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No19900 の記事


■19900 / )  Re[18]: 形而上学的主体
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/12/12(Sun) 18:23:31)
    No19885

    パニチェさん,こんばんは。
    レスありがとう。
    また、面倒な質問にも答えてくれてありがとう。
    正直言うと、いろんな意味で納得いく回答ではないですが、それはお互い様だし、コメントするにしても私が永井について自説を述べてからのほうがいいと思うので、今回の回答についてのコメントは、今は控えます。

    >ただパニチェとしては何回か同様の質問には答えているつもりなので、これ以後はNo○○で回答済みですと返信させてもらいます。
    >あと、提案ですが互いの確認や質問には特別な理由がないかぎり返信するようにお願いしたいです。というのもどちらかが一方的に述べたい主張や興味のある方向へ誘導してしまうこともありえる(今回がそうだと思っているわけではありません)ので、そうなると他方がつまらなくなる、あるいは飽きてしまうことも(私の場合は・笑)あるからです。

    OKです。
    **********************
    以下は質問ですが。。。
    @ >・「5.641 哲学で非心理学的に自我を論じうる」というのは具体的にはどのようなテーマあるいは内容であると考えていますか?
    A >・ウィトゲンシュタインの独我論について前期と後期は同じですか、それとも前期独我論の破棄や何らかの変更や上書きなどがなされたと考えていますか?


    @ T:5.6番台で論じられているのはすべてそうですし、なので、テーマとしては、独我論はもちろんですし、超越論的主観等について論じることもそうです。
    あと、倫理学的な責任主体である意志する主体も、まさに生の形式としての「《私》の意志」ですので、T:6.423,およびT:6.43番台も、同様であると思います。
    なので、『倫理学講話』でも、「一人称」の話が出てきますが、これももちろん自我を非心理学的に論じている例です。

    Aこれは前にも言ったと思うんですが、『探究』でのテーマの一つは、『論考』の独我論批判ですので、全く同じではありえません。
    で、詳細はここでは省きますが、『論考』の独我論を「現象主義的独我論」と呼ぶことにすると、後期にこれは否定されます。では、いかなる意味でも独我論が否定されたかと言うと、私としてはそうではない、と思います。というのも、後期の観点から言っても倫理的言語ゲームや美学的言語ゲームなど、いわゆる生の意味に関する言語ゲームは本質的に主観的言語ゲームであり、その意味で本質的に「私の生の言語ゲーム」であることに変わりはありません。宗教的言語ゲームを含むこれらの言語ゲーム(以後、「超越的言語ゲーム」と言う)が何等かの意味で有意義だとすると、これら生の意味についての超越的言語ゲームの条件・限界である「私」も、何らかの意味で有意味であるはずです。
    で、結論としては、私は超越論的独我論としては生き残ったんじゃないか(その意味では上書きされたんじゃないか)、あるいは、ウィトゲンシュタインの考えは措いても、この超越論的独我論は『探究』の批判を超えて成立するのではないか、と考えます。これは、あくまで私見ですよ、念のため。

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