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形而上学的主体と〈私〉の差異について
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□投稿者/ パニチェ -(2021/12/08(Wed) 20:52:48)
| 2021/12/09(Thu) 07:31:32 編集(投稿者)
こんばんは、ザビビのふくろうさん。 遅くなりましたが、時間ができましたので返信しておきます。 読み返してみると質問と回答がずれているところもありますが、主張したいとこも含んでいるので、このままレスします。
■No19714に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
『私はこう言おう。「正直なところを言えば、たしかに、私には他の誰にもない何かがあると言わねばならない」、と。──だが、その私とは誰だ。──くそっ。私の言い方はまずいがそこに何かがあるんだ!君だって私の個人的な経験というものがあり、またそれには最も重要な意味での隣人というものがないことを否定すまい。──だが君はそれがたまたま孤独だと言うつもりではないだろう。君の言いたいのはその何かの文法上の位置が隣人のない場所にあるということだろう。「しかしどうしたわけか我々の言語には、そこに他と比べることのできない何か、すなわち真に現前している経験、があるということがあらわれてはこないのだ。私はそのことに甘んずるべきだと君は言いたいのか。」(おかしいことに、日常生活で日常言語を使っていて何かに甘んじなければならないと我々が感じることはまったくない。)ウィトゲンシュタイン全集6「個人的経験」および「感覚与件」について P.323より』
> >私の読解は上記をNがWで、Wがザビビのふくろうさんだと考えておりますが。。。。^^ > NがWってのはないと思うけど、まあ、いいや。
これ結構パニチェ的には重要なところです。上記は後期の言語ゲームにも続く草稿。 ザビビのふくろうさんの読解については鋭いと思います。 ザビビのふくろうさんの読解通りだとして、これを書いたのはウィトゲンシュタインであって、ここには永井氏はいない。 にもかかわらず「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」みたいな文言を残している。 ここでウィトゲンシュタインは何を言いたかったか、あるいは訴えたかったとザビビのふくろうさんは考えていますか?
> >上記は永井均氏が言うところの言語表現したために必然的に陥る「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」を表しています。
> そうですね。 > このことについて,もう少し私の理解を示しておきます。 > 『独在性の意味(二)』という論文でも永井は入不二さんの言う「単独性」と自分の「独在性」との違いとして次のように述べています。
> ここで入不二は,入不二の「単独性」と永井の「独在性」とを区別せずに論じている。しかし,独在性」の〈私〉は,まさにそのような個体性・形式性としての「私」の中に擦り込まれてしまうことの否定としてのみ,在る。独在性を指示する「ずれの運動」は,変質という動きの中に常に既に読み込まれてしまうほかないものからの,絶えざる離反・逸脱の方向性こそを,指示している。〈私〉とは,「私」の用法をめぐる議論において生起するあらゆる問題からの違背を示す記法なのである。そして,それがなぜそのような否定によってしか示されえない場所にあるのかは,究極的には謎であるし,謎でしかありえない。(『〈私〉の存在の比類なさ』196、197頁)
> つまり,永井の言う独在の〈私〉は,それについて言語表現される限り必ず異なった意味に変質して読み込まれざるをえないものであり,その形式化(必然化)・一般化に対する拒絶・否定の方向への絶えざる差異化の運動としてしか指示しえない。 > これがいわば〈私〉の独在性の意味であるということ。
> 今述べたことが,〈私〉の独在性の意味の一つの核を成すということはいいですよね?
はい。
> 先のレスと合わせて,一応私は,いわば永井均作曲の楽曲『〈私〉』の楽譜をもとに,自分なりの演奏を提示したつもりです。 > つまり,単なる楽譜のコピペでもなければ,他のプレイヤーによる演奏の録音を提示したわけでもありません。あくまで自分の解釈で,自身で演奏したものです。 > これで私が、多少は永井哲学を理解しているということは認めてもらえましたかね?
はい、認めます、認めた上で、正直言いますね。 当初のレスの段階では〈私〉という表記も、この表記によって何を示しているのかもザビビのふくろうさんは理解していないと思ってました。 私の想像ではおそらく再度読み直されたのかなと思い、No19696でレスした通り「真摯な取り組み」をされているなという印象を持ちました。
> ****************** > No19694 > 『論考』の独我論的主体を「《私》」として、 > 永井独在論の「〈私〉」とすると、 > これらの異同の問題ですよね? > パニチェさんの考えを説明してもらえますか? > 例えば、どこがどう重なり、どこが違うかなど。
共通するところは世界に属さない(5.631)、語りえないというところです。
違うところは。。。。 写像理論というのは例えばウィトゲンシュタインとか特定の人にとっての言語論ではありません。 他国の言語も含めて言語を写像として(この時点では)説明している。 で、この写像に含まれることは世界に属するということでもあり、写像として表すことができない、つまり世界に属さないものは語りえないとしている。 そういう意味で世界に属さない主体を形而上的主体とか哲学的自我と呼んでいるわけですが、これは写像理論が正しいとするなら万人に共通する主体であるわけです。 補足するなら『論考』での「5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)」も(写像理論が正しいなら)誰にとっても独我論であるということ ここのところが形而上学的主体は「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」に陥るような主体ではないということです。
> >>ちなみに独我論を象徴する「5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)」の「私」は普通の一人称代名詞と読みますか、それとも形而上学的主体と読みますか? >>「普通の一人称代名詞」を固有名に置換可能なものだとしたら、この場合置換不可能だから、 >>もちろん意味的には、「形而上学的主体」であり、「独我論的主体」です。 >>ただ、少し詳しく言うと、「私」という語を用いている限り、やっぱり文法的には一人称代名詞ともいえるわけじゃないですか? >>だけど、文脈に応じてその意味は異なるわけで、T:5.63の場合は、独我論的主体を意味する、ってことです。
> >>なるほど。やはり、ここですね。 > >>ザビビのふくろうさんとパニチェの論考読解の分岐点は。 > ここも、パニチェさんの読解と、その根拠を説明してもらえますか?
上記の通り、『論考』では誰にとっても共通する独我論を示しているわけで、そういう文脈からすれば「5.63 私いは私の世界である。(ミクロコスモス。)」の「私」は普通の一人称代名詞と読めるということです。 『論考』の時点ではウィトゲンシュタインは主体を純化していない。 世界に属さない主体として[5.631]では浮き上がらせていますが大雑把に一括りにしています。 おそらく形而上学的主体がさらに純化していくのは先の草稿(「個人的経験」および「感覚与件」)あたりからだと思われます。
先の草稿のパニチェ的読解の結論だけ言うと「言語ゲームの網の目にもかからない(日常会話では何の不便もないが語りえない)主体が存在する」ということです。
世界と言語を写像たらしめている主体は『論考』で言うところの形而上学的主体ですが、永井均氏の提示する〈私〉はそのような意味や価値付けは行いません。 この点だけで言えば西田哲学の「純粋経験」に近い主体です。 永井均氏も『〈仏教3.0〉を哲学する バージョンU』で「〈私〉は存在だけしていて、開けですから見る力のようなものはありますが、動機になるような意味づける力は何もないんですね。(P.175)」と述べています。
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