| 研究所も27になりました。久しぶりに巻頭西遊記を書いてみます。
西遊記において、27という数字はどういう意味を持っているのでしょうか。まず手ごろなところから第27回はどういう話が書かれているのか見てみると、悟空の破門事件です。悟空は取経の旅の中で2度破門されています。第27回が最初で2度目は第56回です。この2度の破門事件がお互いに何らかの関係を持っているのか、或いは第27回に破門事件があることには意味があるのかどうか、今の処わかりません。
あまり目立ちませんが(第100回で太宗がさらっと言っています)、作者が強烈に意識していたに違いないものに貞観27年があります。なんの年かというと三蔵がお釈迦さまのいらっしゃる霊鷲山に辿りついた、即ち取経の旅が成就した年です。取経の旅は、言ってみれば西遊記の背骨です。その意味で27というのは大変重要な数字だと言わねばなりません。
ではこの27はどこから来たのか、由来というものがあるのでしょうか。般若心経です。第19回、三蔵は烏巣禅師から般若心経を教わります。烏巣禅師の般若心経を指す言葉に「54句、270字」というのがありますが、これは般若心経の句数と文字数を語ったものです。ただこれには注意が必要です。というのも般若心経の文字数の数え方は一通りではないからです。
(仏説)摩訶般若波羅蜜多心経 ←《首題》10字、「仏説」を数えると12字
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 ←《本文》262字 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舍利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是 舍利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界 乃至無意識界 無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 菩提薩《土偏+垂》依般若波羅蜜多故 心無《横目+圭》礙 無《横目+圭》礙故 無有恐怖 遠離【一切】顛倒夢想 究竟涅槃 ←ここの「一切」は日本だけ 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
般若心経 《奥題》4字
般若心経は首題(タイトル)、本文、奥題(説明が難しいのですが、最初にタイトルがあるなら最後に〆の言葉あってもいいだろう、みたいな)から構成されています。そのどの部分を以て般若心経の文字数とするかで文字数が変わってきます。まずそれらを全部数えると276字になります。ただ首題にさらに2文字加わったバージョンもあり、そうなると278字になります。あとこれはほぼ日本に流布している般若心経だけなのですが、本文の中に「一切」という言葉が3度使われていて、そのうち2度目の「一切」は日本以外では殆ど見られないのです。そうするとここで2文字の増減があります。西遊記に載っている般若心経もこの2度目の「一切」はありません。そういう訳で般若心経は何文字かという問いの答えは1通りではないのです。
では西遊記の般若心経はどのように数えて270字としているのかというと、首題10文字+本文262文字+奥題4文字,計276字のうち奥題4文字が省略されています。それと2度目の「一切」がありません。それで270字となっているのです。最後の奥題4文字をカットしたところに作者の作為があるかどうかですが、実際読経するときに日本では読むことが多いのですが、中国の読経をウェブで聞いてみると読まないことも結構あるようです。また元々玄奘訳には2回目の「一切」はないので西遊記の般若心経にもないのは普通のことです。そういう訳で西遊記の作者が般若心経を270字としたことについては無理やり自分の主張に合わせた感はありません。
一つご愛敬があります。般若心経の原典はサンスクリット語で書かれていますが、私たちが親しんでいる般若心経はこれを漢訳したものです。西遊記の中で三蔵が烏巣禅師から教わったという般若心経は実は玄奘が帰国後訳したものなのです。ですからリアルをオーバーラップさせると矛盾になりますが、西遊記に於いては何の不都合にもなりません。先の貞観27年というのも現実には貞観は23年までです。漢訳としてはその他に鳩摩羅什のものが知られています。観音さまのことを観世音菩薩と言ったりしますがこれは鳩摩羅什訳の名残りです(玄奘訳は観自在菩薩)
この辺りをしつこく検証しているのは、この270という数字が西遊記にとって非常に重要な数字だからです。どういうことかというと270は13と並ぶ西遊記に於いて最も重要な数字ではないかと思うのです。
「みそひともじ」というのは31文字のことで和歌を指します。十五夜というのは満月のことを言い、四十九日は「満中陰法要」のことです。さらに「七七日」とも言ったりしますこのように、あることを数字で言い表すことを人はよくします。ただし、般若心経を数字で呼ぶことはありません。文字数が定まっていないこともその要因の一つかもしれません。仮に270文字を般若心経のシンボルと解釈するなら途端にこの数字の重要性が見えてきます。般若心経は最も流布している経典の一つであり、人々にとっては仏教のシンボルにもなるからです。
西遊記の中で270という数字がどのように使われているか見ていきます。第27回の話は破門事件であったこと、貞観27年は三蔵一行が霊鷲山に辿りついた年であったことは既にみました。西遊記第1回では天地の秩序が語られています。いわく、「129600年を1元とそれを12の会に分ける(十二支)。そうすると1会は10800年になる」、この数は270の倍数です(270×40=10800)。当然129600も270の倍数になります。10800の10倍が108000、単位を里(り)とすれば長安から天竺までの距離、また觔斗雲一っ飛びの距離でもあります。270の20倍は5400です。アナグラムというのは文字を入れ替えて違うものにする一種の遊びですが(コナンドイルの名前conanを入れ替えcanonとホームズ物の原典を指すなど)、5400を5040にすると取経の旅に要した日数になります。第16回の観音禅院事件の老僧の年齢は270歳、第9回で袁守誠が予言した雨の量3尺3寸と48滴、これを数字だけ並べてできる数3348は27の倍数です(27×124=3348)。270を2で割って10倍すると1350、これは冥界の生死簿に書かれていた悟空の番号、その10倍、13500斤となると如意棒の重さです。
このように様々なところで270の関係数が使われているのです。今までの例で理由もなく何倍とか半分にするとか行ってきましたが、根拠はありません。ただここから言えることはどれも13の倍数ではないということです。言い換えると270と13はお互いに独立しているのではないかということです。西遊記を支える2本の屋台骨と言えるかもしれません。しかしそこはまだはっきり断言できるわけではありません。例えば13×270=3510ですが、先ほどのアナグラムの操作をすると1350となり悟空の生死簿番号になります。
仏教側のシンボルが270、道教側のシンボルが13、これがきれいに証明されればいいなあ、と思う次第です。
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