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Re[11]: 144 自己統合の意識とは
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□投稿者/ pipit -(2022/03/23(Wed) 23:39:36)
| みなさま、こんばんは。 No21728 >ちょっと先読み的になるけど、中山先生による、デカルトやバークリの説と比較しての解説もあったので、またカントの統覚概念を理解する助けとして、p370-372の中山先生の解説を次の投稿で引用させていただこうと思います。<
『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、光文社古典新訳文庫、p369-372より引用
(中山元先生の解説文章) 『(略)だからぼくがケヤキを意識したときは、その意識は白紙のようにケヤキの像を記録するが、その意識の後にキジバトの意識がつづくとき、ケヤキの意識は消滅してしまってはならない。 しかもキジバトの意識は白紙の上に書かれたように、真新しいものでなければならない。 しかもそれらの意識が別々の白紙のようにひらひらと宙を漂うのではなく、同じ〈わたし〉の意識のうちで統合されていなければならない。 「それでなければわたしは、自分が意識する像の数と同じだけの多様な異なる自己をもっていることになってしまうだろう」(145)。 この統合の可能性を実現するのが、ケヤキについての意識とキジバトについての意識につねに「伴うことができる」〈わたし〉の意識なのである。 この自己統合の意識は、〈わたし〉という意識のアイデンティティを確立するとともに、わたしのうちの複数の意識の統合を実現するのである。 この二つの統合において、「自己意識の超越論的な統一」(144)が成立するのである。
カントはこの自己統合の意識を「わたしは考える」と表現した。 これはデカルトの「コギト」と似た表現であるが、ここで目的とされているのは、デカルトのように、懐疑の対象とならない確実なものをみつけだすことではなく、 すべての直観作用とそれによる像を内的に統一する能力の存在を示すことなのだ。 「できるのでなければならない」(同)という表現は、それが「能力」であることを暗示的に示唆している。 〈わたし〉はたんに触発されて像を直観する存在ではなく、多様なもののマッスを一つの像に統一する能力をそなえた能動的な主体なのであり、その能力の働きが、この「根源的な自己統合の意識」(同)なのである。 この能力は「知性そのものなのである」(145n)というカントの力強い断言に注目しよう。
この根源的な自己統合の意識は、バークリ的な「観念論」のいう意味での「根源的な」自我ではない。 この意識は認識の起源であり、自発的な能力を持つという意味では創造的なものではあるが、この意識が成立するためには「さまざまな像の総合」が必要である。 〈わたし〉は一つの像を意識し、次に別の像を意識し、それらの像の総合を意識することで、自己を同一の主体として認識するのである。 「与えられたさまざまな像のうちに含まれる多様なものを、わたしが一つの意識のうちに結合できるときに初めて、わたしはこれらの像における意識の同一性をみずから心に思い描くことができるようになる」(145)からだ。 しかしこの意識の同一性は、さまざまな像を認識した後になってやっと事後的に成立するものではない。 「まださまざまな像の総合は意識していないとしても、そのような総合が可能であることを前提としている」(同)からである。 これは事態としてはアポステリオリにみえるとしても、事柄としてはアプリオリなものなのであり、これが超越論的な自己統合をもたらすのだ。その意味ではこれは人間が認識するためには「必然的なもの」(146)である。 この意識の同一性は、認識が成立するための二大原則の一つである。 この原則は「直観に含まれるすべての多様なものが、自己統合の意識の根源的で総合的な統一の条件にしたがう」(147)ことと、表現される(もう一つの原則は感性についての原則であり、直観されたものが、空間と時間という形式にしたがうことである)。』
いったんここで引用を終了しますが、この後に続く解説文も、わかりやすく感じます。 ので、また、読み進めるうちで対応箇所になると、引用させていただくかもしれません。
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