| 〈体自〉ちゃんの物語り ――間奏――
〈体自〉ちゃんにとって「外界(外諸存在)」は「他(者)」、っていう見方と、わたしが言う〈体自〉ちゃんの〈自〉のイメージについて、〈自〉を「脳」とか「意識」って言ったけど、もうちょっと書いとく。
【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】のなかから、 ******************* 第50節 他者経験は、「共現前」(類比による統覚)として、間接的な志向性をもつ
原初的な領分の定義と分節化という、超越論的には非常に重要な前段階がすでに片付いてしまったので、次には、客観的な世界の構成に向かう前途の歩みのうちの第一の歩み、すなわち「他者」への歩みに進むことになるが、ここでの本来の、しかも実際に少なからぬ困難とぶつかることになる。その困難とは、他者がまだ人間という意味を獲得していない意味での他者経験を、超越論的に解明することにある。(p195) ……‥ ここで次のように仮定してみよう。 私たちの知覚の場に他の人間が一人現れる。このことを原初的に還元して言えば、私の原初的自然の知覚の場に或る物体(ケルパー)が現れ、それは原初的な物体としてもちろん、単に私自身を規定するものの部分(「内在的超越」)にすぎない。この自然と世界のうちでは、私の身体(ライプ)が、身体(機能している器官)として根源的に構成されている。また構成されることができる唯一の物体(ケルパー)である。だから、そこにある物体〔他の人間〕はなるほど身体として捉えられているが、それはこの〔身体という〕意味を、私の身体の把握からの転移によって得るのでなければならない。しかもそれは、それ特有の身体性という術語を現に直接的に、それゆえ原初的に実証すること、すなわち本来的な知覚によって実証することは排除するような仕方においてである。私の原初的領分の内部での、あそこにある物体を私の物体と結びつける類似性のみが、前者を他の〔他人の〕身体として「類比によって」捉えるように動機づけるための基礎を与えることができるということは、初めから明らかである。それゆえ、それは或る種の類似にもとづく統覚という把握の働きであろうが、だからと言って、それは類推〔類比推理(32)〕なのではない。ここで言う統覚(33)とは推理ではないし、思考作用でもない。(p198-199) …‥ すでに物が見えている子供は、例えばハサミの使い方を初めて理解した後では、一目で直ちにハサミをハサミとして見るようになる。しかし、それはもちろん顕在的な再生産や比較によってでもなければ、或る推論を行うことによってでもない。とは言いながら、では、どのようにして統覚が生じるのか、さらに、どのようにして統覚はその意味と意味の地平を通じてそれ自身でその発生を志向的に遡って指示しているのか、については非常に多様である。対象的意味の段階形成には、統覚の段階形成が対応している。結局、私たちはいつも二種類の統覚の根本的な区別に戻ってくることになる。一つには、その発生からして純粋に原初的領分に属するような統覚と、もう一つには他我(アルター・エゴ)という意味とともに現れ、より高次の発生のおかげで、この意味のうえに新しい意味を積み重ねるような統覚、という二つの統覚の区別である。(p200) …・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 訳注(32) Analorgiechluß:類比を使った推論(Schluß)という知的操作である。他者(他の人の心)についての知を類推説によって定式化したのは、J・S・ミルであったが、それに対して批判を加え、「いかなる推論でもなく、或る根源的で、それ以上遡ることのできない本能的事実」として「感情移入」を主張したのがリップスであった。 訳注(33) Apperzeption:Perzeption(もとはラテン語perceptioで、「知覚」の意)に前つづりAd-(「方向・接近・隣接・接着」の意)が付け加えられたもの。もとはライプニッツが、対象を判明に知覚するとき、その知覚作用自体にもわれわれは気づく、このことを「統覚」と呼んで哲学的概念として定着させた。その後、感性的直観の多様が悟性により結合される場合の、統一を形成する主観の根源的働きを「統覚」と呼んだ。フッサールは、カントの用法を踏まえながらも、或るものの端的な把握としての「知覚」と区別して、さまざまな把握を取りまとめて統一的に知覚することを「統覚」と呼んでいる。 *******************
わたしのなかにはこういうのがあるのね。ほら、ここでは「他者」を問題としてるみたいだし。
「二種類の統覚がある」っていうのが、前、わたしが気になって、いろいろ書いたかもだけど、いまわたしが見ようとしていることから抽出してるのは、「私の原初的自然の知覚の場」とか「私の原初的領分の内部」っていうところ。わたしこういうのを〈体自〉ちゃんの〈自〉のイメージとしてる。
〈体自〉ちゃんを〈原初自然の私〉としてイメージしているから、その〈自〉もそんなような〈ing意識の原初的領分〉とか〈ing知覚の場〉みたいな感じの。
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