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■28294 / inTopicNo.85)  ザビビのふくろうさんへ
  
□投稿者/ パニチェ -(2022/12/29(Thu) 18:15:54)
    ザビビのふくろうさん、レスありがとうございます。

    No28290に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    > ■No28288に返信(パニチェさんの記事)
    >>2022/12/29(Thu) 14:03:17 編集(投稿者)

    >>こんにちは、レスありがとうございます。

    >>■No28287に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    > >>>パニチェさん

    > >>お二人の対話を少し拝見していて、私にはbwv602さんの的確な引用と説明が分かりやすく、パニチェさんの方が分かりにくく感じていました。
    > >>これは「本質」についてのパニチェさんの定義など、議論の筋道が通常の哲学のそれと異なるからかなぐらいに思ってたんです。
    > >>が、今朝、朝の珈琲を用意している最中に、アレ?要はこういうことかな?と思いついたので、確認したくなってお邪魔した次第です。

    > >>【〈パニチェ氏の考え〉についてのふくろうの理解】

    > >>存在者は語り得る。
    > >>しかし、存在者を存在者たらしめるその本質、即ち〈存在〉は語り得ない。

    > >>同様に、

    > >>「私」は語り得る。
    > >>しかし、「私」を「私」たらしめるその本質、即ち〈私〉は語り得ない。

    > >>その対象が「私」であれ花であれ、認識論的問題は「である」の問題であり、語り得る問題である。(私はデカルトである。これは花である。)

    > >>しかし〈私〉は語り得ぬものであり、〈私〉についての問いは「がある」への問い、即ち存在論的問題である。(私は今此処にある。)
    > >>**********
    > >>後半2節は若干言い(読み込み)過ぎかもしれませんが、このように図式化してシンプルに捉えると、私的には、内容理解としては腑に落ちる気がします。

    > >>というわけで、
    > >>上記の私の理解は、パニチェさんの仰っていることの理解としてどうでしょうか?

    >>はい。その通りです。
    >>ザビビのふくろうさんのまとめてもらった文章の方が私より明確かつコンパクトにまとまっています。

    > ああ、やはりそうでしたか。
    > そうすると、理路はむしろシンプルですね。
    > なんで私、これまで分かりにくかったんだろ?(笑)
    > たぶん、どこかで誤解して、この理路が見えてなかった、ってことか…

    私のレス交換の展開に問題があるというか、他の目的を重視しているため分かりにくくしているのだと思います。
    私の場合、ロムしている方がどう読むかはあまり考えていなくて、レス交換している相手の方からの刺激(次回の返信)を優先しつつ、自分の考えを深めたり、訂正したりする作業を行っています。自分の考えを見直したり、その時点での考えをまとめつつ返信しているところが多々あるからです。

    > bwv602さんとのやりとり、楽しく読ませてもらってます。
    > なんか話に出てきた
    > 『〈仏教3.0〉を哲学する』
    > に興味を惹かれました。

    もし気が向いて読まれたら、是非ザビビのふくろうさんの感想も教えて下さい。
    すごく興味があります。

    > では、またロムに戻ります。
    > ありがとうございましたm(_ _)m

    こちらこそ、ありがとうございました。
    ザビビのふくろうさんが「後半2節は若干言い(読み込み)過ぎかもしれません」と補足しつつ返された以下のレス。

    > その対象が「私」であれ花であれ、認識論的問題は「である」の問題であり、語り得る問題である。(私はデカルトである。これは花である。)
    > しかし〈私〉は語り得ぬものであり、〈私〉についての問いは「がある」への問い、即ち存在論的問題である。(私は今此処にある。)

    上記はbwv602さんの返信によっては今後カキコしようと思っていた私の意見を先読みされています。
    さすがに鋭いし、ここは驚かされました。
    これへの返信はお気遣いなく。
引用返信/返信 削除キー/
■28290 / inTopicNo.86)  パニチェさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2022/12/29(Thu) 16:16:54)
    2022/12/29(Thu) 16:25:30 編集(投稿者)
    パニチェさん
    レスをありがとうございます。

    No28288に返信(パニチェさんの記事)
    > 2022/12/29(Thu) 14:03:17 編集(投稿者)
    >
    > こんにちは、レスありがとうございます。
    >
    > ■No28287に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    >
    >>>パニチェさん
    >
    >>お二人の対話を少し拝見していて、私にはbwv602さんの的確な引用と説明が分かりやすく、パニチェさんの方が分かりにくく感じていました。
    >>これは「本質」についてのパニチェさんの定義など、議論の筋道が通常の哲学のそれと異なるからかなぐらいに思ってたんです。
    >>が、今朝、朝の珈琲を用意している最中に、アレ?要はこういうことかな?と思いついたので、確認したくなってお邪魔した次第です。
    >
    >>【〈パニチェ氏の考え〉についてのふくろうの理解】
    >
    >>存在者は語り得る。
    >>しかし、存在者を存在者たらしめるその本質、即ち〈存在〉は語り得ない。
    >
    >>同様に、
    >
    >>「私」は語り得る。
    >>しかし、「私」を「私」たらしめるその本質、即ち〈私〉は語り得ない。
    >
    >>その対象が「私」であれ花であれ、認識論的問題は「である」の問題であり、語り得る問題である。(私はデカルトである。これは花である。)
    >
    >>しかし〈私〉は語り得ぬものであり、〈私〉についての問いは「がある」への問い、即ち存在論的問題である。(私は今此処にある。)
    >>**********
    >>後半2節は若干言い(読み込み)過ぎかもしれませんが、このように図式化してシンプルに捉えると、私的には、内容理解としては腑に落ちる気がします。
    >
    >>というわけで、
    >>上記の私の理解は、パニチェさんの仰っていることの理解としてどうでしょうか?
    >
    > はい。その通りです。
    > ザビビのふくろうさんのまとめてもらった文章の方が私より明確かつコンパクトにまとまっています。

    ああ、やはりそうでしたか。
    そうすると、理路はむしろシンプルですね。
    なんで私、これまで分かりにくかったんだろ?(笑)
    たぶん、どこかで誤解して、この理路が見えてなかった、ってことか…

    bwv602さんとのやりとり、楽しく読ませてもらってます。
    なんか話に出てきた
    『〈仏教3.0〉を哲学する』
    に興味を惹かれました。

    では、またロムに戻ります。
    ありがとうございましたm(_ _)m




引用返信/返信 削除キー/
■28288 / inTopicNo.87)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2022/12/29(Thu) 13:56:04)
    2022/12/29(Thu) 14:03:17 編集(投稿者)

    こんにちは、レスありがとうございます。

    No28287に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    > >パニチェさん

    > お二人の対話を少し拝見していて、私にはbwv602さんの的確な引用と説明が分かりやすく、パニチェさんの方が分かりにくく感じていました。
    > これは「本質」についてのパニチェさんの定義など、議論の筋道が通常の哲学のそれと異なるからかなぐらいに思ってたんです。
    > が、今朝、朝の珈琲を用意している最中に、アレ?要はこういうことかな?と思いついたので、確認したくなってお邪魔した次第です。

    > 【〈パニチェ氏の考え〉についてのふくろうの理解】

    > 存在者は語り得る。
    > しかし、存在者を存在者たらしめるその本質、即ち〈存在〉は語り得ない。

    > 同様に、

    > 「私」は語り得る。
    > しかし、「私」を「私」たらしめるその本質、即ち〈私〉は語り得ない。

    > その対象が「私」であれ花であれ、認識論的問題は「である」の問題であり、語り得る問題である。(私はデカルトである。これは花である。)

    > しかし〈私〉は語り得ぬものであり、〈私〉についての問いは「がある」への問い、即ち存在論的問題である。(私は今此処にある。)
    > **********
    > 後半2節は若干言い(読み込み)過ぎかもしれませんが、このように図式化してシンプルに捉えると、私的には、内容理解としては腑に落ちる気がします。

    > というわけで、
    > 上記の私の理解は、パニチェさんの仰っていることの理解としてどうでしょうか?

    はい。その通りです。
    ザビビのふくろうさんのまとめてもらった文章の方が私より明確かつコンパクトにまとまっています。
引用返信/返信 削除キー/
■28287 / inTopicNo.88)  パニチェ氏へ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2022/12/29(Thu) 12:01:18)
    パニチェさん、bwv602さん
    こんにちは。
    横から失礼します。

    >パニチェさん

    お二人の対話を少し拝見していて、私にはbwv602さんの的確な引用と説明が分かりやすく、パニチェさんの方が分かりにくく感じていました。
    これは「本質」についてのパニチェさんの定義など、議論の筋道が通常の哲学のそれと異なるからかなぐらいに思ってたんです。
    が、今朝、朝の珈琲を用意している最中に、アレ?要はこういうことかな?と思いついたので、確認したくなってお邪魔した次第です。

    【〈パニチェ氏の考え〉についてのふくろうの理解】

    存在者は語り得る。
    しかし、存在者を存在者たらしめるその本質、即ち〈存在〉は語り得ない。

    同様に、

    「私」は語り得る。
    しかし、「私」を「私」たらしめるその本質、即ち〈私〉は語り得ない。

    その対象が「私」であれ花であれ、認識論的問題は「である」の問題であり、語り得る問題である。(私はデカルトである。これは花である。)

    しかし〈私〉は語り得ぬものであり、〈私〉についての問いは「がある」への問い、即ち存在論的問題である。(私は今此処にある。)
    **********
    後半2節は若干言い(読み込み)過ぎかもしれませんが、このように図式化してシンプルに捉えると、私的には、内容理解としては腑に落ちる気がします。

    というわけで、
    上記の私の理解は、パニチェさんの仰っていることの理解としてどうでしょうか?


引用返信/返信 削除キー/
■28262 / inTopicNo.89)  メモ:本質と実相
□投稿者/ パニチェ -(2022/12/27(Tue) 21:50:44)
    本質が言語化できないのは

    本質とは実相だからである

    実相は言語化できない

    諸法実相
引用返信/返信 削除キー/
■28260 / inTopicNo.90)  Re[10]: 存在論
□投稿者/ パニチェ -(2022/12/27(Tue) 21:05:11)
    2022/12/27(Tue) 21:12:12 編集(投稿者)

    No28253に返信(悪魔ちゃんさんの記事)

    > 素朴的経験的わたしから見たのを、ちょっと書くね。

    了解!

    > >「〇〇がある」の「ある」について考察するのが存在論であり、「〇〇である」の「ある」は存在論の範疇外である。<
    > っていうところ。

    > わたし「ある」っていうのを「存在する」って言いかえて見てるのね。
    > (1)「○○がある」は、「○○が存在する」
    > (2)「○○である」は、「○○で存在する」
    > パニさんが言うには、(2)は>「ある」は存在論の範疇外である<っていうことになるんね。

    そうです。

    > だとしたら、実存的わたしから見たら、その「存在論」は上空飛行してるだけの図でしかないわね。

    (2)「○○である」は、「○○で存在する」からどういう存在論が展開あるいは論じられるの?
    少なくとも私は「○○である」から存在論を展開したり論じたりできない。

    > ねえ、パニさん、「ニーチェ」って知ってる?

    知らん(爆)

    > 彼は(2)を存在論じゃないっていう人をアイロニーしてるのよ。

    出自を示してちょ。

引用返信/返信 削除キー/
■28259 / inTopicNo.91)  本質論
□投稿者/ パニチェ -(2022/12/27(Tue) 21:01:32)
    2022/12/29(Thu) 07:01:48 編集(投稿者)

    こんばんは、bwv602さん。レスありがとうございます。
    久々に心地よい知的刺激をもらってます。^^
    以下もさらなる刺激を求めて忌憚なく私の思うところをbwv602さんにぶつけてみますので、よろしくお願いします。

    No28249に返信(bwv602さんの記事)

    > わかりました。
    > その反論とは別に、前の話の続きで「実存は本質に先立つ」という文脈での「本質」について考えてみます(この前私は本質については何も書かなかったと思うので)。
    > 遡れば、プラトンのイデア論も本質の問題ですし、永井均さんが書いていたようにアリストテレスの「形相」も本質の問題です。それ以来、本質の問題は哲学史の中で様々な文脈の中で考察されているので、その意味もそれぞれの哲学者の立場によって異なっていると思います(例えば、一切は解釈であり真理は無数にあるとするニーチェの立場からは、イデア論のような本質観は否定されます)。
    > その中で、サルトルの「実存は本質に先立つ」という言葉は、川原栄峰氏や永井均さんが言っているように「・・・がある」が「・・・である」に先立つということであり、もっと端的に言えば、永井均さんが述べているように「〈私〉であることには本質がないのです。実存があるだけなのです。」(『〈仏教3.0〉を哲学する』バージョンU、p.67)ということ、つまり「・・・がある」だけがあって「・・・である」がないという事態を意味していると思います。

    ここは少し永井さんの意見とは違いますね。
    〈私〉に本質がないのではなくて、「私」の本質が〈私〉なんだから〈私〉には本質がない。本質に本質があったら本質とは言いませんからね。ただ〈私〉はもちろん実存ですし、「ただたんにある」ということです。
    本質という語の定義がパニチェと他者では違っている可能性もありますが。

    > それがどういう事態であるのかを理解するにはサルトルの思想を見なければなりませんが、井筒俊彦氏が『意識と本お質』の中でサルトルの実存と本質について東洋思想に関連づけて考察しているところが面白かったので、その一部を引用します。

    > 【Xを「花」と呼ぶ、あるいは「花」という語をそれに適用する。それができるためには、何はともあれ、Xがなんであるかということ、すなわちXの「本質」が捉えられていなければならない。
    > 意識がXに向って滑り出して行く、その初動の瞬間において、Xはすでに何かである。そしてXを何かであるものとして把握することは、すなわちXの原初的定義であり、最も素朴な形における「本質」把握以外の何ものでもない。もしこのような原初的「本質」把握もなしに、ただやみくもに「外」に出て行けば、たちまち不気味な「存在」の渾沌の泥沼の中にのめり込んで、「嘔吐」を催すほかはないだろう。

    ここもちょっと異論があります。
    先に述べておくとここらあたりの認識論はパニチェは哲学よりも現代脳科学の知見を参考にしています。

    対象が花であることを把握するためには花の本質が何たるかではなく、私たちの花に関する複数の情報や定義によって判明するのであって、それらを本質と呼ぶのは抵抗があります。例えば花そっくりに作った造形物も私たちは花と認識するでしょう。蕾から咲いたところを確認しなければ、それが花であるかどうかは分かりませんし、本質どうのこうのではない。

    カモノハシのような動物を初めて見たら私たちはそれが何であるかは分からない。記憶と照合することによってそれが何であるかが判明する。
    その記憶とは本質ではなくてある対象に関する情報や定義だと思います。

    > 「ついさっき私は公園にいた」とサルトルは語り出す。「マロニエの根はちょうどベンチの下のところで深く大地につき刺さっていた。それが根というものだということは、もはや私の意識には全然なかった。あらゆる語は消え失せていた。そしてそれと同時に、事物の意義も、その使い方も、またそれらの事物の表面に人間が引いた弱い符牒の線も。背を丸め気味に、頭を垂れ、たった独りで私は、全く生のままのその黒々と節くれ立った、恐ろしい塊りに面と向って坐っていた。」

    > 絶対無分節の「存在」と、それの表面に、コトバの意味を手がかりにして、か細い分節線を縦線に引いて事物、つまり存在者、を作り出して行く人間意識の働きとの関係をこれほど見事に形象化した文章を私は他に知らない。
    > コトバはここではその本源的意味作用、すなわち「本質」喚起的な分節作用において捉えられている。コトバの意味作用とは、本来的には全然分節のない「黒々として薄気味悪い塊り」でしかない「存在」にいろいろな符牒を付けて事物を作り出し、それらを個々別々のものとして指示するということだ。
    > およそ名があるところには、必ずなんらかの形での「本質」認知がなければならない。だから、あらゆる事物の名が消えてしまうということ、つまり言語脱落とは、「本質」脱落を意味する。そして、こうしてコトバが脱落し、「本質」が脱落してしまえば、当然、どこにも裂け目のない「存在」そのものだけが残る。それが「嘔吐」を惹き起すのだ。】

    私はウィトゲンシュタインが好きなこともあり、正直申し上げてこの辺のコトバと意味と本質に関する主張はあまりピンと来ません。

    例えば「うがい」という名称は、うがいという習慣(文化)がない国には「うがい」という言葉すらない。うがいという名称は本質云々ではなく「うがい」という風習があるかないかだけです。

    言葉は文化や生活習慣を背景にした日常的な言語ゲーム(言葉を用いることによって新たな意味や新たな言葉も生み出されていく)によって、意味や定義だけではなく用法や用途も変化していく。
    言語脱落とは「本質」脱落を意味するのではなくて、本来、本質は言語化できない。
    故に「私」の本質は言語化不可能な〈私〉という表記でしか記述できない。

    > すべての本質が剥げ落ちて、実存だけが現れるこのような事態にサルトルの小説『嘔吐』の主人公が愕然とするのは、彼が表層意識に身を置いており、存在の深層を見る準備ができていないからだと井筒俊彦氏は言います。そしてここから井筒氏は、深層意識に身を据えた東洋思想における本質論(本質否定)の考察に移っていきます。

    > 【もし表層意識が深層意識に転換し、「真如」すなわち絶対無分節者が、その本源的無分節のままで現われてくれば、経験的存在世界においてあらゆる存在者を互いに区別する「本質」はことごとく消え失せてしまう。
    > 『起信論』で、「一切の諸法は、ただ妄念によりて差別あるのみにして、もし心念を離るるときは、則ち一切の境界の相なし」というのはこのことを指すのである。】

    > 以前パニチェさんは〈私〉について「無色透明」ということを書かれていて、それへの返信で私は瞑想において「自我の殻がどんどん薄くなっていって、全ての存在と地続きになっていくような感覚」を覚えることを書きましたが、私のこの感覚は、『起信論』の「一切の境界の相なし」という事態、そしてサルトルの言う全ての本質が剥げ落ちる事態に近いものだと思っています。
    > 井筒氏が言うように「言語」脱落が「本質」脱落に他ならないとすれば、パニチェさんの「先言の〈私〉」の「無色透明」もそれに近いのではないでしょうか。

    はい、ほぼその通りですが、〈私〉は「私」の本質そもののであるので脱落しようがないと言った方がパニチェ的にはしっくりきます。
    でも、上記の井筒氏の深層意識に身を据えた東洋思想における本質論(本質否定)の考察は面白いしほぼ同意できます。

    > わかりました。ありがとうございます。
    > 話は少し変わりますが、パニチェさんから「執着」という言葉が出たついでに質問したいのですが、執着(または煩悩)と〈私〉と「私」との関係をパニチェさんはどのようにお考えでしょうか。例えば、頽落的「私」において執着が働くのであって〈私〉は執着とは関係がないのか、それとも〈私〉そのものに執着する働きがあって〈私〉が「私」に執着するのか・・・

    > この前、『〈仏教3.0〉を哲学する』(バージョンT)を読み返していて、山下良道さんがとても良いことを言っているなぁと感心した所があったので引用させてください。

    > 【ではどうしてヴィパッサナー瞑想をするとき、もうひとつの翼である慈悲が必要になってくるかという問題です。それは単にヴィパッサナーがクールになりすぎるから、感情的なことにも配慮してバランスを取ろうということではなくて、ヴィパッサナーが成り立つその根源のところに、慈悲があるからです。 ヴィパッサナーが成り立つ場所、つまり気づきの場所ですね。どこから気づいているかという、この鼎談の中心テーマの一つですが、実はその場所は、慈悲の場所でもある。だから、どこから気づけばいいのかということを探るために、慈悲が一つのポインターになってきます。慈悲がある場所に立てば、そこは正しい気づきの場所でもある。また逆に正しい気づきの場所に立てば、それは慈悲の場所でもあるという。だから、その慈悲と気づきが両方ある「正しい場所」に立った時に初めて、本当に心から慈悲の言葉を言える。そのとき、慈悲の言葉は、人工的でも嘘くさくも偽善にも聞こえない。だから、慈悲の言葉がどういうふうに聞こえるのかというところで、いま自分が立っているところのチェックになる。リトマス試験紙になるという感じですね。】(p.76)

    > 私は「慈悲の瞑想」をしていませんが、山下良道さんは長年「慈悲の瞑想」を続けている人で、上の言葉は実践者だけが言える重みのある言葉だと思います。
    > 〈サティ〉には「正しい場所」があり、それが「慈悲の場所」でもあるということ。なるほど・・と思いました。
    > ということは、「正しい場所」に立脚していない非本来的な〈サティ〉もあるということで、たしかに、心の置き所が重要であることは私も日々の瞑想で実感していることです。

    覚者の話によると見性体験には、全てへの愛というか慈しみが伴うようですね。
    私は体得していないので分かりませんが、山下良道さんの言わんとしているところはそういうことなんだろうな、という想像はできます。^^

    > パニチェさんの〈私〉にも、本来的な〈私〉と非本来的な〈私〉があり得るのでしょうか・・・
    > 執着についての上の質問は変な質問になってしまったので、私が勝手に思ったことを書きます。違っていたら訂正してください。
    > パニチェさんも常に〈私〉としてあるのではなく、むしろ大半は頽落的「私」として生きており、執着はその頽落的「私」から生じる。その「私」から解放されて、〈私〉として最も純化された時に〈私〉は無色透明になり、その時に執着と煩悩からも解放されるのでしょう。だから非本来的なのはあくまでも「私」であり、非本来的な〈私〉というものはないのだが、ただ、完全に無色透明になるのはパニチェさんが「見性」と呼ぶ状態だろうから、そこに至る間にはグラデーションのようなものがあるのでしょう。つまり〈私〉である時にも、常にいくらかは頽落的「私」を引きずって生きているのではないでしょうか。

    これ鋭い察ですね、驚きました。
    全くもってその通りです。
    〈私〉は無我ではなく、原始仏教の非我が当てはまります。
引用返信/返信 削除キー/
■28253 / inTopicNo.92)  Re[9]: 存在論
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/12/27(Tue) 18:18:07)
    ■28188、パニさん

    素朴的経験的わたしから見たのを、ちょっと書くね。

    >「〇〇がある」の「ある」について考察するのが存在論であり、「〇〇である」の「ある」は存在論の範疇外である。<
    っていうところ。

    わたし「ある」っていうのを「存在する」って言いかえて見てるのね。
    (1)「○○がある」は、「○○が存在する」
    (2)「○○である」は、「○○で存在する」
    パニさんが言うには、(2)は>「ある」は存在論の範疇外である<っていうことになるんね。
    だとしたら、実存的わたしから見たら、その「存在論」は上空飛行してるだけの図でしかないわね。

    ねえ、パニさん、「ニーチェ」って知ってる?
    彼は(2)を存在論じゃないっていう人をアイロニーしてるのよ。

引用返信/返信 削除キー/
■28249 / inTopicNo.93)  Re[8]: 存在論
□投稿者/ bwv602 -(2022/12/27(Tue) 00:05:17)


    こんばんは、パニチェさん。

    > はい。先の私の主張は川原栄峰氏が言わんとすることへの反論ではありません。
    > あくまでも「PはQである」のQを本質とするという定義への反論です。

    わかりました。
    その反論とは別に、前の話の続きで「実存は本質に先立つ」という文脈での「本質」について考えてみます(この前私は本質については何も書かなかったと思うので)。
    遡れば、プラトンのイデア論も本質の問題ですし、永井均さんが書いていたようにアリストテレスの「形相」も本質の問題です。それ以来、本質の問題は哲学史の中で様々な文脈の中で考察されているので、その意味もそれぞれの哲学者の立場によって異なっていると思います(例えば、一切は解釈であり真理は無数にあるとするニーチェの立場からは、イデア論のような本質観は否定されます)。
    その中で、サルトルの「実存は本質に先立つ」という言葉は、川原栄峰氏や永井均さんが言っているように「・・・がある」が「・・・である」に先立つということであり、もっと端的に言えば、永井均さんが述べているように「〈私〉であることには本質がないのです。実存があるだけなのです。」(『〈仏教3.0〉を哲学する』バージョンU、p.67)ということ、つまり「・・・がある」だけがあって「・・・である」がないという事態を意味していると思います。
    それがどういう事態であるのかを理解するにはサルトルの思想を見なければなりませんが、井筒俊彦氏が『意識と本質』の中でサルトルの実存と本質について東洋思想に関連づけて考察しているところが面白かったので、その一部を引用します。

    【Xを「花」と呼ぶ、あるいは「花」という語をそれに適用する。それができるためには、何はともあれ、Xがなんであるかということ、すなわちXの「本質」が捉えられていなければならない。
    意識がXに向って滑り出して行く、その初動の瞬間において、Xはすでに何かである。そしてXを何かであるものとして把握することは、すなわちXの原初的定義であり、最も素朴な形における「本質」把握以外の何ものでもない。もしこのような原初的「本質」把握もなしに、ただやみくもに「外」に出て行けば、たちまち不気味な「存在」の渾沌の泥沼の中にのめり込んで、「嘔吐」を催すほかはないだろう。

    「ついさっき私は公園にいた」とサルトルは語り出す。「マロニエの根はちょうどベンチの下のところで深く大地につき刺さっていた。それが根というものだということは、もはや私の意識には全然なかった。あらゆる語は消え失せていた。そしてそれと同時に、事物の意義も、その使い方も、またそれらの事物の表面に人間が引いた弱い符牒の線も。背を丸め気味に、頭を垂れ、たった独りで私は、全く生のままのその黒々と節くれ立った、恐ろしい塊りに面と向って坐っていた。」

    絶対無分節の「存在」と、それの表面に、コトバの意味を手がかりにして、か細い分節線を縦線に引いて事物、つまり存在者、を作り出して行く人間意識の働きとの関係をこれほど見事に形象化した文章を私は他に知らない。
    コトバはここではその本源的意味作用、すなわち「本質」喚起的な分節作用において捉えられている。コトバの意味作用とは、本来的には全然分節のない「黒々として薄気味悪い塊り」でしかない「存在」にいろいろな符牒を付けて事物を作り出し、それらを個々別々のものとして指示するということだ。
    およそ名があるところには、必ずなんらかの形での「本質」認知がなければならない。だから、あらゆる事物の名が消えてしまうということ、つまり言語脱落とは、「本質」脱落を意味する。そして、こうしてコトバが脱落し、「本質」が脱落してしまえば、当然、どこにも裂け目のない「存在」そのものだけが残る。それが「嘔吐」を惹き起すのだ。】

    すべての本質が剥げ落ちて、実存だけが現れるこのような事態にサルトルの小説『嘔吐』の主人公が愕然とするのは、彼が表層意識に身を置いており、存在の深層を見る準備ができていないからだと井筒俊彦氏は言います。そしてここから井筒氏は、深層意識に身を据えた東洋思想における本質論(本質否定)の考察に移っていきます。

    【もし表層意識が深層意識に転換し、「真如」すなわち絶対無分節者が、その本源的無分節のままで現われてくれば、経験的存在世界においてあらゆる存在者を互いに区別する「本質」はことごとく消え失せてしまう。
    『起信論』で、「一切の諸法は、ただ妄念によりて差別あるのみにして、もし心念を離るるときは、則ち一切の境界の相なし」というのはこのことを指すのである。】

    以前パニチェさんは〈私〉について「無色透明」ということを書かれていて、それへの返信で私は瞑想において「自我の殻がどんどん薄くなっていって、全ての存在と地続きになっていくような感覚」を覚えることを書きましたが、私のこの感覚は、『起信論』の「一切の境界の相なし」という事態、そしてサルトルの言う全ての本質が剥げ落ちる事態に近いものだと思っています。
    井筒氏が言うように「言語」脱落が「本質」脱落に他ならないとすれば、パニチェさんの「先言の〈私〉」の「無色透明」もそれに近いのではないでしょうか。


    > さらに「私」はやっぱり本来〈私〉なんですね。
    > これを気付かずに多くの人は「私」という一人称を用いている。もっとも日常的には全く問題ないし、何の不便でもない。
    > だから、そういうことも(あえて、あるいは、わざわざ)考えずに「私」と名乗っている。
    > ここから気付くことができるので「私」の変形表現として〈私〉という表記に執着(笑)しています。

    わかりました。ありがとうございます。
    話は少し変わりますが、パニチェさんから「執着」という言葉が出たついでに質問したいのですが、執着(または煩悩)と〈私〉と「私」との関係をパニチェさんはどのようにお考えでしょうか。例えば、頽落的「私」において執着が働くのであって〈私〉は執着とは関係がないのか、それとも〈私〉そのものに執着する働きがあって〈私〉が「私」に執着するのか・・・

    この前、『〈仏教3.0〉を哲学する』(バージョンT)を読み返していて、山下良道さんがとても良いことを言っているなぁと感心した所があったので引用させてください。

    【ではどうしてヴィパッサナー瞑想をするとき、もうひとつの翼である慈悲が必要になってくるかという問題です。それは単にヴィパッサナーがクールになりすぎるから、感情的なことにも配慮してバランスを取ろうということではなくて、ヴィパッサナーが成り立つその根源のところに、慈悲があるからです。 ヴィパッサナーが成り立つ場所、つまり気づきの場所ですね。どこから気づいているかという、この鼎談の中心テーマの一つですが、実はその場所は、慈悲の場所でもある。だから、どこから気づけばいいのかということを探るために、慈悲が一つのポインターになってきます。慈悲がある場所に立てば、そこは正しい気づきの場所でもある。また逆に正しい気づきの場所に立てば、それは慈悲の場所でもあるという。だから、その慈悲と気づきが両方ある「正しい場所」に立った時に初めて、本当に心から慈悲の言葉を言える。そのとき、慈悲の言葉は、人工的でも嘘くさくも偽善にも聞こえない。だから、慈悲の言葉がどういうふうに聞こえるのかというところで、いま自分が立っているところのチェックになる。リトマス試験紙になるという感じですね。】(p.76)

    私は「慈悲の瞑想」をしていませんが、山下良道さんは長年「慈悲の瞑想」を続けている人で、上の言葉は実践者だけが言える重みのある言葉だと思います。
    〈サティ〉には「正しい場所」があり、それが「慈悲の場所」でもあるということ。なるほど・・と思いました。
    ということは、「正しい場所」に立脚していない非本来的な〈サティ〉もあるということで、たしかに、心の置き所が重要であることは私も日々の瞑想で実感していることです。

    パニチェさんの〈私〉にも、本来的な〈私〉と非本来的な〈私〉があり得るのでしょうか・・・
    執着についての上の質問は変な質問になってしまったので、私が勝手に思ったことを書きます。違っていたら訂正してください。
    パニチェさんも常に〈私〉としてあるのではなく、むしろ大半は頽落的「私」として生きており、執着はその頽落的「私」から生じる。その「私」から解放されて、〈私〉として最も純化された時に〈私〉は無色透明になり、その時に執着と煩悩からも解放されるのでしょう。だから非本来的なのはあくまでも「私」であり、非本来的な〈私〉というものはないのだが、ただ、完全に無色透明になるのはパニチェさんが「見性」と呼ぶ状態だろうから、そこに至る間にはグラデーションのようなものがあるのでしょう。つまり〈私〉である時にも、常にいくらかは頽落的「私」を引きずって生きているのではないでしょうか。






引用返信/返信 削除キー/
■28188 / inTopicNo.94)  存在論
□投稿者/ パニチェ -(2022/12/25(Sun) 08:28:25)
    日本語の感覚から言えば「〇〇がある」の「ある」について考察するのが存在論であり、「〇〇である」の「ある」は存在論の範疇外である。

    さらに言えば本質は言語化できないが本質的なことは語りうる。

    本質的な事柄は定義として言語化可能であるということ。

    さもなくば哲学は言語の用法や新しい哲学用語を作り出した上で、その定義について語るだけになるだろう。

    しかしながら、語れないことについて沈黙する必要はない。



引用返信/返信 削除キー/
■28159 / inTopicNo.95)  Re[6]: be動詞
□投稿者/ パニチェ -(2022/12/24(Sat) 22:29:58)
    No28158に返信(エフニさんの記事)
    > ■No28157に返信(パニチェさんの記事)
    >>■No28156に返信(エフニさんの記事)
    > >>完全自動詞の文。

    > >>I am in the room.
    > >>(私は部屋にいます。)

    > >>不完全自動詞の文。

    > >>I am a boy.
    > >>(私は少年です。)

    > >>最初の英文は、SVの第一文型。イン・ザ・ルームは修飾句。

    > >>次の英文は、SVCの第三文型。ア・ボウイが補語になります。

    >>なるほど、よく分かりました。
    >>返信ありがとうございました。


    > どういたしまして�

    > メリークリスマス��


    戦争が早く終わりますよ〜に♪
    https://www.youtube.com/watch?v=g_kj60DIq2M
引用返信/返信 削除キー/
■28158 / inTopicNo.96)  Re[5]: be動詞
□投稿者/ エフニ -(2022/12/24(Sat) 22:04:20)
    No28157に返信(パニチェさんの記事)
    > ■No28156に返信(エフニさんの記事)
    >>完全自動詞の文。
    >
    >>I am in the room.
    >>(私は部屋にいます。)
    >
    >>不完全自動詞の文。
    >
    >>I am a boy.
    >>(私は少年です。)
    >
    >>最初の英文は、SVの第一文型。イン・ザ・ルームは修飾句。
    >
    >>次の英文は、SVCの第三文型。ア・ボウイが補語になります。
    >
    > なるほど、よく分かりました。
    > 返信ありがとうございました。


    どういたしまして

    メリークリスマス廂
引用返信/返信 削除キー/

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