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No22898 の記事


■22898 / )  Re[35]: リアリズム
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2022/04/27(Wed) 18:49:26)
    >パニチェさん
    こんばんは。

    No22884に返信(パニチェさんの記事)
    > 2022/04/26(Tue) 21:33:12 編集(投稿者)
    >
    > 人生で起こる出来事に偶然などない。すべては必然であり起こるべくして起こる。
    > これらには全て意味や価値があり、無意味なことなど何もない。。。。
    >
    > 。。。などという台詞は能天気な有神論者や己が成功者だと自惚れている人間が語る戯言や寝言や自慢話でしかない。
    >
    > 生まれたばかりで飢え死にする子、監禁され輪姦されたあげくに惨殺された少女
    > 不慮の事故で命を落とした人たち、戦争や紛争の犠牲者などなど
    >
    > これらの人たちに起こったことも必然であり全てに意味や価値があるというのか?
    > 人生で起きることに意味や価値などないし、人生自体にも意味や価値などない
    >
    > 神は死んだ。。。。
    >
    > 逆説的に言えば意味も価値もない無垢なるキャンパスだから
    > 言語的動物である人間どもは、そこに意味や価値を創出する特権を有しているということ
    > これがニーチェの主張であり、ニヒリズムこそ究極のリアリズムだろう。
    > 世界や人生に意味や価値を付与しうる創造者とは神仏などではなく己自身である。
    >
    >
    > 『唯識無境(外界とは自己が対象化されたもの)、万法不離識(すべての外界は見るものの心を離れない)』
    >
    > 『ニヒリズムとは何を意味するのか?──至高の諸価値がその価値を剥奪されるということ。目標が欠けている。「何のために?」への答えが欠けている。(ニーチェ「力への意志 第2番」より)』
    >
    > 釈尊の遺言『自洲・法洲(この世で自らを島(洲)とし自らを頼りにして他人を頼りとせず、法を島(洲)とし法を拠り所として他を拠り所とせずにあれ。)原始佛典『大般涅槃経』より」
    >
    ********************

    いつもパニチェさんに反対してばかりいるようで申しわけない気がしますし,また,こういったことは個人の世界観・人生観の問題でもあるので,反論ぽいことはあまり言わないほうがよいのではないかとも思います。
    なので迷ったのですが,しかし,今回のパニチェさんの見解で明らかに否定されている世界観・人生観に立つ者としては,やはりそれに対する弁明というか,自己正当化の議論だけでも提出したいと思い,投稿します。
    ******************

    私は特定の教義・教団宗教の信者ではありませんが,真・善・美を生=世界の超越的意味として,言いかえると絶対的当為の根拠として信仰する者と言ってもよいのではないかと自分では思っています。
    ま,簡単に言えば,“真善美を神とする信仰者”ってことです。
    例えば,私の世界観から言えば,芸術家はみんなヴィーナスの信者である,という感じです。その意味で,私は一応ミネルヴァの信者だと思っています。
    また、普通の意味での宗教的世界観も尊重しています。
    以下は,このような観点から見た感想ということになります。

    例えば,歴史的建造物,遺跡を故意に破損・破壊する者に対して,私たちは憤りを覚える場合がありますよね。
    それは,その歴史遺産に価値がある,ということが前提になっています。
    何の価値もないものを壊したって,普通は憤らないでしょう。
    その対象に対して価値,存在意義を認めているからこそ,それを故意に傷つけたり破壊するという行為に対して憤りを覚えるわけであり,その行為は「為してはならぬこと」という必然的意味をもつわけです。
    言いかえると,破壊行為が「なしてはならぬこと」である根拠が,その対象の存在意義である,ということ。

    同様にと言うべきかそれ以上にと言うべきか,いずれにせよ,パニチェさんが言うように,この現実世界においては不条理と言いたくなる悲惨な出来事というのは数多く存在します。
    特に,純粋無垢な幼児の命が無慈悲に奪われたりすると,それを正当化するいかなる理由・根拠もありえないと我々は感じます。こういったことをもって神などいようはずがない,というようなことはよく言われることです。少なくとも感情的には,それに共感する人も多いのではないでしょうか。
    しかしながら,なぜ私たちはそこに憤りを覚えるのでしょうか?
    先に述べたように,その幼児という存在が存在することの意味,尊厳を前提しているからこそではないでしょうか。
    もし,幼児,あるいは人の存在に何の意味も価値もないのであれば,その命を奪ってはならないなどとは言えない,というのが素直な理屈というものではないでしょうか?
    その生命は,「奪ってはならないもの」という必然的意味を有するものであるからこそ,その行為は「悪」という倫理的意味をもつのではないでしょうか。

    現実の生世界において,不条理は存在します。
    いやむしろ,カミュが描き出したように,現実世界は不条理である,と言ってもよいでしょう。
    しかし,だとしてもこの事実は,生世界に意味がないことを帰結しないと私は考えます。
    例えば,社会における言語ゲーム,その現実のプレイ=言語実践では,言葉の非論理的使用(不条理な言語行為)が存在し,ゲームを無意味化してしまうことは実際にあります。
    とは言え,そのことから言語そのものが無意味であることが帰結しないのも事実でしょう。非論理的言語活動は,有意味な言語を前提とするのです。
    つまり,そもそも不条理の認識は,条理の存在を前提しているのではないか,ということです。
    すなわち,条理なきところに不条理なし,ということ。
    ******************************
    ニーチェは「神は死んだ」と言った。
    とりわけ日本人にとって,この言葉の意味は,たぶん理解するのが相当に難しい。
    西洋的・キリスト教的な神を,もともと日本人はもっていなかったから。
    すなわち,生=世界の意味の絶対的根拠としての神の死。
    だから,私はずっと,この言葉は少なくとも,ドストエフスキーの次の言葉とセットで意味を考えられるべきだと思ってきた。
    「神が存在しないなら,すべてが許される」
    そもそも,人の存在に,生に意味がないのであれば,それを奪ってはならない,ということは言えないはずだ。
    それを悪とする絶対的根拠(神)が存在しないなら,そこに絶対的当為は存在しない。
    だったら,はく奪者にとって,被はく奪者の存在意味は,自分に奪われることにおいてのみ存在する。そう考えることに何の不都合があるだろう?(ラスコリニコフ問題?)
    生=世界に超越的・絶対的意味が存在せず,その意味,根拠が主観の裡にしか存在しないのであれば,すべての意味・価値の根拠は,畢竟人間主体の〈欲望〉に帰着するほかはない(欲望論的世界観)のだから。
    そしてそれは,あらゆる意味・価値が,「誰か(たち)にとっての価値」,すなわち相対的価値(誰か(たち)の欲望依存)にすぎないということを意味するだろう。
    いわば,「正義とは,それぞれの正義である」。(アメリカの正義,EUの正義…etc.)
    とすれば,超越論的規範(絶対的当為)としての人倫は存在せず,道徳とは,原理的にはせいぜいある共同体において承認され受け入れられたルールでしかない。
    当然,その共同体外部に置いては無意味ということになろう。
    ラグビー選手にとって,サッカーのルールが無意味であるように。
    人は本当にこのような世界観を受け入れることができるのだろうか?

    【ふくろうの信念要約】
    戦争の犠牲者にも,惨殺された少女にも,虐待死させられた幼児にも存在意味はある。
    彼ら彼女らの存在が,無意味であったなどということがあろうか!?
    存在の意味こそが,「奪われてはならない」という絶対的当為(必然性)の根拠なのだ。
    生世界は確かに不条理ではあるが,けして無意味ではない。
    ******************
    例によって,長くなりました。
    前述したように,議論を目的とした反論を意図してのものではありません。
    とは言え,内容的にはやはりパニチェさんの見解への批判と受け取られても仕方ない点もあるので,もし私の述べたことに対して反論があるようでしたら,それはご自由にどうぞ。
    もちろん,信念の違いだね,ということでスルーされるのもご自由に。
    また,どなたでもご意見があればどうぞ。

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