■22006 / ) |
Re[26]: pipitさまへ
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/04/03(Sun) 11:51:54)
| pipitさま、読んでくれてありがと。
>悪魔ちゃんには少しクセがありすぎかもだね。< う・ふ・ふ (*^▽^*)、そうよ〜、わたしクセ者(怪しい者)、だって悪魔ちゃんなんだもの。
>pipit私見では、中山先生の訳においては、Apperzeption=自己統合の意識=統覚と捉えてるよ。< >中山先生は、Apperzeptionの一単語を「自己統合の意識」と訳してるのだと思ってるよ。< なるほど〜。
>かなり中山先生の見解も訳に盛り込まれている感じもあるしね。< わたしもそんな感じに見える。
>自己統合の意識=統覚 で考えてみると、悪魔ちゃん的にはどうなるのかな??< 中山さんの「自己統合」っていうの、さっぱりでわかんない。ここでは中山さんの「統覚」の意味(「自己統合の意識」の意味)はひとまず横に置いとくね。
>例えば「私は考える」としゃべる音源機械があるとして、音源機械は自分に気付いてるから「私は考える」としゃべってるわけではないよね?音源機械にとって「私は考える」としゃべることがアプリオリ(経験より前に)決定されてるとき、音源機械が自己の存在に気づくか否かは、しゃべる原因になってないと思うんだ。< ごめん、これ、わたしよくわかんない。でも思ったことを言っちゃうね。「機械」が、よね。機械が「私は考える」って喋ってるのよね。このとき機械は、「私は考える」って喋ってるのは誰?とは問わないし、そもそも「私」ってなあに?なんて考えないんじゃないかしら。
No21790あたりのにわたしがどうしてこだわっているのかっていうと、 カントは「Apperzeption(統覚)」っていうのどう見てるのかな〜?って思ったのね。
以下は、現象学のわたしのから見たカントの「統覚」について、わたしに分かりやすくするためのお話しね。
でね、どうやらフッサールは二種類の[Apperzeption(統覚)]を見てるようなのね。 『デカルト的省察』のなかに、
【…私の原初的領分の内部での、あそこにある物体を私の物体と結びつける類似性のみが、前者を他の〔他人の〕身体として「類比によって」捉えるように動機づけるための基礎を与えることができるということは、初めから明らかである。それゆえ、それは或る種の類似にもとづく統覚という把握の働きであろうが、だからと言って、それは類推〔類比推理〕なのではない。ここで言う統覚とは推理ではないし、思考作用でもない。】
【…では、どのようにして統覚が生じるのか、さらに、どのようにして統覚はその意味と意味の地平を通じてそれ自身でその発生を志向的に遡って指示しているのか、については非常に多様である。対象的意味の段階形成には、統覚の段階形成が対応している。結局、私たちはいつも二種類の統覚の根本的な区別に戻ってくることになる。一つには、その発生からして純粋に原初的領分に属するような統覚と、もう一つには他我という意味とともに現れ、より高次の発生のおかげで、この意味のうえに新しい意味を積み重ねるような統覚、という二つの統覚の区別である。・・・】
ってある。
No21977で、わたしが、 >ここからは、カントは[Apperzeption〈統覚〉]を[der empirischen〈経験的(統覚)〉] と[reine Apperzeption〈純粋統覚〉]に分けてるっていうことだけを抽出しとく。< って見たように、カントも「統覚」を二種類に分けて見てるんじゃないかって(あ、逆にフッサールがカントに習って、かな?)。カントの場合、「経験的統覚」と「純粋統覚」って呼んだ二種類の統覚に、かな。
「Apperzeption(統覚)」なんだけど、 「現象学事典」に、
〔〈統覚〉は基本的には〈統握〉と同義である。『論理学研究』Uでは、しばしば〈統覚〉と〈統握〉は並置され言い換られている。この並置は、ApperzeptionがPerzeptionとの伝統的な対比によって(高次の知覚だという)誤解を生むのを避けるためである。‥‥このように〈統覚〉は〈統握〉と基本的に同義であるが、しかし、後者に比べ、前者は何かと何かの〈結びつき〉という意味を、より強く与えられていると言える。…なお〈統覚〉の語はカントと深く関わる。カントは「純粋統覚」(根源的統覚)を「我思考するという表象を産み出すところの自己意識」だとしている。これによって、直観に与えられる多様な諸表象、一つの自己意識に属することが可能となる。…〕
ってあるんだけど、このなかの、〔カントは「純粋統覚」(根源的統覚)を「我思考するという表象を産み出すところの自己意識」だとしている。これによって、直観に与えられる多様な諸表象、一つの自己意識に属することが可能となる。〕っていうところ、おかげで分かった気がする。 あと、〔「純粋統覚」(根源的統覚)〕ってある。 「純粋統覚」を[reine Apperzeption]「pure apperception」、そして、田村さんや中山さんが[ursprungliche]を「根源的」て訳してるのと同じように、ここでも[ursprungliche Apperzeption]を「根源的統覚」って訳してるんだとすると、「純粋統覚」括弧(根源的統覚)、ということは、(a)[reine Apperzeption]を別名[ursprungliche Apperzeption]と呼んでいる、ってここでも見てるのかもしれない。
ひとまず、[Apperzeption(統覚)]には二種類ある、っていうところはカントとフッサールとは共通してるって見とくことにしたよ。
で、わたしの書いちゃうね。
「統覚」っていうの、わたし簡単に見ちゃって、精神において〈何かと何かを結びつける働き〉ってして、二種類の統覚ってうのを、〈感性における統覚〉と〈思-考における統覚〉ってしてる。
わたし、二種類の統覚、〈感性における統覚〉と〈思-考における統覚〉を名で区別するために、前者を〈統覚Apperzeption〉、後者を〈統握Auffassung 〉ってしてる。『デカルト的省察』の訳注に〔Apperzeption:Perzeption(もとはラテン語perceptioで、「知覚」の意)に前つづりAd-(「方向・接近・隣接・接着」の意)が付け加えられたもの。〕を〈知覚に接着した〉って見て、「現象学事典」で、〔統握の原意は理解・解釈であり〕ってあって、これは思-考におてのもの、って見ちゃってるから。
表象をおりまぜると、〈感性における多種多様な表象の結びつけ〉と〈思-考における多種多様な表象の結びつけ〉として、統覚と統握ね。
これからの課題は、田村さんが訳してるような、 『もはや他のどんなものからも導き出すことのできないような』「自己意識」[SelbstbewuBtsein] 「self-consciousness」が問題になるわね。わたしの表言では〈「私」ってなあに?〉っていうことになるのかな。
あと、「intuition(直観)」も問題ね。
こういうような話しができてわたしうれしい。
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