□投稿者/ pipit -(2022/05/04(Wed) 15:20:54)
| 2022/05/04(Wed) 17:14:33 編集(投稿者)
うましかさん、沼こんにちっすー こちらは五月晴れだけど寒いすー o(・x・)/
■No23052 > カントは、感性的な直観の形式を顧慮しなければ、物の実在性がその条件ないしは固有性として私たちの感官には与えられないと考えているということかな(;´・ω・)<
私見書きます。 カントは、物、と、物自体、を概念的に区別していて、 『物の実在性』というときは、 感官経由に与えられたデータから作られた一つとしての対象、を、『物』としてるのではないかなと思いました。 そして、その『物』対象を作る過程で、純粋知性概念である【実体】なども使用されているし、知覚の実在性なども全部『物』に関わる(コネクト、付与)されるものかと、思いました。 対象の二重性については、第二版序文]][(中山元先生訳本第一巻p172)の『しかし批判は、客体を二つの意味で、すなわち現象としての客体と、物自体としての客体として考えることを教えるのであり、』を思い出しました。
> 時間の超越論的な観念性とは、生まれた時から嵌め込まれていた色眼鏡によって生じた(見られた)色の限界を示しているのるのかなー?(;´・ω・) もしその色眼鏡を剥がしてしまったら、それによって生じていた色は何ものでも無くなる…??<
最近わたし、集合、とかの概念も気になってるんです。
目で見る色の集まり、と、 耳で聞く音の集まり。 違う集合体なのに、対象として一体化する。
限界、とかも気になってて、 私が先に例え話で色眼鏡を出したから、うましかさんは色の限界、と、表現されましたけど、
色眼鏡で見える色と、外した色と、対象は同じ色という類仲間で、その時の、それは青色ではなかった、という否定表現と、
色と音の対象としての違い、例えば、冷蔵庫の音を、それは白色ではなかった、という否定表現、
もしこの両者を区別するなら、 現象と物自体は一つの集合体内における否定関係ではなく、 現象という一つの集合体【ではない】という表現によって、現象の集合体を限界づけるのが、物自体ではあるけど、物自体として集合体となってるのかどうかは、確定されてないような。。。
ここらへん、勉強したいと思いながら、まだ石川求先生の本、全く読んでません。
> (-ω-;)ウーン > > 事実「逃れられない」ならば、"逃れられないこと"すら意識はできない、とも"言えます"(・・;) 言葉ってありがたいですね。辛うじて「逃れている自分」を(たとえそれが錯誤であったとしても)感じられる余地は与えてくれますから。<
純粋理性批判第二版の序文 ]]Z 中山先生訳本第一巻p171 『ここで注目しなければならないのは、わたしたちはこの対象を物自体として認識することはできないものの、少なくとも思考することは可能でなければならないという考えが、まだ保持されていることである(注)』
で、同p177のカントによる注釈箇所 (第二版序文]]E) 中山先生訳本第一巻p177 独自タイトル『V14n 概念の客観的な妥当性』 あたりが、うましかさんのご興味に関連あるのかな???と思いました。
> > >感覚のすり替えって何でしょうか? (pipitさん) > > おお! 実はうましか、この「すり替え」と訳された"Subreptionen"で立ち往生しました。原佑訳では「詐取」とあり、??(;´・ω・)と。手持ちの独和辞書には載っていないいないため、他の訳で調べたところ、有福孝岳訳では「もろもろのすり替え」、石川文康訳では「虚偽陳述」、宇都宮監訳では「すり替え」とありました。 > > ところで、この"Subreption"って、この概念だけで、研究テーマになるらしいのですよ!沼ですねー (/・ω・)/ > > https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy1952/2000/51/2000_51_210/_article/-char/ja/
よく探されましたね!!
ほんの少し冒頭を読んだのですが、やっぱりカント先生のせいや、と、恨みつらみでそうな気が ( ̄▽ ̄;)
先程思い出したのですけど、 黒崎政男先生の『カント『純粋理性批判』入門』講談社選書メチエ p64- 『3 伝統的な真理観』の箇所も、もしかしたらうましかさんのご興味の箇所かなあ、そうだったらいいな、と、思いました。 N・マールブランシュの言葉として、 『感性と想像力は誤謬や錯覚のつきせぬ源泉である。』 などもあって、カント以前の伝統的真理観についての説明が少しあります。
書き込みありがとうございます!うれしいです p(^_^)q
沼が思いのほか役立ったらすてきだな
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