この酔歌の章に拘る一つの理由として、次のラストの章でツァラに初めて「徴」が現れますよね。なので、今迄の章では語られなかったはずの何かが絶対に語られてると思うのです。それなしには永劫回帰の教師にはなりえない何かが。。

    生意気にすみませんが「永遠」という言葉はこの章では真夜中の属性として語られてると思うので、そう使われてないことに違和感を感じてしまうのです。


    パニの解説ではいつも、自己超克と永劫回帰が一セットになっていると思うのですが、今更ですみませんが、「自己超克と永劫回帰」の繋がりが書かれてる場面てありますでしょうか。

    上巻の「三段の変化」は、自由の精神やや新しい価値の創造について言っているだけで、自己超克は関係ないように思うのですが。







引用返信/返信 削除キー/
■262 / inTopicNo.18)  死と永劫回帰
□投稿者/ パニチェ -(2017/06/04(Sun) 10:47:13)
    2017/06/04(Sun) 19:56:39 編集(管理者)

    おはようございます!らみぃ〜♪


    No261に返信(らみさんの記事)
    > 遊んで暮らしてらっしゃるようで、よかったです(^^)

    おおきに♪もちろん、仕事もしてますけどね。^^

    > ところで、最近なんさんのツイッター見ましたか?私も一度ここで書きましたが、もし何のことか意味不明ならば、ツイッター御覧ください(もう既にどこかで声かけされていたらごめんなさい)

    見ました。落ち着いたらここにも戻って来て欲しいですね。
    なんさんが旧BBSで作ったつぶやきトピ「ドゥーシウムクトゥー」トピもラミィ〜が指摘してくれて2ができたことだし。^^

    > 酔歌の6の部分になります。
    > |(縦線)で始まる箇所がいくつかありますが、その二つ目の「いまそれは死にたいと思う。幸せのあまり死にたいと思う」と。あなたがたましな人間たちよ、あなたがたのところへは匂ってこないのか?ひそかに湧き上がる一つの匂いがある。

    ありがとうございます。どこの箇所か分かりました。

    > 更に岩波書店p321での「ましな人間たちよ、あなたがたの所へは匂ってこないのか?ひそかに湧き上がるひとつの匂いがある」というツァラの考えがでてきます。
    > その湧き上がる匂いというのが、「また戻ってきてくれ!」という永劫回帰なんでしょうね。
    > ここでの場面の永劫回帰は、「未熟な人間にとっての然り!」というよりむしろ、完全に熟したはずのものが、さらなる深い苦悩を欲しがる、というニュアンスを感じます。

    ちくま学芸文庫版では「秘めやかに或る匂いが湧き上がって来る」、白水社版では「ある匂いが、秘めやかに立ち昇って来るではないか」と訳されており、白水社版でこの章は「酔歌」でなく「夜にさすらう者の歌」になってます。
    この返信では、まず「或る匂い」に限定して述べてみます。ちくま学芸文庫版の註釈で参照にすべき箇所とされているのは「やがて現れるであろう超人(超人は永劫回帰と運命愛の体現者なので、もちろんそれらの臭気も漂っているとは思います)の匂い」となっています。

    私はこの「或る匂い」は「永劫回帰と死の匂い」と解釈しました。これに対して正午は「永劫回帰と生」ではないかと。
    真夜中も正午も同じものの表裏であり、そのひとつが死であり、一方が生ということです。
    で、真夜中に漂う臭気とは死の匂いがする永劫回帰、これに向かって、最も醜い人間は「酔歌」の冒頭で「<これが──生であったのか?>と、わたしは死に向かって語ろう。<さあ!もう一度!>(酔歌1-5)」と述べます。

    > あとそうでしたね、ツァラさんのお友達は獅子ではなくて蛇と鷲でした。
    > ツァラが蛇を選んだのは、地を這う動物というのと脱皮をするということがポイントだったのでしょうね。

    同意です。さらに蛇には以下のような意味があると思います。このサイトのPanietzsche>ニーチェ2>ツァラトゥストラの動物>1.蛇からの引用です。

    --------------------------------------------------------
    大地を這いまわり、超人が立脚する大地に根ざした二次元動物の蛇は鷲とともにツァラトゥストラの友である。
    脱皮し続ける蛇は自己超克の象徴でもある。

    大地の主であり、遥か昔に手足を退化させ現在の体形に至った。
    そういう意味では完全体と言ってもいいかもしれない。

    旧約聖書では、蛇はアダムとイブをそそのかした動物として悪者にされている。
    古代エジプト(BC1500〜1450)の「アラン(アモン)・ラー」への信仰では蛇は聖なる動物である。。
    ツタンカーメンの黄金のマスクの頭部や玉座にも蛇があしらわれているのはこのためであり、ツァラトゥストラでは永劫回帰の象徴として再び蛇が鷲とともに聖なる動物として採用された。

    「正午の太陽」とは、彼岸や審判、背後世界に生の意味や価値を求める思想を「夜の哲学」と批判し、これに対抗して打ち立てた「永劫回帰」や「運命愛」を代表とする超人思想のことである。

    鷲は上昇気流に乗り円を描きながら、より高みへと上っていく。
    蛇は高みで旋回する鷲の首に螺旋状に巻き付く友である。
    鷲と蛇の高みへの循環こそ永劫回帰の象徴である。
    --------------------------------------------------------

    > うちで飼っていた凶暴なザリガニちゃんは脱皮に失敗して片側のハサミと殆どの手足を無くしてしまいました。脱皮をすることを優先して、ハサミがどうしても抜けなければ、なんと自分でもぐそうなんです。内臓もちょっと飛び出していました。本当に見るも無残な姿でした。

    これ凄いですね。脱皮にこれほどのリスクがあるとは知りませんでした。教えてくれてありがとう!^^

    > 簡単なことではなく、まるで出産のように命がけなことなんですね>脱皮

    いや、ほんとその通りですね。
    苦痛とリスクを伴う絶えざる自己超克(脱皮)より、幸福のうちに死ぬことへの憧憬がよく分かります。

引用返信/返信 削除キー/
■261 / inTopicNo.19)  Re[14]: 最も醜い人間
□投稿者/ らみ -(2017/06/03(Sat) 23:22:04)
    こんばんは、レスありがとうございます♪

    遊んで暮らしてらっしゃるようで、よかったです(^^)


    ところで、最近なんさんのツイッター見ましたか?私も一度ここで書きましたが、もし何のことか意味不明ならば、ツイッター御覧ください(もう既にどこかで声かけされていたらごめんなさい)



    レスですが、こちらだけ先にさせてもらいますね。


    >>更に岩波書店p321での「ましな人間たちよ、あなたがたの所へは匂ってこないのか?ひそかに湧き上がるひとつの匂いがある」というツァラの考えがでてきます。


    酔歌の6の部分になります。

    |(縦線)で始まる箇所がいくつかありますが、その二つ目の「いまそれは死にたいと思う。幸せのあまり死にたいと思う」と。あなたがたましな人間たちよ、あなたがたのところへは匂ってこないのか?ひそかに湧き上がる一つの匂いがある。


    なのですが、説明が下手なのでわかりづらかったら仰ってください。



    あとそうでしたね、ツァラさんのお友達は獅子ではなくて蛇と鷲でした。

    ツァラが蛇を選んだのは、地を這う動物というのと脱皮をするということがポイントだったのでしょうね。

    うちで飼っていた凶暴なザリガニちゃんは脱皮に失敗して片側のハサミと殆どの手足を無くしてしまいました。脱皮をすることを優先して、ハサミがどうしても抜けなければ、なんと自分でもぐそうなんです。内臓もちょっと飛び出していました。本当に見るも無残な姿でした。


    簡単なことではなく、まるで出産のように命がけなことなんですね>脱皮



引用返信/返信 削除キー/
■260 / inTopicNo.20)  Re[16]: 未熟なものが欲するもの
□投稿者/ パニチェ -(2017/06/03(Sat) 08:23:46)
    2017/06/03(Sat) 08:35:09 編集(管理者)

    No214に返信(ramiさんの記事)

    > >未完成のもの、未熟な未人は永遠を欲する。

    > ここなのですが、未熟なものが欲すのは永遠ではなく、自分自身ではない強いもの、明るいものだとあります。

    同意です。
    未熟な者が欲するのは「より自分らしくありたい(現状の自分ではない自分でありたい)」の運動(生)を肯定する自己超克ですね。完成は停止であり、自己超克は生という名の運動。つまり永遠の未完こそが自己超克の源泉でもあり、永遠を好むってことだと思います。

    > 未熟なものたち→自分では無く強い子どもを求める、憧れの気持ち
    > ましな人間→この世が熟れたときに幸せのあまり死にたいと思う気持ち

    幸せと未完成は少し意味が異なりますが、ニーチェがどうしようもない人間と考えているのは、自己に対して何の不満足も欲求も否定や批判もない安易な自己肯定で甘んじて自己超克を欲しない者たちだと思います。

    > 更に岩波書店p321での「ましな人間たちよ、あなたがたの所へは匂ってこないのか?ひそかに湧き上がるひとつの匂いがある」というツァラの考えがでてきます。
    > その湧き上がる匂いというのが、「また戻ってきてくれ!」という永劫回帰なんでしょうね。
    > ここでの場面の永劫回帰は、「未熟な人間にとっての然り!」というよりむしろ、完全に熟したはずのものが、さらなる深い苦悩を欲しがる、というニュアンスを感じます。

    すみません、岩波版は持ってないので、ここページ数ではなくて、どの章のどの部分かを提示してもらえると有難いです。

    > なんとなく、以前パニにも聞いたことあったと思うのですが「この世は深い、昼が考えたよりも更に深い」の意味がわかりかけた気がするんです。
    > 次の昼がある、ということそのものが証というか、前の夜で嘆きの深さより深い永遠を求める気持ちが勝ったということではないでしょうか。
    > でなければ、夜に熟れた状態のまま死ねば良いことになる、と思うのです。

    永劫回帰の思想は暗黒面があるあらこそ正午があるということではないでしょうか。
    正午が満月なら、夜は未完成やニヒリズムの象徴でもある14番目の月だと思います。

引用返信/返信 削除キー/

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