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No19783 の記事


■19783 / )  前期独我論>ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/09(Thu) 21:55:08)
    2021/12/10(Fri) 22:25:50 編集(投稿者)

    こんばんは、ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。

    No19777に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    > ・・・独我論批判は、このひとつの系とみなすことができると思います。
    > というのも、独我論はこの私的言語観をその根拠としているからです。
    > 例の対話は、独我論を語るとき、理解されたら打ち消すという果てしなき運動に必然的に入っていかざるをえないことを示し、独我論の本質が私的言語観にあることとして、照準を正確に見定めようとするものでしょう(独我論の語りはけして他人に理解されてはならない)。
    > それが、(ある種の)独我論者である永井やパニチェさんには、逆に、〈私〉の純化に見えるのではないかと思います。
    > というか、独我論の本質を際立たせようとする対話であるから、その意味ではいずれにしても「純化」というのは正しいと言えるかもしれませんけどね。
    > 私と永井やあなたとの違いは、ウィトゲンシュタインが、それを批判するため、完全否定するために(その準備作業として)行ったと私が解釈しているところでしょう。

    省略した箇所も含め総論同意ですが各論に同意できないといったところです。
    先の草稿の冒頭『私はこう言おう。「正直なところを言えば、たしかに、私には他の誰にもない何かがあると言わねばならない」、と。(ウィトゲンシュタイン全集6「個人的経験」および「感覚与件」について P.323より)』の「何か」がザビビのふくろうさんにとって独我論のことを述べているということでしょうか?
    もし、そうであるなら、ザビビのふくろうさんの言うところの独我論というのが私には分からなくなります。
    ここのところを説明してもらえると有難いです。

    > *****************************
    > >上記の通り、『論考』では誰にとっても共通する独我論を示しているわけで、そういう文脈からすれば「5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)」の「私」は普通の一人称代名詞と読めるということです。
    > >『論考』の時点ではウィトゲンシュタインは主体を純化していない。
    > >世界に属さない主体として大雑把に一括りにしています。
    > >おそらく形而上学的主体がさらに純化していくのは先の草稿(「個人的経験」および「感覚与件」)あたりからだと思われます。

    > この解釈について、疑念を質問として述べます。
    > @ >上記の通り、『論考』では誰にとっても共通する独我論を示しているわけで、そういう文脈からすれば「5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)」の「私」は普通の一人称代名詞と読めるということです。
    > この「読める」というのは、「ウィトゲンシュタインの真意、意図がそうであると読める」ということですか?それとも、彼の真意は違うだろうけど、そのように読もうと思ったら読むことも可能だ、ということですか。後者だとすると、意図的に誤読(歪曲)することになりませんか?

    「読める」というのは、「ウィトゲンシュタインの真意、意図がそうであると読める」ということです。
    「5.6私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」続いて「5.61従って我々は論理において・・・我々が考えることのできないことを、我々は考えることができない。従って我々が考えることができないことを。我々は語ることもできない」とあります。5.61では一人称単数代名詞ではなく一人称複数代名詞になっています。この意味をザビビのふくろうさんはどのように捉えますか?

    「5.63私は私の世界である」は誰にとっても「言語の限界が世界の限界を意味し」「考えることができないことを語ることもできない」という写像理論を前提とした言明であり、写像理論は普遍的なものではあるが、世界は個々人の「生(5.62世界と生は一つである)」に閉じた独我論であると考えます。
    追記補足:言うまでもなく「我々は我々の世界である」では独我論にすらならないですから、こちらは一人称単数代名詞になるということです。

    > A 「私は私の世界である」を、普通の一人称代名詞にとるということは、この「私」は、「ザビビのふくろう」や、「パニチェ」といった固有名に置換可能な語であるということになりますよね。
    > そうすると、この命題は、実在世界の中に存在するザビビのふくろうやパニチェその他、人間主体一般に成り立つ経験的真理を語る命題になるのではありませんか。つまり、形而上学的(超越論的)命題ではないということになりませんか。

    ここが少し私とは異なります。「私は私の世界である」が何故「形而上学的(超越論的)命題」となるのでしょうか?
    私にはよく分かりません。『論考』において形而上学的とされるのは世界に属さないが故に語りえない、指し示すことしかできない対象ではないでしょうか?

    > B また、そうすると、ザビビのふくろうにとってのミクロコスモス、パニチェにとってのミクロコスモス、…が乱立し、複数の独我論的世界が存在することになってしまい、自己論駁的になるのではないでしょうか?なぜこのようなものが正しいと言えるのでしょうか?ウィトゲンシュタインは、このような独我論を正しいと言ったのでしょうか?もし、そうではないのであれば、やはり「私」は、普通の一人称代名詞ではないのではないでしょうか?

    『論考』での独我論はあくまでも世界と言語を写像とした前提に成立します。
    で、写像が普遍的なものとする限り、『論考』での独我論は批判的に言えば似非独我論、好意的に言えば個々人の生に閉じた絶対的孤独な我々のことだと思います。

    > C また、Aのように解釈された場合、この私の世界(ミクロコスモス)が、いったいいかにして実在世界(マクロコスモス)と一致するのでしょうか?

    それぞれの生において実在世界は私の世界として、また私の言語となりえます。

    > D 「私」を普通の一人称代名詞として解釈することは、以上@〜Cのような疑念が普通に生じると思うのですが、どうでしょうか?独我論の言わんとすることは正しい。しかし、それは語られず示される。純粋な独我論は実在論と一致する。という『論考』の主張と整合するとは思えないのですが、どう思いますか?

    ここまでのレスで上記のレスにも回答したことになると私は思っていますが、もし腑に落ちないところがあれば指摘下さい。

    > ****************
    > もう何度も断る必要ないけど、
    > レスは書けるときでいいのでゆっくりどうぞ。

    ありがとうございます、お互いリアル優先で行きましょう。^^

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