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■31662 / inTopicNo.25)  Re[36]: 純粋理性批判B154
  
□投稿者/ pipit -(2023/07/09(Sun) 16:54:21)
    2023/07/09(Sun) 16:58:38 編集(投稿者)

    みなさまこんばんは!
    No31660英訳のpipit日訳(意訳)です。
    ==========
    英訳略

    (想像力の超越論的な働きを自分自身で意識できる例として)、

    私たちは直線・・・時間を外的に形象化するための直線・・・を引くことなしには、時間について考えることもできないのである。

    直線を引くことで、私たちは私たちの注意を多様の総合行為に向け、
    それによって内官の感覚を連続的に規定し、
    そのようにこの規定の連続性に注目することができるのである。

    ============

    (pipit感想)
    いろんなものが、心(内官)、に浮かぶ。
    見たもの、聞いたもの、考えたもの。

    そのような多種多様な浮かんだもの(生じたもの)を、

    →過去→現在→未来→

    という、直線的に形象化した時間の上に、総合的に秩序づける。(内官的には触発により受動的に秩序づけられる)。
    そのような行為なしには、時間というものについて考えることすらできない。

    そんな感じのことをカントは考えてるのかなーと思いました。
    全然違ったらすみません!

    次こそは、B155!

引用返信/返信 削除キー/
■31660 / inTopicNo.26)  Re[35]: 純粋理性批判B154
□投稿者/ pipit -(2023/07/09(Sun) 16:10:16)
    みなさまこんばんは!
    今日、、、もB154、、、
    でもこの文終わったら、B155
    o(・x・)/

    We cannot even cogitate time, unless, in drawing a straight line (which is to serve as the external figurative representation of time), we fix our attention on the act of the synthesis of the manifold, whereby we determine successively the internal sense, and thus attend also to the succession of this determination.

    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#chap50

引用返信/返信 削除キー/
■31656 / inTopicNo.27)  Re[4]: 超越論的分析論X−6
□投稿者/ pipit -(2023/07/09(Sun) 10:37:51)
    うましかさん、こんにちはー
    書き込みありがとうございます(o^^o)

    No31639

    > ◇ 4 判断の様相〔Die Modalitaet der Urteile〕は、判断の全く特殊な機能であって、この機能は判断の内容には何一つとして寄与せず、(なぜなら量、質及び関係以外には、判断の内容を決するものはもはや何も無いからである。) 思考一般〔das Denken ueberhaupt〕との連関における けい辞〔Copula〕の価値だけに関わるという特質をそれ自体で持っている。<

    ふむふむ、【 けい辞〔Copula〕の価値】、、

    ↓註釈を先に持ってきまして、、、

    >  註: あたかも思考は、第一の場合には悟性の機能であり、第二の場合には判断力の機能であり、第三の場合には理性の機能であるかのようである。これは後になって初めてその解明が期待される注意である。<

    ↓けい辞に注意してみると、

    > ◇ 蓋然的〔Problematische〕#サ断〔AはBかもしれない〕は、肯定または否定〔das Beiahen oder Verneinen〕が、単に可能的〔moeglich〕(任意的〔beliebig〕)とみなされるときの判断である。<


    第一の場合は、【かもしれない】がけい辞になるのかな?可能不可能とかの領域のことかなぁ?そういうのが悟性の機能と考えてるのかなぁ?


    > 実然的〔Assertorische〕判断=kAはBである〕は、肯定または否定が現実的〔wirklich〕(真〔wahr〕)とみなされるときの判断である。<

    ↑ 第二は【である】かな。これは判断力の機能。

    > 確然的〔Apodiktische〕判断=kAはBでなくてはならない〕は、肯定または否定がそこでは必然的〔notwendig〕≠ニみなされる判断である。〔註〕<

    ↑ 第三は【でなくてはならない】。これが理性の機能であるかのようなけい辞だと。


    > ◇ それで、それらの関係が仮言判断〔hypothetische Urteil〕〔もしAがBなら、CはDである〕を形成する二つの判断(前件antecedensと後件consequens )、同じくそれらの相互作用によって選言判断が成立する諸判断(諸選言肢)は、ことごとく蓋然的でしかない。<

    可能、不可能なのかなぁ

    > ◇ 前述の実例においては、「完全な正義がある〔es ist eine volkommene Gerechtigkeit〕」という命題は、実然的に主張されているのではなく、誰かがそう想定することが可能であるような一つの任意的な判断としてのみ考えられているのであり、ただ後件のみが実然的なのである。<

    後件のみが、第二の実前的、、判断の内容を
    > 現実的〔wirklich〕(真〔wahr〕)とみなされるときの判断<
    を表現するけい辞【である】になってる、ってことかな。


    > ◇ だから、そうした判断は明白に偽でもあり得るが、しかし蓋然的に解すれば、真理を認識するための条件でもあり得る。<

    ?
    前件が偽の場合、後件の判断は偽になるということなのかな?
    でも蓋然的な視点からの文章と見れば、条件を表現した文章と解することができるということかなぁ?
    論理学とか難しすぎて何言ってるのかよくわからないからなぁ
    (−_−;)


    > ◇ 同様に、「世界は盲目的な偶然によって現存する〔die Welt ist durch blinden Zufall〕」という判断は、<

    これ前にうましかさんが載せてくださった
    『 世界は盲目的な偶然によって現存しているか、さもなければ内的な必然性によって現存しているか、さもなければ外的な原因によって現存しているかである」という選言判断』
    についてかな。

    >前述の選言判断においては、蓋然的な意味しか、つまり誰かがこの命題を多分一瞬は想定するかもしれないという意味しか持たないが、<

    可能性の中の一つ、という意味かな。

    >しかし(私たちが取り得る全ての道のうちで、この道は誤っていると明記するように)、真なる命題を見出すのにも役立つのである。<

    全体を分割して、可能性を一つずつ消していくのかな??


    > ◇ それ故、蓋然的命題〔「AはBかもしれない」〕は、単に論理的可能性(客観的ではない可能性)を表現するような命題であり、換言すれば、そうした命題を妥当せしめる自由な選択を表現するような、そうした命題を悟性の内へと単に随意に取り入れることを表現するような、そうした命題である。<

    ふむふむ、ってわかってないかもですけどー
    ( ̄▽ ̄;)


    > ◇ 実然的命題〔「AはBである」〕は、論理的現実性または真理について主張するものであって、それは、例えば、仮言三段論法において、大前提における前件は蓋然的に現われるが、小前提における前件は実然的に現われ、だからこの命題は悟性の諸法則に従って悟性と既に結びついているということを暗示しているような命題である。<

    ん?ちょっとおもしろい?
    (判断の内容的には)蓋然的な大前提が一応の世界観として仮設されると、その仮設の中で、実然的な小前提から、理性によって確然的な結論が得られる、みたいな?


    > ◇ 確然的命題〔「AはBでなくてはならない」〕は、実然的命題を、悟性自身のこれらの諸法則によって規定されたものと考え、だからア・プリオリに主張するものと考え、このような仕方で論理的必然性を表現する。<

    おもしろそうだけど、ややこしそうなんですよねー、論理(学)。。。

    > ◇ ところで、この場合全てのものは順次、悟性と同化し、かくして、まず或るものが蓋然的に判断され、ついでそれがおそらく実然的に真とみなされ、最後に、悟性と離れがたく結合しているものとして、換言すれば、必然的で確然的なものとして主張されるので、様相のこれら三つの機能はまた、思考一般の三つの契機とも名づけられ得るのである。<

    これがカント的論理の捉え方なのですね。
    論理学の詳しいことはさっぱりわかりませんが、けっこう非難されてそうな印象ですぅ
    (^◇^;)

    うましかさん、読書おつかれさまです!
引用返信/返信 削除キー/
■31646 / inTopicNo.28)  Re[4]: 超越論的分析論X−6
□投稿者/ pipit -(2023/07/08(Sat) 21:59:29)
    うましかさん、こんばんはー(^O^)

    No31639
    > 久しぶりのカント沼、沼浴びです(/・ω・)/パシャパシャ<

    わーーい、わたしも沼浴びーーー

    あら、あら?

    底が.......ぎゃー

    今回も楽しみに読ませてもらいますね!ありがとうございます
    (o^^o)♪

引用返信/返信 削除キー/
■31644 / inTopicNo.29)  Re[34]: 純粋理性批判B154
□投稿者/ pipit -(2023/07/08(Sat) 21:52:59)
    みなさまこんばんは(^○^)
    No31553 の続きです。
    英訳略

    (英訳のpipit日訳)
    このこと(No31503 /規定された直観が可能となるのは、想像力の超越論的働きによる多様の規定の意識を通して)は、
    私たち自身が常に認識していることである。

    私たちは、幾何学的な線を思考の中で引くことなしにそれを考えることはできないし、

    円を描くことなしにそれを表現することもできないし、

    同じ点から互いに垂直に3本の線を引くことなく、空間の3次元を表現することもできない。

    ==========
    (pipit感想)
    沼だなぁ。
    カント的には、
    私たちが心の中でムニューと線を引いていく事態は、
    知性が想像力を使って内官を触発して内官に表象させてる(&その多様な直観を総合的に認識してる)ってことなのかなぁ。

    宇都宮先生監修の『純粋理性批判 上』以文社p221の田村一郎先生の解説を引用します。

    (田村先生の解説)
    『いわば悟性は構想力の助けを借りることによって内官を触発し、それらの多様を結合し、統覚の統一へともたらすことができるのである。
     われわれがわれわれ自身を「触発する」というような言い方は判りにくいが、カントはものごとに「注意」することをその例としてあげている。
    「注意」とは、あいまいなことを直観的に明確にしようとする試みだからである。
    カントは、線や円を頭の中で描いてみるのもそうした例と考える。』
    引用終了

    (pipitの感想2)
    超越論的演繹論、、、の◯かー (´;Д;`) ムズ
引用返信/返信 削除キー/
■31639 / inTopicNo.30)  超越論的分析論X−6
□投稿者/ うましか -(2023/07/08(Sat) 20:48:44)
    2023/07/08(Sat) 22:44:16 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    久しぶりのカント沼、沼浴びです(/・ω・)/パシャパシャ

    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論
    第一篇 概念の分析論
    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて

    □全ての純粋悟性概念を発見する超越論的な手引き
    第二節 (第九項) 判断における悟性の論理的機能について

    *******

    1 判断の量=kQuantitaet der Urteile.〕
    ・全称判断 〔Allgemeine〕 〔すべてのAはBである〕
    ・特称判断 〔Besondere〕 〔あるAはBである〕
    ・単称判断 〔Einzelne〕  〔ある一つのAはBである〕

    2 〔判断の〕質=kQualitaet.〕
    ・肯定判断 〔Bejahende〕 〔AはBである〕
    ・否定判断 〔Verneinende〕 〔AはBでない〕
    ・無限判断 〔Unendliche〕 〔Aは非Bである〕

    3 〔判断の〕関係=kRelation.〕
    ・定言判断 〔Kategorische〕 〔AはBである〕
    ・仮言判断 〔Hypothetische〕 〔もしAがBなら、CはDである〕
    ・選言判断 〔Disjunktive〕 〔Aは、BであるかCであるかDであるかのいずれかである〕

    4 〔判断の〕様相=kModalitaet.〕
    ・蓋然的判断〔Problematische〕 〔AはBかもしれない〕
    ・実然的判断〔Assertorische〕 〔AはBである〕
    ・確然的判断〔Apodiktische〕 〔AはBでなくてはならない〕

    *******

    ◆ 3 判断における思考の全ての関係は、
    a)述語の主語に対する関係、
    b)根拠の帰結に対する関係、
    c)区分された認識とその区分の全選言肢との相互関係
    である。

    第一の判断様式〔述語の主語に対する関係〕においては、〔主語と述語という〕二つの概念だけが考察され、
    第二の判断様式〔根拠の帰結に対する関係〕においては、〔根拠を述べる判断と、帰結を述べる判断の〕二つの判断が考察され、
    第三の判断様式〔区分された認識とその区分の全選言肢との相互関係〕においては、〔互いに〕対立関係にある多くの判断が考察されている。
    〔例えば、〕「完全な正義があるならば、常習の悪人は罰せられるだろう」という仮言命題は、もともと、「完全な正義がある」という命題と、「常習の悪人は罰せられる」という命題との二つの命題の関係を含んでいる。
    これら二つの命題のいずれもが、それ自体で真であるかどうかは、ここでは決定されないままである。
    この判断によって思考されるのは、その帰結だけである。
    最後に、選言判断は、二つ、或いはそれ以上の諸命題の対立関係を含むが、この関係は根拠から帰結への関係ではなく、一方の命題の圏域が他方の命題のそれを排除する限りにおいて、論理的対立の関係であり、しかも同時に、それらが合して本来の認識の圏域を充たす限りにおいて、相互性の関係である。
    それ故、その関係は一つの認識の圏域の諸部分の関係である、というのも、それぞれの部分の圏域は、区分された認識を全体的に総括するために他の部分の圏域を補足するものであるからである。
    例えば、「世界は盲目的な偶然によって現存しているか、さもなければ内的な必然性によって現存しているか、さもなければ外的な原因によって現存しているかである」という選言判断において、そうである。
    この選言判断におけるそれぞれの命題は、世界一般の現存在に関する可能な認識の圏域の一部分を占めており、全てが合してその全圏域を成す。
    それらの諸圏域の一つから認識を除去するとは、その認識を残余の諸圏域の一つの内へと措定することに他ならない。
    これに反して、認識を一つの圏域の内へと措定するとは、その認識を残余の圏域から除去することに他ならない。
    それ故、選言判断の内には諸認識の或る種の相互性があり、この相互性は、それらの諸認識が互いに排除し合いながら、しかもそのことによって全体として$^の認識を規定するが、それは、それらの諸認識が一緒になって唯一の与えられた認識の全内容を成すからである。
    そして、このことは、次節のためにこの際注意しておく必要があると、私が認めるものですらある。

    --- No.31146からの続き ---

    ◇ 4 判断の様相〔Die Modalitaet der Urteile〕は、判断の全く特殊な機能であって、この機能は判断の内容には何一つとして寄与せず、(なぜなら量、質及び関係以外には、判断の内容を決するものはもはや何も無いからである。) 思考一般〔das Denken ueberhaupt〕との連関における けい辞〔Copula〕の価値だけに関わるという特質をそれ自体で持っている。

    ◇ 蓋然的〔Problematische〕#サ断〔AはBかもしれない〕は、肯定または否定〔das Beiahen oder Verneinen〕が、単に可能的〔moeglich〕(任意的〔beliebig〕)とみなされるときの判断である。
    実然的〔Assertorische〕判断=kAはBである〕は、肯定または否定が現実的〔wirklich〕(真〔wahr〕)とみなされるときの判断である。
    確然的〔Apodiktische〕判断=kAはBでなくてはならない〕は、肯定または否定がそこでは必然的〔notwendig〕≠ニみなされる判断である。〔註〕

     註: あたかも思考は、第一の場合には悟性の機能であり、第二の場合には判断力の機能であり、第三の場合には理性の機能であるかのようである。これは後になって初めてその解明が期待される注意である。

    ◇ それで、それらの関係が仮言判断〔hypothetische Urteil〕〔もしAがBなら、CはDである〕を形成する二つの判断(前件antecedensと後件consequens )、同じくそれらの相互作用によって選言判断が成立する諸判断(諸選言肢)は、ことごとく蓋然的でしかない。

    ◇ 前述の実例においては、「完全な正義がある〔es ist eine volkommene Gerechtigkeit〕」という命題は、実然的に主張されているのではなく、誰かがそう想定することが可能であるような一つの任意的な判断としてのみ考えられているのであり、ただ後件のみが実然的なのである。

    ◇ だから、そうした判断は明白に偽でもあり得るが、しかし蓋然的に解すれば、真理を認識するための条件でもあり得る。

    ◇ 同様に、「世界は盲目的な偶然によって現存する〔die Welt ist durch blinden Zufall〕」という判断は、前述の選言判断においては、蓋然的な意味しか、つまり誰かがこの命題を多分一瞬は想定するかもしれないという意味しか持たないが、しかし(私たちが取り得る全ての道のうちで、この道は誤っていると明記するように)、真なる命題を見出すのにも役立つのである。

    ◇ それ故、蓋然的命題〔「AはBかもしれない」〕は、単に論理的可能性(客観的ではない可能性)を表現するような命題であり、換言すれば、そうした命題を妥当せしめる自由な選択を表現するような、そうした命題を悟性の内へと単に随意に取り入れることを表現するような、そうした命題である。

    ◇ 実然的命題〔「AはBである」〕は、論理的現実性または真理について主張するものであって、それは、例えば、仮言三段論法において、大前提における前件は蓋然的に現われるが、小前提における前件は実然的に現われ、だからこの命題は悟性の諸法則に従って悟性と既に結びついているということを暗示しているような命題である。

    ◇ 確然的命題〔「AはBでなくてはならない」〕は、実然的命題を、悟性自身のこれらの諸法則によって規定されたものと考え、だからア・プリオリに主張するものと考え、このような仕方で論理的必然性を表現する。

    ◇ ところで、この場合全てのものは順次、悟性と同化し、かくして、まず或るものが蓋然的に判断され、ついでそれがおそらく実然的に真とみなされ、最後に、悟性と離れがたく結合しているものとして、換言すれば、必然的で確然的なものとして主張されるので、様相のこれら三つの機能はまた、思考一般の三つの契機とも名づけられ得るのである。


    † 原佑訳上巻、p.217〜p.219参照。
    † その他に、中山元訳2、p.62〜p.65、石川文康訳上巻、p.131〜p.132を参照。
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639
    X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874
    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639

引用返信/返信 削除キー/
■31553 / inTopicNo.31)  Re[33]: 純粋理性批判B154
□投稿者/ pipit -(2023/07/05(Wed) 23:26:28)
    2023/07/05(Wed) 23:27:52 編集(投稿者)

    みなさまこんばんは
    こんじょぉ-_φ( ̄ー ̄ )

    次の文章の英訳はコレ!

    This we can indeed always perceive in ourselves. We cannot cogitate a geometrical line without drawing it in thought, nor a circle without describing it, nor represent the three dimensions of space without drawing three lines from the same point perpendicular to one another.

    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#chap50

    後で日訳するとして、

    関連話題の片山光弥さんの論文みつけました。

    直観はいかなる意味で概念に依存するのか 『純粋理性批判』演繹論における直観の理論について
    片山 光弥さん
    https://www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf/ron40/05-Katayama.pdf

    今日は涼しかったなー おやすみなさい☆彡
引用返信/返信 削除キー/
■31534 / inTopicNo.32)  Re[32]: 純粋理性批判B154
□投稿者/ pipit -(2023/07/05(Wed) 10:11:50)
    みなさまおはようございます(^ ^)

    No31530
    >  では、対象面に見定められた自己ではなく、まさにそれを見定めている自我、すなわち「私」ならどうでしょうか。そうした「私」なら、知覚を介することなくカテゴリーで把握できるでしょうか。この問題は§25で扱われます。』
    抜粋引用終了<

    とありますが、ひとまず本文に戻りまして、また細々と英訳の日訳を続けようと思います。
    B154からですね。

    【synthesis speciosa】※中山元先生訳「図示的な総合」、御子柴善之先生訳「形象的総合」とカントが呼ぶ〈想像力の超越論的な働き〉について書いていくみたい。

    大沼予感(−_−;)
引用返信/返信 削除キー/
■31530 / inTopicNo.33)  Re[31]: 純粋理性批判B154
□投稿者/ pipit -(2023/07/04(Tue) 23:36:59)
    みなさま、こんばんは(^○^)♪

    ================
    No31503
    > (英訳のpipit日訳)
    >統覚(自己統合の意識)とその総合的統一は、われわれのすべての総合的結合の源泉として、対象の感覚的直観全てに先立ち、カテゴリーの名の下に直観一般の多様に関わる。
    一方、内的感覚は単なる直観の形式を含むだけで、直観の多様な総合的結合を含まないので、結果的に規定された直観はまったく含まない。
    規定された直観が可能となるのは、想像力(構想力)の超越論的働き(知性の内的感覚への総合的影響)による多様の規定の意識を通してのみであって、このような総合を私は「形象的総合」と名付けた。<
    =================

    上記箇所の御子柴善之先生の見解を、驚異的丁寧さの解説書『カント 純粋理性批判』角川選書、p219-222から、抜粋引用します。

    『〈私たちはあるがままの自己を認識できるか〉
     「物」の認識は、知覚にカテゴリーが適用されることによってのみ可能となるというカントの所説に納得したとして、では、カテゴリーを用いて思考する「私」自身についてはどうなのだろうという疑問を抱く人もいるかもしれません。
    「私(自我)」は対象面に置かれた場合、「自己」と呼ばれますが、「自己」なら知覚なしで認識できるとすると、カテゴリーの適用範囲は可能な経験に限定されないことになるかもしれません。
    さらには対象面に置かれる以前の「私」ならどうでしょうか。この問題は§24と§25で論じられます。
    (略)
    この引用文では、まず、純粋統覚(「私は考える」)と内官が区別され、次に、その内官から「構想力の超越論的な働き」が区別されています。
    「自己」を話題にするとき、私たちが手がかりにできるのは外官ではなく内官です。どんなに外を見渡しても「自己」は見えませんから。
    さて、内官が「直観における多様なものを結合すること」はありません。内官はもっぱら受容性の能力なので、結合という積極的な働きはしません。すると内官だけでは「自己」という対象にアクセスできないことが分かります。
    他方、統覚は、「一切の結合の源泉」となる自己意識の統一です。しかし、統覚がかかわるのは、カテゴリーによって規定されうる直観一般の多様であるに過ぎず、「客観一般」であるに過ぎません。統覚は、「自己」という個別の対象にかかわるものではないのです。
     では、「自己」という個別の対象はどこからもたらされるのでしょう。カントはその際に中心的な役割を担うのが「構想力の超越論的な働き」であると考えています。これはまた「形象的総合」と呼ばれているとおり、上述の形象を作り出す自発性の働きです。
    さて、私が考え始めるとき、すなわち、考えていない状態から考えている状態へと変わるとき、悟性は内官に影響を与えます。考えている限りこの影響は続きます。この影響における多様を構想力が結合することで、私たちは「自己」という表象(「規定された直観」)を手に入れることができるようになります。すると、このような自己は内官において規定されたものですから、自己の形象は内官の形式に従ったものになります。すなわち、内官において構想力によって形象化されて捉えられる自己は、ひとつの現象なのです。
    どうやら、私たちは、自己自身にさえ、物それ自体としてのそれではなく現象としてのそれにのみ出会えるということになります。
    確かに、そうした現象としての自己に対して、たとえば実体のカテゴリーを適用することはできます。小学校でドッジボールに怯えた自分やら、ながらく猫をかわいがって生活してきた自分やらを構想力で結合し、それは変わらぬ自分(実体)の多様な姿であると判断することもできます。しかし、ここから分かるのは、自己についても、カテゴリーは可能な経験の範囲を超えて適用できないということです。
     では、対象面に見定められた自己ではなく、まさにそれを見定めている自我、すなわち「私」ならどうでしょうか。そうした「私」なら、知覚を介することなくカテゴリーで把握できるでしょうか。この問題は§25で扱われます。』
    抜粋引用終了

    (pipit感想)

    見る、聞く、を、

    >さて、私が考え始めるとき、すなわち、考えていない状態から考えている状態へと変わるとき、悟性は内官に影響を与えます。考えている限りこの影響は続きます。この影響における多様を構想力が結合することで、私たちは「自己」という表象(「規定された直観」)を手に入れることができるようになります。<

    思考すると、思考行為自体に影響された見られたもの、聞かれたものがたくさん生じるんだね。
    バタフライエフェクトみたいー。

    それでその影響された多様を構想力が総合的に結合することで、「この私」という対象としての表象が生まれるんだね、
    と、pipitは御子柴先生の解説を読んで、カントの文章をそんな感じに捉えました。

    ---------------

    今日は寝ますね、昨日は月が光ってたけど、今日は曇り空でした
    今日も一日おつかれさまです
    おやすみなさい(^^)v
引用返信/返信 削除キー/
■31504 / inTopicNo.34)  日記
□投稿者/ pipit -(2023/07/04(Tue) 00:34:52)
    No31503この箇所の御子柴善之先生の解説を読みました。(角川選書p220.221)
    また後ほど引用しようと思っていますが、、、

    なるほどー (・・;)

    この箇所は、見る対象に(直接は)映らない「自己」という対象をどのように対象化してるかを説明しているところかもです。

    見てる風景に対象としての自分は映らないでしょう?
    鏡は鏡だし、水面は水面だし。

    むむ、、、沼 (ーー;)

    今日は寝ますね、月がとってもきれいでしたよ。





引用返信/返信 削除キー/
■31503 / inTopicNo.35)  純粋理性批判B154
□投稿者/ pipit -(2023/07/04(Tue) 00:26:24)
    みなさまこんばんは( ^ω^ )
    No31484の続きです。
    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#chap50

    英訳略

    (英訳のpipit日訳)

    統覚(自己統合の意識)とその総合的統一は、われわれのすべての総合的結合の源泉として、対象の感覚的直観全てに先立ち、カテゴリーの名の下に直観一般の多様に関わる。

    一方、内的感覚は単なる直観の形式を含むだけで、直観の多様な総合的結合を含まないので、結果的に規定された直観はまったく含まない。

    規定された直観が可能となるのは、想像力(構想力)の超越論的働き(知性の内的感覚への総合的影響)による多様の規定の意識を通してのみであって、このような総合を私は「形象的総合」と名付けた。
引用返信/返信 削除キー/
■31484 / inTopicNo.36)  純粋理性批判B153
□投稿者/ pipit -(2023/07/02(Sun) 23:18:35)
    みなさまこんばんは
    No31457の続きです。
    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#chap50

    英訳略

    このように、想像力(構想力)の超越論的総合という名のもとに、知性は受動的な主観に対して行為を働く;

    だから、内的感覚はその(知性が働く)影響を受けると我々が言うのは正当である。統覚とその総合的統一は、内的感覚と決して同一ではない。

    ==========

    (pipit感想)
    知性の行為が内官の感覚に影響するのは
    時間的にはどうなってるのかな??
    同時に?それとも前後関係的に?

    次は、B154!どうなっていくのか見てみまーす。
    ちなみに、Bというのは、第二版の純粋理性批判ということを表しています(^ ^)
    (Aが第一版を表しています)

    みなさまおやすみなさい☆彡
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