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Re[19]: 「私」と言語
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□投稿者/ knowing itself -(2021/10/17(Sun) 15:56:17)
| パニチェさん レスありがとうございます。
>>同じでしょう。 > > では鬼界氏がP.340で述べている『そこで我々が(そしてウィトゲンシュタインが)目にするものは、ある意味では予想に反し、そして予想通りに、独我論批判で別れを告げたはずの「私」である。』に同意されますか? > > パニチェは前期〜後期を通じてウィトゲンシュタインは〈私〉に関する新たな発見や出会いなどしていないと考えています。
ウィトゲンシュタインが生涯のさまざまな段階で違う「私」に出会ったということはない 彼の切実なテーマ、根源は一つに集約されていたと思います。ただ、それを哲学的に解決を求めて表現するにあたって、紆余曲折があった、複雑な展開があったということだと思います。哲学の表現の形は、やはり違います。が、生における「私」の内実は裸形のウィトゲンシュタインのままだったでしょう。
鬼界氏の上記の表現も、別れを告げた「はず」ですから、じつは別れを告げてはいなかった、ウィトゲンシュタインの主題は同一であった、同じ主題の発展形だと、私は捉えます。
> ウィトゲンシュタインの読解で最も重要であると思うのは語りえない「私」をどのように読解しているのか、ということです。 > 哲学界では鬼頭氏の読解が一般的なものかもしれませんがパニチェは永井均氏の〈私〉に隣接あるいは同じ主体であると考えています。 > > この差は大きい、ということです。「確実性の問題」を再読してみますがこの部分が同意できないかぎり「ウィトゲンシュタインはこう考えた」のP.391『(2)「私」と言語の源』以降に同意できません。
もちろん同意できないという立場は尊重します。「ウィトゲンシュタインこう考えた」という書物がある解釈を提示しているだけですから。
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