■20093 / ) |
『論考』の独我論解釈について
|
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/12/24(Fri) 17:31:55)
| 2021/12/24(Fri) 17:45:31 編集(投稿者)
パニチェさん
>ウィトゲンシュタインは「人間がミクロコスモスであるということは真である」と草稿で述べています。 >「私は私の世界である。(ミクロコスモス。)」であると同時に「人間がミクロコスモスであるということは真である」なら『論考』の独我論とは人間誰しもにとっての独我論ということになりませんか? >ザビビのふくろうさんは「人間がミクロコスモスであるということは真である」という言葉をどのように解釈されてますか?
結局,回答としては、これまでと同じことになりますね。 つまり、「私」を一人称代名詞として読むか,形而上学的主体として読むかどうかの違いに帰着すると思います。 「私は私の世界である(ミクロコスモス)」 「人間はミクロコスモスである」 という文を,私は両方とも形而上学的命題(超越論的命題)(語りえず,示される真理)として解釈します。
永井のように,「私」を一般的自我と解釈して, 「私は私の世界である(ミクロコスモス)」 を,主体それぞれに成り立つ(真である)一般的真理(語り得る真理)であると解釈するのと相即して,この 「人間がミクロコスモスであることは真である」 という文を,形而上学的真理を述べた文として解釈するのではなく, 「人間が死すべきものであることは真である」 と同様,人間主体それぞれに成り立つ(真である)ような一般的真理を表す文であると解釈する限り,『論考』の独我論は理解できないであろうというのが私の立場です(前述したように,その解釈だと主体各々にとってのミクロコスモスが(複数個)存在し,独我論になりえないし、下の等式も成立しえないから)。
つまり,No19961の【補足】で取り上げた『全集1 212頁』の唯一の「世界霊魂(形而上学的主体)」として「私」も「人間」も解釈すべきである,というのが私の立場であるということです。
そのように解釈するとき、そのときに限り、次の等式が成り立ち
私(形而上学的主体) =私の世界(ミクロコスモス) =(実在論的)世界(マクロコスモス)
ゆえに、 独我論=実在論 が成り立つ。 と言えるのです。
|
|