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No18680 の記事


■18680 / )  時さんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/11/11(Thu) 01:10:15)
    時さん

    >事実=真なる経験命題・・・事実とは、その人物の実体験したことではないのかなぁなんて思っています。例えば、UFOを100人で観たというニュースが流れた場合に、その証明は今のところできていないと思いますが、その100人にとっては、UFOが飛んでいたのを見たというのは経験命題の真になるのではないのでしょうか(笑)これがもしも1000人、10000人単位での目撃ならば、それが80億人ならば・・・そしてこの中には哲学者も含まれます。なんて考えてしまいますね。要は、その境目が理解できないのです。理解不足も甚だしい頭での書き込みですので、ご容赦・スルーくださいませ。(笑)

    いいえ、これは時さんのせいではなく、ウィトゲンシュタインの責任です。
    書かれてないんです。
    ラフに言うと(ほんとは少しズレますが)、内容的には、『論考』を書いた当時、自分は論理学者だと思っていたので、これがどういうものかを決めるのは、自分の役割ではないと思っていた、みたいなことを弟子に言ったようです。なので、事態が何か、対象が何か、ということの解釈ゲームが未だになされ、定説はない、というのが実情です。

    >なるほどー、よくわかりません。(笑)分からないということがわかるという意味でです。
    >存在は無定義概念であり、かつ、解釈次第では「現象(表象)の立ち現われ(生成)」との捉え方も可能ならば、存在は「現象の生滅変化」=「無常」でも可能なようにしか今は思えません。もしかして「現象の生起」だけですかね?きっと、そのようなことはありませんね。生起したものは必ず滅尽しますので、生滅の変化で「無常」 ・・・しつこいですねw やはり存在の定義的なものがない(無定義概念)不安定な土台の上に成立しているようにしか今は理解が及びませんかね。

    あー,これはすみません。
    私の言い方が悪かったです。訂正します。
    「存在」が無定義概念だと言ったのは,
    「存在とは何ぞや」の答えとして,「存在とは〜」という定義はない,ということを念頭に置いていたのでそう言ったんですが,存在命題としての意味は定まっています。
    テクニカルな定義は措くと,さっきの説明と実質あまり変わらないんですが,
    ちょっと異なる言い方をすると,基本の意味は経験命題としての場合で,「世界の中に〜のものが存在する」,(∃x[φx])ということです。
    ところが,ある形式の論理的命題(一応書いておくと∃x[φx∨¬φx])に登場すると,
    「〜の(性質をもった)ものが存在する」という意味ではなく,「何らかのものが存在する」という意味になり,これは要するに,「世界は空ではない」ということを意味するんです。また,2階表現を用いると∃ψ[ψ∨¬ψ]という式で,「何らかの事実が存在する」ということを意味します。
    これらを前に述べた,私の視覚世界を記述する言語としますと,「少なくとも一つ何かが見える」「少なくとも一つ,何か視覚事象が存在する」ということになるわけです。
    これらは視覚世界が存在する,と同等です。

    それと、こだわってらっしゃる消滅ですが、今一つこだわりポイントがわからないんですけどね(笑)
    例えば、ある時点区間t(0≦t<5)において、視空間上のある地点には赤い光が存在せず、5≦t<10 の区間には存在し、10≦tの区間に存在しないのであれば、赤い光は時点5において現象し、時点10において消滅した、ということになるでしょう。
    これでは、納得できないですかね?(笑)

    >はい。世界は存在するというのが論理的真理とするならば、ニュアンス的にそれを自明の真理とするのではないのでしょうか?論理的真理で「世界は存在する」というのを前提とするということですよね?

    う〜ん、これは世界についての自明の真理を語る命題ではなく、「キーパーだけがボールを持てる」とか、「独身者は未婚である」などと同じような自明の真理である、ということですが、よろしいんでしょうかね?

    >はい。うーん、問題ないはずですが。私の認識が違っているのでしょうか?言語ゲームの前提として一切が無ならば語ることは不可能なので、語れる以上、世界は存在するを前提とします。そしてその世界は存在するを論理的真理として言語ゲームの土台に据えます。論理的真理という地名の「世界は存在する」というフィールド上で、言語というボールを使用したゲームをするというイメージなのですが。この意味で、世界の存在は言語の前提だということですね?

    はい、これはこれでいいと思うんですが…。
    問題は、
    >ここでご説明していただいている論理的真理としての「世界は存在する」というのが何を根拠にして論理的真理としているのかが理解できないのですね。

    という疑問が解消したかどうか?です。解消していればOKです。
    でなければ、……やっぱり大事なところの理解がまだ得られていないと言わざるを得ないと思います。

    >うーん。。「生成変化」とは,「同一のものの生成変化である」・・同一のもの・・一切は無常ゆえに、このような”もの”があるのでしょうか?と考えてしまうわけです(笑)

    一切は無常=すべてのものごとは無常

    ではありませんかね?

    >というところです。私の結論は、このフィルム上にも変化はあると捉えます。しかし実際にはそのフィルム上での変化は認識できないだろうと思われます。(フィルムの場合、これ自体の劣化消滅までの時間的な経緯を継続的に認識できないでしょう)きっとこの辺りが理解の分岐点のような気がしますし、経験命題での縛り(条件)だろうと思います。

    ムムム…、ここはポイントがずれているのではないでしょうかね?
    私が問題にしているのは、スクリーンの動画映像として立ち現れている鳥の飛翔という事象の生成変化であり、フィルムの劣化は何の関係もないと思うんですが…

    > >「世界が私の表象であるなら、当然、私は世界である、ということになる」というのは、理解できそうですが、しかしここでの「私は世界である」は、誰の言葉なのでしょうか?(笑)
    > >世界が私の表象であるならば、私は世界であるので、その私は何も語れないのではないでしょうか?
    > >この場合語っているのは、常住的な私(語りうる私)ですね。

    > 「>世界が私の表象であるならば、私は世界であるので、その私は何も語れないのではないでしょうか?」
    > というのはどうしてでしょうか?

    >語ってしまった瞬間に「語りうる私」が立ち現れるからだという理解だったからですが、ん?ウィトゲンシュタインの言う「語りえぬもの」とは、経験命題以外ということで、語りうるのは経験命題のみですね?つまりは、語りうるものは二値での真偽判定が可能なものであり、語りえないものとは、それ以外の論理的命題になるということでしょう。ですので多分ですが論考においては、論理的命題は排除されているという理解です。

    >この場合語っているのは、常住的な私(語りうる私)ですね。

    >> そうではないんです。
    >> 例えば、
    >> 私は語る
    >> =私は言葉を語る
    >> として、これを、次と類比してみてください。
    >> 稲妻は閃光を放つ
    >> 言葉もまた、私の表象なのです。
    >> つまり、
    >> 私は私の言葉である
    >> ということです。

    >私が見た稲妻が閃光を放ちました。
    >私が見た稲妻が閃光を放ちました。と私は語りました。
    >つまりは、私も私の言葉である。

    >ん?私とは表徴である。では? 却下ですね?(笑)
    >言葉も、私の表象であり、それも又、言葉である。と。
    >詰めれば当たり前に「言葉」になるということでしょう。で、「私は言葉である」とのザビビのふくろうさんの解釈により「私は私の言葉である。」との結論に至るとの私の理解です。
    >視点を変化させてみると「私は私の言葉である」と当たり前に見る(解釈する)ことは可能なようですね。

    このあたりのレスを読むと、かなり誤解があるようです。
    まずは私のミスが原因としてもあるようですが。
    ちょっと話がそれますが、時さんと話していて面白いのは、これだけ着いてきてくれているから大丈夫だろうと思って、ちょっと理路を省略したり、私が路をついそれたりしたら、必ずはぐれる、ってことです(笑)
    で、ここで私の「語る」という言葉の使い方が、正確さを欠いたのでミスリードしてしまったことがひとつありますね。すみません。
    ただ、誤解と言いましたが、時さんがどう受け取られたかについては、ちゃんとは理解できないのでとりあえず措き、再度、説明しておきます。
    くどく感じられるだけかもしれませんが、申し訳ありません。

    まず、言葉遣いについてですが、これはウィトゲンシュタインの表現自体、普通に考えたらいろいろ問題があるので、こちらが整合的に意図を解釈する必要があると思います。本来言おうとしていることはそんな難しくなくても、「語る」「話す」「言う」
    述べる」「主張する」「記述する」「描写する」といった似たような概念がありますので、ややこしいんですね。
    なので、訳語としてはこれも問題ありなんですが、以下では便宜的に、「語る」は当初通り「命題」を語る場合に用いて、「言う」は普通の言葉として、語るのかわりに用いてもいいし、上記の他の語の代わりに用いてもいいこととします。

    >>「「>世界が私の表象であるならば、私は世界であるので、その私は何も語れないのではないでしょうか?」
    >> というのはどうしてでしょうか?

    >語ってしまった瞬間に「語りうる私」が立ち現れるからだという理解だったからですが、ん?ウィトゲンシュタインの言う「語りえぬもの」とは、経験命題以外ということで、語りうるのは経験命題のみですね?つまりは、語りうるものは二値での真偽判定が可能なものであり、語りえないものとは、それ以外の論理的命題になるということでしょう。ですので多分ですが論考においては、論理的命題は排除されているという理解です。

    ここ、あくまできちんと「語る」を術語として理解していらっしゃることから、逆にわかりにくくなっているかと思います。
    あんまりここは難しくなく、経験命題を語ろうと、「世界は存在する」と言おうと、私の言葉の現象であると、とりあえず受け取っていただければOKなんです。
    そして、この私の言葉の現象というのは、「射手が弓をはなつ」からイメージされるような、ある主体(実体)が、別の対象に何かした、というものではなく、
    稲妻の閃光という夜空における現象と類比的に、それは私の世界(表象世界、生)において立ち現れたただ一つの現象(私の表象)であり、そこに言葉を言う主体(実体)としての私などない、ということです。
    つまり、思考も、知覚も、言葉も、みんな形而上学的主体としての私の表象ということ。
    その意味で、私は私の思考であり、私は私の知覚であり、私は私の言葉である、というわけです。

    まあ、とりあえず以上にしておきます。
    これで理解を得られないなら、理解を阻む、何等かの理由があるでしょうし、それが私に原因があろうと時さんにあろうと、あまり関係ないでしょう。

    私としては、ここまで話ができたことだけでもなかなか稀有のことですし、よかったです。ありがとうございました。


    >時として宗教哲学や仏教哲学といった表現を目にしたりするのですが、特に哲学の世界でいう「仏教哲学」とは、どのような内容を指しているのでしょうか?大まかにでも簡単にでも教えていただければ幸いです。というのも、私にとっての仏教は、哲学ではないのですね。単なる思想の一つなのです。

    申し訳ないんですが、これに回答する適任者は、少なくとも私ではありません。
    というか、そういった分野の本を読まれたら、一番早い気が…(笑)
    ********************
    時さん、
    久しぶりにお付き合いくださり、ありがとうございました。
    こちらがきちんと説明したら、ちゃんと理解してもらえる相手と思っているので、ついつい話が長くなってしまいました。お疲れになったでしょう?(笑)
    また突っ込みもいいのが来たので、私としてはひさびさに、けっこう深いところまで話ができて楽しかったです。疲れましたけど(笑)

    では、また機会があれば、よろしくお願いします。

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