□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/12/11(Sat) 18:41:28)
| パニチェさん
■No19837に返信(パニチェさんの記事) > ■No19835に返信(ザビビのふくろうさんの記事) > >>>論点は上記の「私」と形而上学的主体が同じか否かだと思います。 >>>私は異なる根拠として5.61にも『論考』にも多く使用されている「我々」、一人称複数代名詞によって写像理論が導かれ説明されているということを主張しています。 >>>これに反論していただくことが次の議論展開になると考えており、多少直近のレスはお互いの主張の繰り返しで、堂々巡りになっているように思います。 > >>わかっていますよ^^ >>ちゃんとしたその点についての説明は次にするとして、その前に、「それでもちょっとなあ…」と思う点について、言わせてください(笑) > > はいはい(笑)。 > >>っていうのはね、T:5.641で、 >>@ 「世界は私の世界である」ということをとおして、哲学に入りこむ。 >>A 哲学的な「私」とは、人間ではなく、人間の身体でもなく、心理学が扱う人間の心でもなく、形而上学的な主体であり、世界の一部分ではなく、限界である。 > >>って書いてあるわけでしょ? >>だったら、写像理論云々の前提を一度横に置いて、読んでもらえませんかね? >>で、フツーに読めば > >>>論点は上記の「私」と形而上学的主体が同じか否かだと思います。 > >>とあなたは言うけど、同じだとしかとりようがないと思うんですけど、ね。 >>横に置いても、読めませんか? >>それとも、横に置けないかな?(笑) > > 無理ですって(笑) > > 普通に読めば「私」は一人称複数代名詞だし、「我々」は一人称複数代名詞ですって。 > >>>上記のどの「私」が形而上学的主体とイコールで、どの「私」が一人称代名詞の「私」でしょうか。 >>>それとも上記の全ての「私」が形而上学的主体ということですか? > >>「思考し、表象する主体」以外は、すべて形而上学的主体(=《私》)です。 > > 以下で意味をなしますか? > > ************************************ > > 形而上学的主体は形而上学的主体の世界である。(ミクロコスモス。) > > 思考し表象する主体は存在しない。もし形而上学的主体が「形而上学的主体が見出した世界」という本を書くとすれば、そこでは形而上学的主体の身体について報告がなされ、またどの部分が形而上学的主体の意志に従いどの部分が従わないか、等が語られねばならないだろう。即ちこれが主体を孤立させる方法であり、むしろある重要な意味で主体は存在しないことを示す方法なのである。というのもこの本では主体だけが論じることのできないものとなるであろうからである。 > > 主体は世界に属さない。主体は世界の限界である。 > > 世界の中のどこに形而上学的主体が認められるのか。 > > それゆえ、哲学において、非心理学的に「形而上学的主体」を論じうる意味は確かにある。「形而上学的主体」は、「世界は形而上学的主体の世界である」ということをとおして、哲学に入りこむ。哲学的な「形而上学的主体」とは、人間ではなく、人間の身体でもなく、心理学が扱う人間の心でもなく、形而上学的な主体であり、世界の一部分ではなく、限界である。
*************** 意味をなしますし、私の解釈では整合的に読めます。 ちなみに、私の解釈は黒崎宏先生(「『論考』『青色本』読解」「ウィトゲンシュタインと独我論」)および先にも挙げた米澤克夫先生の解釈と近いですし、入不二基義さんの『ウィトゲンシュタイン』の43頁の解釈「私=私の世界=世界=生」とも一致しています。
まあ、改めて、少し詳しく説明します。
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