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■30899 / inTopicNo.13)  Re[26]:純粋理性批判・B150
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/05/31(Wed) 19:55:47)
    pipitさま、お邪魔するね、
    No30895
    >感性的直観<
    ってあるけど、<感性的>ではない<直観>っていうの、
    カント、なんか言ってる?

引用返信/返信 削除キー/
■30896 / inTopicNo.14)  YouTubeショート日記
□投稿者/ pipit -(2023/05/31(Wed) 11:45:08)
引用返信/返信 削除キー/
■30895 / inTopicNo.15)  純粋理性批判・B150
□投稿者/ pipit -(2023/05/31(Wed) 11:36:06)
    2023/05/31(Wed) 11:59:07 編集(投稿者)

    みなさまこんにちは(^○^)
    No30883のJ. M. D. Meiklejohnさんによる英訳をpipitが日訳しました。

    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#chap50

    (英訳のpipit的日訳)

    感性的直観のある種の形式が心にはアプリオリに存在するが、それは表象機能(感性)の受容性に基礎を置く。

    その与えられた表象の多様によって、自発性としての知性は、統覚の総合的統一に適合する形で、内的な感覚の規定を可能にする。

    だからこそ、アプリオリな感性的直観の多様の統覚の総合的統一は、人間の直観の全対象が必然的に従わなくてはならない条件と考えられる。

    ===========

    (pipit感想)
    カントの文章を、逆に辿って理解にチャレンジしてみます。

    @人間の感性で自分の外の世界にある対象として像を得られる時、その像の条件は、

    A感性の受容的能力で得られた多様な像を、知性の自発的能力で一つの意識にまとめ上げた統一的総合的像となってる、と。

    そんで、認識工程の結果像である@は、カント的には「to determine the internal sense 」いろんな心の内に生じる(外のものとして内に生じる)感覚を、「私は考える・・・」という意識に統一として、ある個別の対象として、規定した結果なのかな、と、思いました。

    _(:3」z)_ ヤヤコイナァ
引用返信/返信 削除キー/
■30883 / inTopicNo.16)  Re[25]: 純粋理性批判・B150
□投稿者/ pipit -(2023/05/29(Mon) 21:34:35)
    みなさまこんばんは♪ 次の一文ですー

    、、、、_(:3」z)_ ナガイ-

    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#chap50

    But because a certain form of sensuous intuition exists in the mind à priori which rests on the receptivity of the representative faculty (sensibility), the understanding, as a spontaneity, is able to determine the internal sense by means of the diversity of given representations, conformably to the synthetical unity of apperception, and thus to cogitate the synthetical unity of the apperception of the manifold of sensuous intuition a priori, as the condition to which must necessarily be submitted all objects of human intuition.
引用返信/返信 削除キー/
■30880 / inTopicNo.17)  Re[12]: 超越論的分析論X−3
□投稿者/ pipit -(2023/05/29(Mon) 19:22:36)
    2023/05/30(Tue) 05:54:48 編集(投稿者)

    うましかさん、こんばんはー♪

    No30874
    > 試しに読んでみたけど、だめだ今アタマに全然入ってこない〜(ToT)/~~~<

    おつかれさま!
    おぉぉ、これは、魔の(?)箇所....
    無限....

    > ◇ 2 同様に、超越論的論理学においては、無限判断〔unendliche Urteile〕≠ヘ肯定判断〔bejahenden (Urteil)〕≠ゥらやはり区別されねばならない。たとえ無限判断が一般論理学においては肯定判断に数えられ、その区別の特別の項を成さないのが正当であるとしても、そうである。
    >
    > ◇ つまり、一般論理学では述語のあらゆる内容を(たとえ述語が否定的であっても)捨象し、はたして述語が主語に付加されるのか、或いは主語と対立するか〔ということ〕にだけ注目するのである。<

    少なくともカントの時代の一般論理学ではそうだったのですね、ふむふむ...


    > ◇ しかし、超越論的論理学は、判断を、単に否定的な述語を媒介とするこの論理的肯定の価値または内容にしたがっても考察し、<

    主語 は 非・◯
    についてかな?

    >この論理的肯定がその全認識に関していかなる利得をもたらすかを考察する。<

    ふむふむ...

    > ◇ 〔例えば、仮に〕私が霊魂について「霊魂は死ぬものではない〔sie ist nicht sterblich〕」と言ったとすると、私は否定判断〔verneinenden Urteil 〕によって少なくとも一つの誤謬を防いだことになる。<

    これは否定判断なのですね。
    主語 ≠ ◯

    > ◇ ところで、私は、「霊魂は死なないものである〔die Seele ist nichtsterblich〕」という命題によっては、<

    これが無限判断かな?
    主語 = 非・◯
    この命題は、、、

    >霊魂を不死なる存在者の無制限な外延の内に置くので、なるほどその論理的形式から言えば実際に肯定したのである。<

    《非・◯》の外延の内、ということかなぁ
    その肯定


    > ◇ だが、死ぬものは可能的存在者の全外延の一部分を含み、<

    ん?可能的存在者の一部分が死ぬもので、、


    >死なないものは他の部分を含むので、<

    可能的存在者の他の部分、、

    >私の命題によって主張されているのは、<

    「霊魂は死なないものである〔die Seele ist nichtsterblich〕」によって主張されているのは、、

    >霊魂とは、私が死ぬものをことごとく除去しても残存するところの、無限に多くの諸物のうちの一つであるということ以外の何ものでもない。<

    霊魂の(特定の、個としての、知識となることができる)規定はされてない、ということかな。

    否定判断と無限判断の違いかぁ、ややこしいなぁ。
    石川求先生の本、積読になってます....

    読書おつかれさまです(^ ^)
引用返信/返信 削除キー/
■30874 / inTopicNo.18)  超越論的分析論X−3
□投稿者/ うましか -(2023/05/29(Mon) 01:04:09)
    2023/05/29(Mon) 01:04:54 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    試しに読んでみたけど、だめだ今アタマに全然入ってこない〜(ToT)/~~~

    とりあえず中山元訳2のp.285〜を読んでますが…
    御子柴善之泉(注:『カント 純粋理性批判』,角川選書)p.127も参照しようかな
    (;´・ω・)

    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論〔DIE TRANSZENDENTALE ANALYTIK〕
    第一篇 概念の分析論
    〔略〕

    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて〔Von dem Leitfaden der Entdeckung aller reinen Versatandesbegriffe〕
    〔略〕

    □全ての純粋悟性概念を発見する超越論的な手引き
    第二節 (第九項) 判断における悟性の論理的機能について〔§9 Von der logischen Funktion des Verstandes in Urteilen〕

    ◆ もし私たちが判断一般の全ての内容を捨象し、判断における単なる悟性の形式だけに注目するならば、私たちは判断における思考の機能が四つのタイトル〔Titel〕に分けられることができ、それぞれのタイトルが三つの契機〔Momente〕を自身の下に含んでいることを見出すだろう。それは次の表で適切に示されることができる。

    1 判断の量=kQuantitaet der Urteile.〕
    ・全称判断 〔Allgemeine〕 〔すべてのAはBである〕
    ・特称判断 〔Besondere〕 〔あるAはBである〕
    ・単称判断 〔Einzelne〕  〔ある一つのAはBである〕

    2 〔判断の〕質=kQualitaet.〕
    ・肯定判断 〔Bejahende〕 〔AはBである〕
    ・否定判断 〔Verneinende〕 〔AはBでない〕
    ・無限判断 〔Unendliche〕 〔Aは非Bである〕

    3 〔判断の〕関係=kRelation.〕
    ・定言判断 〔Kategorische〕 〔AはBである〕
    ・仮言判断 〔Hypothetische〕 〔もしAがBなら、CはDである〕
    ・選言判断 〔Disjunktive〕 〔Aは、BであるかCであるかDであるかのいずれかである〕

    4 〔判断の〕様相=kModalitaet.〕
    ・蓋然的判断〔Problematische〕 〔AはBかもしれない〕
    ・実然的判断〔Assertorische〕 〔AはBである〕
    ・確然的判断〔Apodiktische〕 〔AはBでなくてはならない〕

    ◆ この区分は、たとえ本質的な点ではないとしても、いくつかの点で、論理学者たちの慣れ親しんだ手法とは違っているように見えるから、心配されるような誤解を防ぐために以下のような注意をしておくのも無用ではないだろう。
    ◆ 1 論理学者たちが、「理性推論〔Vernunftschluessen〕において判断する際、単称判断〔einzelnen Urteile〕は全称判断〔allegemeinen (Urteile)〕と同じものとして取り扱われる」と言うのは正当である。
    というのも、単称判断は全く外延をもっていないというまさにこの理由で、単称判断の述語が主語の概念の下に含まれているものの幾つかとだけ連関し、他の幾つかからは排除されるということはあり得ないからである。
    それ故、その〔単称判断の〕述語は主語の概念に例外なく妥当するが、それは、あたかもこの〔単称判断の〕主語の概念が一つの外延をもつ全称的な〔gemeingueltiger〕概念であって、この外延の全ての意味〔Bedeutung〕にその述語が妥当するかのようである。
    これに対して、私たちが単称判断を単に認識として、その量からみて全称判断〔gemeingueltigen〕と比較するならば、単称判断の全称判断に対する関係は、単一性〔Einheit〕の無限性〔Unendlichekeit〕に対する関係と同様である。それ故、単称判断はそれ自体としては全称判断から本質的に区別されている。
    従って、私が単称判断(judicium singulare)を、単にその内的な妥当性〔innnern Gueltigkeit〕によってのみならず、認識一般として、それが他の諸認識との比較においてもつ量によって評価するならば、単称判断はもちろん全称判断〔gemeingueltigen Urteil〕(judicia communia )から別されている。
    だから〔単称判断は、〕思考一般の諸契機を示す完璧な表においては、(たとえ単に判断の使用相互の関係にのみ制限される論理学においてはそうでないことは言うまでもないとしても、)一つの特別な位置を占めるに値するのである。

    --- No.30542,30550からの続き ---

    ◇ 2 同様に、超越論的論理学においては、無限判断〔unendliche Urteile〕≠ヘ肯定判断〔bejahenden (Urteil)〕≠ゥらやはり区別されねばならない。たとえ無限判断が一般論理学においては肯定判断に数えられ、その区別の特別の項を成さないのが正当であるとしても、そうである。

    ◇ つまり、一般論理学では述語のあらゆる内容を(たとえ述語が否定的であっても)捨象し、はたして述語が主語に付加されるのか、或いは主語と対立するか〔ということ〕にだけ注目するのである。

    ◇ しかし、超越論的論理学は、判断を、単に否定的な述語を媒介とするこの論理的肯定の価値または内容にしたがっても考察し、この論理的肯定がその全認識に関していかなる利得をもたらすかを考察する。

    ◇ 〔例えば、仮に〕私が霊魂について「霊魂は死ぬものではない〔sie ist nicht sterblich〕」と言ったとすると、私は否定判断〔verneinenden Urteil 〕によって少なくとも一つの誤謬を防いだことになる。

    ◇ ところで、私は、「霊魂は死なないものである〔die Seele ist nichtsterblich〕」という命題によっては、霊魂を不死なる存在者の無制限な外延の内に置くので、なるほどその論理的形式から言えば実際に肯定したのである。

    ◇ だが、死ぬものは可能的存在者の全外延の一部分を含み、死なないものは他の部分を含むので、私の命題によって主張されているのは、霊魂とは、私が死ぬものをことごとく除去しても残存するところの、無限に多くの諸物のうちの一つであるということ以外の何ものでもない。


    † 原佑訳上巻、p.214〜p.215参照。
    † その他に、中山元訳2、p.57〜p.58、石川文康訳上巻、p.128〜p.129を参照。
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    X−1 No.30542、X−2 No.30550、V−3 No.30874
    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550,30874

引用返信/返信 削除キー/
■30865 / inTopicNo.19)  日記
□投稿者/ pipit -(2023/05/28(Sun) 16:20:14)
    2023/05/28(Sun) 16:25:51 編集(投稿者)

    No3863
    (pipit感想)
    >どんな感覚が経験的にやってきても、できあがる客体としての認識(感覚の総合)は、『わたしは考える・量、質、関係、様相』として規定された対象認識になる、ということが、(アプリオリな、認識に対する認識)=(超越論的認識)かなと思いました。<


    素材が《感官による表象》、動力が《知性の判断作成機能》、結果が《対象(オブジェクト)》という枠組みかなと今のところ考えました。

    250年くらい前のカントせんせの変人....
引用返信/返信 削除キー/
■30863 / inTopicNo.20)  純粋理性批判・B150
□投稿者/ pipit -(2023/05/28(Sun) 14:34:37)
    2023/05/28(Sun) 14:45:49 編集(投稿者)
    2023/05/28(Sun) 14:37:57 編集(投稿者)

    みなさまこんにちは!英訳を日訳してみました ( ;∀;)

    The synthesis or conjunction of the manifold in these conceptions

    これら概念の中での、(感性的)多様なものの総合や結合は、

    relates, we have said, only to
    the unity of apperception,

    先に述べたように、統覚の統一にだけ関わる。

    and is for this reason the ground of the possibility of a priori cognition, in so far as this cognition is dependent on the understanding.

    そのため、その認識が知性に依存している限りにおいて、アプリオリな認識の可能性の根拠となる。

    This synthesis is, therefore, not merely transcendental, but also purely intellectual.

    したがって、この総合は、単に超越論的であるだけでなく、純粋に知性的なものでもある。

    ============
    (pipit感想)

    感性の多様を知性が総合する行いは、自己統合の意識の統一に依る。
    換言すれば、
    【知性による統覚(自己統合の意識)があるとき 感覚の総合 がある】

    どんな感覚が経験的にやってきても、できあがる客体としての認識(感覚の総合)は、『わたしは考える・量、質、関係、様相』として規定された対象認識になる、ということが、(アプリオリな、認識に対する認識)=(超越論的認識)かなと思いました。

    カントは、《感性による感覚 の 総合 は 知性に依存している》と置いて、次に繋げたいのかな、と、思いました。
引用返信/返信 削除キー/
■30847 / inTopicNo.21)  マジモンさんへ
□投稿者/ pipit -(2023/05/27(Sat) 07:04:51)
    2023/05/27(Sat) 07:06:20 編集(投稿者)

    No30846に返信(マジカルモンキーさんの記事)
    > アプリって、アプリオリの事なんだね、ちょっとびっくり。

    マジモンさん、おはよう!

    アプリは、アプリケーションのことみたいだけど、
    考え方によっては、アプリオリに結果を規定しているものがアプリと言えなくもないかも(一般常識としてではなく哲学的思考として)ですね

    少し検索して見つけたページ↓(今から用事なので後でゆっくり読もうと思います)
    https://web.lingual-ninja.com/2018/11/application-origin.html

    マジモンさんの視点はおもしろいですね(^ ^)
    書き込みありがとうです♪

引用返信/返信 削除キー/
■30846 / inTopicNo.22)  NO TITLE
□投稿者/ マジカルモンキー -(2023/05/27(Sat) 01:14:45)
    アプリって、アプリオリの事なんだね、ちょっとびっくり。
引用返信/返信 削除キー/
■30840 / inTopicNo.23)  Re[23]: B149
□投稿者/ pipit -(2023/05/26(Fri) 21:14:22)
    みなさま、こんばんは♪
    No30833を訳してみました。

    (英訳のpipit日訳)

    その直観が感覚的なものであるなら、人間の直観であれ他の直観であれ、
    純粋な知性の概念は、知性(the understanding)を通じてのみ直観一般に適用される。
    まさにこの理由により、(純粋知性概念は)単なる思考の形式であり、それのみでは特定の認識となはならない。

    ========

    (pipit感想)
    例えば、「ひとつ」で考えてみますね。
    ある直観像は「ひとつ」である、と判断する(直観に概念を適用する)のが知性(アンダースタンディング)とすると、
    「ひとつ」は単なる思考の形式で、直観無しの概念「ひとつ」それのみが特定の対象を言い表すわけではない、と、カントは言ってるのかなと考えました。

    この『演繹論』の箇所ほんとにカントが何言ってるのかわかり難い!!それがこれからも延々と続きそう....
    誤読してたらすみません。
    (T ^ T)ウッ


引用返信/返信 削除キー/
■30834 / inTopicNo.24)  アプリ日記
□投稿者/ pipit -(2023/05/26(Fri) 00:14:33)
    ふと思いついたので

    >the Application of the Categories <

    カテゴリ アプリ ....

    アンドロイドちゃんに搭載?
引用返信/返信 削除キー/

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