□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/12/11(Sat) 23:24:50)
| パニチェさん レスをどうも。
■No19879に返信(ザビビのふくろうさんの記事) >> pipitさん
>> レスをありがとうございます。
>> パニチェさんには悪いけど、普通はそうなると思うんですよ(笑)
>いえ、全然悪くないですよ。 >ここは私は同意してますし、これまで何度も形而上学的主体(哲学的自我)と述べています。 >言うまでもないですが上記をもって5.6から始まる文章で「私」イコール「形而上学的主体」か否かが決着するわけではないことは理解いただいているとは思いますが、念のため。。。
えーと、私がちゃんと説明しないとあなたも納得できないだろうから、決着はしていないってことに関しては、もちろんそれでいいんですよ。 ただ、「ここは同意してますし」ってことでちょっとわからなくなったので、パニチェさんの考えをはっきりつかむためにも、めんどうかもしれないけど確認させてください。
「語りえぬ形而上学的主体」と同じものか否か?
@ 5.641の、「自我(das Ich)」は同じでいいんですね? A 5.632の、「主体」はどうですか? B 5.631の、「思考し、表象する主観」はどうですか? C 5.63の、「私」はどうですか? D 5.62の、「私の世界」の「私」はどうですか? E 5.6の、「私の言語」および「私の世界」はどうですか? ************************ それと、No19835の最後に付け足したんですが、この件について、回答してもらえますかね?
ちなみに、 No19832 >少し表現しにくいのですが形而上学的主体は世界に属さないから世界と言語を写像として捉えらる、写像理論たらしめる形而上学的主体ではある
という解釈は、飯田隆先生が著書『ウィトゲンシュタイン』(106頁)で根拠薄弱であると認めつつ提出した考え方と同じもので、野矢先生も、無理筋だと述べた(「『論理哲学論考』を読む」(214頁))の考えですよね。 そして、それを永井の〈私〉とみなさないのであれば、それは永井が否定する超越論的主観ということになります(『ウィトゲンシュタイン入門』(81頁)が、それでいいんでしょうか?
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