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No19696 の記事


■19696 / )  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/05(Sun) 18:42:41)
    No19693に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    > ウィトゲンシュタインの入門書復習の流れで,
    > 永井均『ウィトゲンシュタイン入門』(ちくま新書)
    > も現在話題になっているところ,つまり独我論について論じたところを中心にざっと目を通しました。
    > それと,以下の諸論考も。

    > 永井均「ウィトゲンシュタインの独我論」(『〈私〉の存在の比類なさ』(勁草書房)』
    > 永井均「〈私〉の存在」(『〈魂〉に対する態度』(勁草書房)』
    > 「たまたまの孤独――ウィトゲンシュタインの「語りえぬ」問い(『ウィトゲンシュタイン』(道の手帖)河出書房新社
    > 『独我論』『私/自我』(「ウィトゲンシュタインの知88」(新書館)

    ほぉ!真摯な取り組みですね。

    > で,やっぱり,『論考』の独我論解釈は,ひどいと思うね(笑)

    なるほど、そうですか。

    > まあ,それは措くとして,パニチェ氏が何度か,私にどう思うか質問していた

    > 『私はこう言おう。「正直なところを言えば、たしかに、私には他の誰にもない何かがあると言わねばならない」、と。──だが、その私とは誰だ。──くそっ。私の言い方はまずいがそこに何かがあるんだ!君だって私の個人的な経験というものがあり、またそれには最も重要な意味での隣人というものがないことを否定すまい。──だが君はそれがたまたま孤独だと言うつもりではないだろう。君の言いたいのはその何かの文法上の位置が隣人のない場所にあるということだろう。「しかしどうしたわけか我々の言語には、そこに他と比べることのできない何か、すなわち真に現前している経験、があるということがあらわれてはこないのだ。私はそのことに甘んずるべきだと君は言いたいのか。」(おかしいことに、日常生活で日常言語を使っていて何かに甘んじなければならないと我々が感じることはまったくない。)ウィトゲンシュタイン全集6「個人的経験」および「感覚与件」について P.323より』

    > について,私の理解を示すのに,次のような一種のパロディーをつくってみました。
    > 原文の対話体を,ウィトゲンシュタインを示唆する人物「W」と(かなり梟化していますが(笑)),永井均を示唆する「N」の対話として,元の対話を敷衍したものになっています。もちろん,ウィトゲンシュタインの他の発言――例えば『青本』(117頁)――なども参考にした上でです。
    > この人物Nの発言は,基本的に,先の諸論考で永井が述べている独我論についての考えをもとに私が解釈したもの(最後の「純粋私的言語」云々ってとこは違うけど)。したがって,ここに私の永井哲学理解が示されていることになります。と言っても,永井「独在論」ではなく,「永井による『ウィトゲンシュタインの独我論』解釈」ということですが。
    > ただし,ちょっと気になるのが,これ,ウィトゲンシュタインの原文(翻訳)にいろいろつけ加えて,ある意図を強調する形に翻案したものなので,ある意味盗作。
    > 許されるのか?(笑)
    > だめならすぐ削除。ってことで,とりあえず投稿します。

    ありがとうございます。

    > ********************
    >
    > N:私はこう言おう。「正直なところを言えば,たしかに,私には他の誰にもない何かがあると言わねばならない」と。
    > W:「激しく同意だね。私には他の誰にもない何かがある。うん,その通りだ!」
    > N:「いやいや,違う違う。私だけに何か,つまり「真の現前している経験」とでも言うしかないものがあるって言ってるんだ。」
    > W:「全くその通り。私だけに「真の現前している経験」がある!」
    > N:「いや,違うんだって。もっと言うとだね,真に存在するって言えるのはこの私の経験,この私の世界だけなんだよ。」
    > W:「いやー,ますます同感だね!!この私の世界だけが存在する!独我論だよね!」
    > N:「だから,違うんだって」
    > W:「えー,違うの?なんでさー。」
    > N:「違うんだよ。だって,君は私の言ったことをそのまま繰り返しているだけじゃないか。それじゃまるで,私に成り立つことは,全く君にも対称的に成り立つってことだろう。独我論になるわけないじゃん。そんなのおかしいに決まっている。」
    > W:決まってる?どういうこと?
    > N:いや,だからさ,私は私にしかないものがある,って言ってるわけだよ。それは唯一無二なんだよ。その意味で,私は唯一無二の存在,比類のない存在なんだよ。だから,君にもある,なんてことはあってはならないんだよ。君にもあるんだったら,何ら比類のない存在じゃないことになるだろう。だからそもそも君が同意するなんておかしいんだよ。
    > W:だったら,君の言っているその「私」って,実存哲学で言う「実存としての私」のことかい?例えば,「N」という名前がさす,唯一無二の存在,取り替え不可能な君という存在のことかい?」
    > N:いや,そうじゃないんだよな。Nである私が取り替え不可能な実存であるとしても,それは同じ意味で,君,Wにも言えることだからね。ほら,「誰もがみんなオンリーワン」,ってことだろう?
    > W:だったら,君の言う「私」って誰なのさ?
    > N:くそっ,私の言い方はまずいがそこに何かがあるんだよ!君だって私の個人的経験というものがあって,またそれには最も重要な意味での隣人というものがないことを否定はしないだろう。
    > W:だけど,君はそれがたまたまの孤独だというつもりではないだろう。
    > 「私は本質的に孤独なんだ。私は孤独でしかありえない存在だ。」そう言いたいのではないのかい?
    > だとすれば,君の言いたいのは,その何かの文法上の位置が隣人のない場所にあるということだろう。
    > 例えば「私は私の歯痛を感じる」というのは同語反復的に冗長だ。
    > 誰だって感じることのできるのは自分の痛みだけだからだ。
    > これは文法的真理だよね。
    > だから「私はあなたの歯痛を感じている」は,文法的に間違った文であるわけだ。
    > つまり,「私はxの歯痛を感じている」の「x」には,「私(自分)」しか代入できない。
    > この「x」には,「私」以外の「あなた」も「彼」も代入できない,その意味で隣人が存在しないんだよ。
    > 「この私の痛み」は,他の誰にも知ることのできない「この私」だけのものだ。
    > それゆえ「この私の痛み」という言葉で私が意味していることそのものも,私しか真には理解できない。
    > そして「この私の経験」こそが「真の現前している経験」なんだ。
    > 君が言いたいその「誰か」とはこの「この私」のことだろう。
    > このことは私が今ここで見ている「この世界」――これだけが唯一の現実(リアル)だ――についてだって言えることなんだ。
    > 「この私の世界」だけが「真の現前している経験」であり,本当の現実(リアル)であり,そしてこれ以外に本当のリアルなんてものはないんだと,君はそう言いたいんじゃないのか。
    > N:う〜ん,ある意味そうだと言いたくもなるんだが,だが,けしてそうじゃないんだ。むしろ私が言いたいのは、「たまたまの孤独である」ってことなんだ。というのも,それが必然的孤独、つまり、それが文法的真理である限り,「私」が誰であろうとも,どの「私」にも成り立ってしまうじゃないか。当然誰もがそれを理解してしまう。だけど,ここが重要なんだが,君がそれを理解している時点で,もうそれ――つまり,君が理解していること――は私が言ってることとは違うはずなんだよ。私の言いたいのは,本質的に,君には知ることも,理解することもできてはならないこと,なんだ。しかし,どうしたわけか我々の言語には,そこに他と較べることのできない何か,すなわち「この真に現前している経験」があるということがあらわれてこないんだよ。だから,私がそれをどんなふうに言い表したところで,さっきの君と同じように,他人は必ず違った意味に理解してしまうんだ。だから,その都度,「違う」って否定するしかないわけだよ。そのことによってしか,私の言わんとすることは示すことができないんだ。」
    > W:じゃあ,我々の言語では,その何かをけして表現できないと,君はそう言いたいわけだね。
    > N:いいや,言いたいわけじゃないよ。残念ながら,言表不可能であるというその事実に甘んじざるをえない,ということだよ。
    > W:ふ〜ん。「甘んじざるをえない」ね…。でも,おかしなことに,日常生活で日常言語を使っていて何かに甘んじなければならないと我々が感じることはまったくないんだよね。だってさ,君はまるで他人がきみの真意を曲解するみたいに言うけど,何かそれで困ることがあるのかい?
    > N:そりゃ,日常生活では,それでべつに困りはしないさ。だったら何だって言うんだよ。だから,私が本当は甘んじてなどいないとでもきみは言いたいのか。それとも,きみは私が甘んずるべきであると言いたいのか。
    > W:いや僕は,きみが甘んじていないなどと言うつもりもないし,そのことに君は甘んずるべきだとは言わないよ。
    > だけど,もし君がそれに甘んじたくないとすればだね,君の言うその「真に現前している経験」を記述することができ,かつ,「本質的に自分だけに理解可能で,他者には理解不可能な言語」を君は手に入れる必要があるんじゃなかろうか。
    > でないと,きみの主張は,「論」とすら言えないよね。言表不可能だって言うんだからさ。
    > つまり,もし君が,君のその言わんとしていることを「論」として主張したいのであれば,それは自分だけが知ることのできる経験を記述し,かつ,当然自分だけがその意味を理解することのできる言語よってのみだから,いわば「純粋私的言語」と言うべきものが必要であるように思われるね。
    > N:ふむ。なるほど。それはそうかもしれないね。
    > W:それゆえ,その純粋私的言語というものが,ほんとうにありうるのか?ということが,この上なく重要な問題になるんじゃないかな?
    >  いわば,純粋独我論の運命は,純粋私的言語が存在可能か否かにかかっている,と言ったら言い過ぎだろうか?

    面白いというか、ある意味正鵠を射たパロディーですね。
    上記は永井均氏が言うところの言語表現したために必然的に陥る「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」を表しています。
    私の読解は上記をNがWで、Wがザビビのふくろうさんだと考えておりますが。。。。^^
    何れににしても「私的言語が成立するか否か」が純粋独我論の運命にかかるというのは同意します。

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