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Re[10]: 純粋理性批判B135.136あたりの英訳
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□投稿者/ pipit -(2022/05/08(Sun) 08:22:31)
| 2022/05/08(Sun) 08:28:23 編集(投稿者)
みなさま、おはようございます
No23134の続きです。
(原文のJ. M. D. Meiklejohnさんの英訳) An understanding, in which all the manifold should be given by means of consciousness itself, would be intuitive; our understanding can only think and must look for its intuition to sense.
https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#chap43
(英訳のpipit意訳) すべての多様が意識そのものによって(実存的に)与えられる知性は直観的であろう。(=直観できる知性・知的直観);
だが私たち(人間の)知性は、ただ考えることができるだけであり、直観は感覚に求めなくてはならない。
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(pipit雑感) 純粋理性批判は【何を知ることができるか?】という理性の認識の仕組みがテーマなので、上記のような表現になっていますが、
【何を為すべきか?】がテーマの実践理性批判になってくると、人間でありながら知的直観を認めてくる場合もあるのかな、と、中山元先生の訳注↓を読んで思いました。
※他箇所に出てくる【知的直観】の中山先生による訳注 『純粋理性批判1』カント、中山元先生訳p263より引用。 『(41)カントは主観がみずからを現象ではないものとして直観する営みを「知的直観」と呼ぶ。この奇妙な概念は、人間は道徳などの実践においては、物自体として行動することができるが、認識する場面においては、物自体としてふるまうことができないことを示すために用意されているのである。』 引用終了
※カント哲学は解釈が様々なので、中山先生以外の解釈もあると思っています (^^;)
知る、という働きにおいて知性には、実存を現前(直観)させることは不可能だが、 為す、という働きにおいて、知性には、実存を現前(直観)させることが、、、どうなのかなぁ、まだ『実践理性批判』は購入さえしてないからなぁ 実理に進んだ時のおたのしみ、ですね (*^▽^*)
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