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No19777 の記事


■19777 / )  パニチェさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/12/09(Thu) 19:39:23)
    2021/12/09(Thu) 20:38:21 編集(投稿者)

    パニチェさん、こんばんは。
    レスをどうも。

    >当初のレスの段階では〈私〉という表記も、この表記によって何を示しているのかもザビビのふくろうさんは理解していないと思ってました。
    >私の想像ではおそらく再度読み直されたのかなと思い、No19696でレスした通り「真摯な取り組み」をされているなという印象を持ちました。

    私の理解を認めてもらえたみたいだし、正直な気持ちということで、とりあえずあーだこーだと蒸し返すのはやめておきましょう。
    が、一応哲ヲタの矜持として一言言わせてもらうと、哲学の議論において、私は根拠なくいい加減なことを言ったことは一度もないつもりです。もちろん、意図せざる間違いはあるかもしれませんけどね^^
    ******************
    > >私の読解は上記をNがWで、Wがザビビのふくろうさんだと考えておりますが。。。。^^
    > NがWってのはないと思うけど、まあ、いいや。
    >>これ結構パニチェ的には重要なところです。上記は後期の言語ゲームにも続く草稿。
    >>ザビビのふくろうさんの読解については鋭いと思います。
    >>ザビビのふくろうさんの読解通りだとして、これを書いたのはウィトゲンシュタインであって、ここには永井氏はいない。
    >>にもかかわらず「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」みたいな文言を残している。
    >>ここでウィトゲンシュタインは何を言いたかったか、あるいは訴えたかったとザビビのふくろうさんは考えていますか?

    ウィトゲンシュタインの哲学を一言で「言語哲学」と特徴づけることは、おおざっぱではあっても本質を捉えていると言ってもいいでしょう。
    その前提で言うと、言語哲学者ウィトゲンシュタインにとって、前中後期を通して、中心的大問題であったことのひとつは「言葉の意味とは何か?」「言葉の意味を理解するとはどのようなことか?」というものでした。
    とりわけ、『論考』が採用し、中後期を通して批判の対象としたのは、「言葉の意味とは、当の言語主体の私的感覚(感覚与件etc.)、個人的(内的)経験である」とする考えでした(以下、ラフな説明ご容赦)。
    たとえば、「赤」という語は、私が思い浮かべる赤い色を意味しているし、私が発話する「私の痛み」は私だけが感じるこの痛みを指す。
    したがって、「言葉の意味を理解する」とは、言葉が意味している私的感覚が何かということを把握する、その心的過程である、ということになります。
    これは言語とは本質的に私的言語(私の言語)である、とする考え(以後「私的言語観」と呼ぶ)です。
    なので、ウィトゲンシュタイン哲学の中後期を通して、この私的言語観を批判するというのが中心的課題であったと言えるわけです。

    独我論批判は、このひとつの系とみなすことができると思います。
    というのも、独我論はこの私的言語観をその根拠としているからです。
    例の対話は、独我論を語るとき、理解されたら打ち消すという果てしなき運動に必然的に入っていかざるをえないことを示し、独我論の本質が私的言語観にあることとして、照準を正確に見定めようとするものでしょう(独我論の語りはけして他人に理解されてはならない)。
    それが、(ある種の)独我論者である永井やパニチェさんには、逆に、〈私〉の純化に見えるのではないかと思います。
    というか、独我論の本質を際立たせようとする対話であるから、その意味ではいずれにしても「純化」というのは正しいと言えるかもしれませんけどね。
    私と永井やあなたとの違いは、ウィトゲンシュタインが、それを批判するため、完全否定するために(その準備作業として)行ったと私が解釈しているところでしょう。

    *****************************
    >上記の通り、『論考』では誰にとっても共通する独我論を示しているわけで、そういう文脈からすれば「5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)」の「私」は普通の一人称代名詞と読めるということです。
    >『論考』の時点ではウィトゲンシュタインは主体を純化していない。
    >世界に属さない主体として大雑把に一括りにしています。
    >おそらく形而上学的主体がさらに純化していくのは先の草稿(「個人的経験」および「感覚与件」)あたりからだと思われます。

    この解釈について、疑念を質問として述べます。

    @ >上記の通り、『論考』では誰にとっても共通する独我論を示しているわけで、そういう文脈からすれば「5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)」の「私」は普通の一人称代名詞と読めるということです。

    この「読める」というのは、「ウィトゲンシュタインの真意、意図がそうであると読める」ということですか?それとも、彼の真意は違うだろうけど、そのように読もうと思ったら読むことも可能だ、ということですか。後者だとすると、意図的に誤読(歪曲)することになりませんか?

    A 「私は私の世界である」を、普通の一人称代名詞にとるということは、この「私」は、「ザビビのふくろう」や、「パニチェ」といった固有名に置換可能な語であるということになりますよね。
    そうすると、この命題は、実在世界の中に存在するザビビのふくろうやパニチェその他、人間主体一般に成り立つ経験的真理を語る命題になるのではありませんか。つまり、形而上学的(超越論的)命題ではないということになりませんか。
    仮にそうだとすれば、この文を、「語る文」と解釈することであり、したがって、この文が独我論を意味しているとすれば、それは「語られる独我論」ということになりませんか?

    B また、そうすると、ザビビのふくろうにとってのミクロコスモス、パニチェにとってのミクロコスモス、…が乱立し、複数の独我論的世界が存在することになってしまい、自己論駁的になるのではないでしょうか?なぜこのようなものが正しいと言えるのでしょうか?ウィトゲンシュタインは、このような独我論を正しいと言ったのでしょうか?もし、そうではないのであれば、やはり「私」は、普通の一人称代名詞ではないのではないでしょうか?

    C また、Aのように解釈された場合、この私の世界(ミクロコスモス)が、いったいいかにして実在世界(マクロコスモス)と一致するのでしょうか?

    D 「私」を普通の一人称代名詞として解釈することは、以上@〜Cのような疑念が普通に生じると思うのですが、どうでしょうか?独我論の言わんとすることは正しい。しかし、それは語られず示される。純粋な独我論は実在論と一致する。という『論考』の主張と整合するとは思えないのですが、どう思いますか?

    ****************
    もう何度も断る必要ないけど、
    レスは書けるときでいいのでゆっくりどうぞ。

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