| 『純粋理性批判』は、原理論と方法論に大別されます。 原理論は、 TRANSCENDENTAL DOCTRINE OF ELEMENTS. と訳されてます。
ELEMENTS(要素)、日本語でもエレメントって使いますよね。
『純粋理性批判』においては、何のエレメントかというと、
私たちの一切の(客観的妥当性のある)認識のELEMENTS(要素)みたいです。
中山元訳本、2、p18に、 『このように直観と概念が、わたしたちのすべての認識を構成する要素である。』 という文言があります。
該当部分の英訳は、 Intuition and conceptions constitute, therefore, the elements of all our knowledge, so that neither conceptions without an intuition in some way corresponding to them, nor intuition without conceptions, can afford us a cognition. 〈直観と概念は私たちのすべての認識(knowledge)の要素を構成するのであり、直観を持たない概念も、概念を持たない直観も、認識になれない。〉
というわけで、この第一部門の原理論に、認識の二大要素(エレメント)の 感性論〈直観〉と悟性論〈概念〉がおさめられてるのですね。
で、
今はその感性論を読み始めてて、感性の形式には、空間(外的な直観の形式)と時間(内的な直観の形式)がある、ということで、、、とりあえず空間のとこ書いてます。
外的なもの認識するの、一般的には空間認識しますよね? 少なくとも、私は、感受するものが位置を持ってます。 位置を持つ、その土台、が、アプリオリな像としての空間だとカントは言ってる、と、今の所理解してます。
アプリオリ、だから、人間なら、みんな共通としての空間の像を備えてる、ということかな、と。
その共通の像に、各人が、個人的経験的アプリオリ的に、感受したものをそれぞれ固有的な座に表象させてるかと。
人間自体が個体で空間的に位置もってますからね、見る位置からの角度が変わりますからね、表象される座標もかわりますよね。
現象させるための空間という像(形式)はアプリオリで、 現象の素材はアポステリオリ。
カントの考え方が無理筋かどうかはさておき、とても面白い考え方だなー、と、感心します。
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