□投稿者/ パニチェ -(2021/12/05(Sun) 18:19:22)
| レスありがとうございます。
■No19692に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
> 【補足修正】 > 各主体概念の使用については、以下のように修正したほうがいいかもしれないと思っています。
> 実在論は、実在世界から独立の実体としての哲学的自我、形而上学的自我を否定する。 > 近代の観念論哲学は、デカルト以来、認識論的主体、超越論的主観、すなわち、思考し、表象する主体として哲学的自我を語ってきた。そこで、これらを認識論的観念論と言おう。 > この観念論的主観=主体は、「我々としての我」、すなわち、人間主観とみなせる。 > しかし、ウィトゲンシュタインは、その思考し、表象する主観を否定消去し、哲学的自我(形而上学的自我)として、世界の限界としての私、即ち独我論的主体を残した。 > いわば、我々のうち、我だけを残したわけである。 > ただし、その独我論的主体も、実在世界から独立の実体としては存在を無化されて世界の限界=形式とされ、残ったのは実在世界のみ、ということになった。
デカルトのコギトを観念論哲学に含めるかどうかは微妙ですが、それは横に置くとして。。。 なるほど。上記の読解はパニチェ的にもしっくりきます。 おそらく、ザビビのふくろうさんとのウィトゲンシュタイン読解で異なるところは〈私〉をウィトゲンシュタイン哲学で見るか見ないかでしょうね。
ちなみに独我論を象徴する「5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)」の「私」は普通の一人称代名詞と読みますか、それとも形而上学的主体と読みますか?
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