| 2022/05/08(Sun) 07:11:40 編集(投稿者)
パニチェさん レスをありがとうございます。 また、本の紹介、ありがとうございました。 引用については、とりあえず結構です。ありがとうございます。 ググったら、そういう関係の論文も読めそうなので、余裕ができたらまた読んでみます。
白鳥さんの件、私が言い出しっぺですが、パニチェさんの見解については、私はノーコメントということで(笑) ま、私の言を信じず、自身で確かめられたほうがいいかも^^
それと、繰り返しになりますが、やっぱりキリスト教のドグマという言い方が気になりますね。 キリスト教がドグマなら、無神論もドグマ、仏教もドグマ、聖書がフィクションなら仏典もフィクション、というのが私の見解です。 もちろん、物語としては聖書も仏典もこの現実世界と相対的に区別してフィクションと言えますし、それはギリシャ神話であろうが、ドストエフスキーであろうが、芭蕉の句であろうが、同じことです。 しかし、フロイトがエディプスの物語を人間精神の構造を示すものとして解釈したように、これらはすべて人間のリアルを描出しています。 しかし、それらは「示されている」のであり、それは解釈によって見出し得るものなのです。 例えば、芭蕉の句、たとえば「閑さや岩にしみ入る蝉の声」という句は、松尾芭蕉という人物が江戸時代に山形県の立石寺での経験を詠んだ作品ですが、私はそれを今此処に立ち現れる《私》の経験(リアル)として読みます。聖書にせよ、ドストエフスキーの作品にせよ、語られた歴史的事実は現代日本の私たちには無関係なものにすぎませんが、《私》のリアルを描いている、と読めます。ニーチェだって同じでしょう。これ、自分のことを言ってる、って思った若者は多いはずです。 つまり、聖書が示しているものにこそ宗教的意味があるのに、パニチェさんは語っているものにしか目がいかず、それゆえに荒唐無稽なフィクションにすぎないと思っているんじゃないでしょうか。 言い過ぎかもしれませんが、語られているものは、本当はある意味どうでもいいのです。 それが示しているものこそが真に重要なのです。 また逆に、真に重要なものは、語られ得ず、ただ示され得るだけなのです。 それゆえ、解釈が必要であり、また、文学・芸術・宗教等は、その理解=解釈に深浅があるのです。一義的ではない、ということです。物語(テキスト)の解釈は主体的行為なのです。
…って、また、断言してしまった(笑)
今、knowingitselfさんと対話されているようですが、参考までに、「原罪」についての私の極浅解釈をアバウトに述べておきます。
自然的存在である動物は罪を犯しません。 本能が壊れた動物と言われることもある人間は、自然から逸脱した存在であり、 それは知恵・言葉(ロゴス)を有することと同等です。 そして、それは人間が罪を犯す動物である(倫理的動物・地球をも破壊しうる動物)、という事実とも同等です。 その意味で、人間が知恵をもつということは、人間が悪をなしうることを可能ならしめた条件でもあると言えるのではないでしょうか。 そして、このことは、私が人間である限り、常に既にそうであらざるをえない人間の根本条件とも言え、いうなれば知恵・言葉(ロゴス)をもつことによって初めて悪をなしうる(罪を犯し得る)存在=人間となったという意味で、それは「原−罪」である、と言えるのではないでしょうか。
あくまで、これは非キリスト者であるふくろうの、個人的解釈にすぎません。 聖書を携えて歩む信仰者は、それぞれの人生において、聖書のリアルな意味=実存的意味を見出すのだと思います。 ************************ パニチェさん、ここまで言いたいことを言わせてもらい、ありがとうございました。 とりあえず、今回、私からは以上にさせてもらいたいと思います。 パニチェさんが言い残されたことがあれば、述べていただいてもちろんかまいません。 それに対して、どうしても言いたくなったらレスをするかもしれませんが(笑)、一応、私のレスは以上ということでお願いします。
【「原罪」についての補足】 私は時折、私もそうであるところの“人間”というもののどうしようもない罪深さを感じざるを得ないことがあり、そしてやりきれないことにそれが人間のアプリオリな本質·本性とも思われます。 控えめに言っても、地球上で最も邪悪な生き物とは何かという答えは人間以外にないように思います。 地球をも破壊し、全生物を死滅させる能力、〈知恵〉をもつことは、いわば人間が人間になったとき負ってしまった〈原罪〉ではないか? このことにおいてーー私はけして反出生主義者ではないのですがーー人間は消え去るべきであるとする思想が分かる気がするのです。
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