(現在 過去ログ3 を表示中)

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 親記事をトピックトップへ ]

このトピックに書きこむ

レス数の限度を超えたのでレスできません。

(レス数限度:100 現在のレス数:100) → [トピックの新規作成]
■31332 / inTopicNo.13)  時さんへ
  
□投稿者/ パニチェ -(2023/06/27(Tue) 21:07:55)
    2023/06/28(Wed) 08:24:43 編集(投稿者)

    時さん、こんばんは。レスありがとうございます。

    No31322に返信(時さんの記事)

    > なるほどです。例えばですが、細かい表現は抜きにして原始では、欲とは想念による貪りの事であり、その発生源は触である。故に、欲の滅尽は触の滅尽と同義である。→これが「〜は〜だから〜なのです。」という私が表現している原始でのロジックですね。

    なるほど、了解しました。
    ちなみに上記は唯識として学説が深められ別境としてさらに細かく分析されています。
    了解した上で、是非、時さんに聞いてみたいところがあります。
    時さんに伺いたいのは、例えば複数の原始仏典で十四無記(十無記)が説かれている一方で、最古層の仏典のひとつとでもあるスッタニパータには地獄の記述が延々とあります(第3章 大いなる章 第10経コーカーリヤ)。こういうところを時さんはどのように捉えておられますか?


    > 例えば、原始では、あえて涅槃に入れるのに入らず、衆生済度を目指すとは説かれていませんが、大乗の基本は、衆生済度なのですよね?原始では、個々人を最短で涅槃に導く方法が説かれていているように思うのですね。ですので、原始では、涅槃を目指した弟子がその状態に至れれば、間違いなく涅槃に入ると思います。入らないという選択をした弟子のお話は記憶にありません。(肉体の死後直前に弟子が願うならば、どの転生先にでも転生ができるとの記載があったとは記憶していますが。)私に何かのバイアスでもかかっているのかもしれませんが、この場合には、仏陀の教えとして各仏典を読まれたときに、意図的に涅槃に入らない(あえて現世にとどまり、生きとし生けるものを救う)等の選択があるのかないのかということで、仏陀の教えはという意味での迷ったりされないのでしょうか?この場合が、〜は〜だから〜なのですという全体としてのロジックが成立しないと考えたパターンです。(原始単独、大乗系単独ではなく、全体としての、原始と大乗、両者全体の同時理解の場合です)

    上記は大乗仏教が興った歴史的な背景をも含んだ思想的な部分ですね。ご存じのように当時の上座部(部派仏教)は出家者が中心で世俗や実社会から遊離したところで修行と学究に没頭していました。釈尊は人間の救済を重んじたはずであるから、人里離れたところで自己の完成だけを目指すのが本来の在り方なのか?という反動から、仏塔を守っていた在家信者たちが中心となって大乗運動が生じました。この背景から大乗仏教では自己完成よりも菩薩行(人間の救済)を重んじたところがあります。

    これを色濃く反映しているのが無量寿経(浄土三部経のひとつ)にある阿弥陀仏の四十八誓願(阿弥陀仏が法蔵菩薩の頃に四十八の誓願を立て、これらを達成した後に仏になるというストーリー)です。涅槃に入れるのに人間救済を優先させ、涅槃に入るべきではないと直接的に説かれる大乗仏典はないと思います。

    浄土門は信仰的側面が強いため私の好みではありませんが、称名によって阿弥陀仏に帰依するという教説は、阿弥陀仏に自己の心身もろとも委ねることによって自己の空を体得するというアプローチだと解釈しており、称名は禅の数息観と同じく有頂天(三昧)に至る方法論だと思っています。浄土門が大衆に広がった大飢饉の時代には今日の食べ物さえ確保できず、文字も読めない、明日の命さえも保障されない極限にあって大衆は仏修行どころではなく、ただひたすらに阿弥陀にすがるしかない。これによって死の恐怖と生に伴う苦が軽減されたことは容易に想像できます。

    大乗仏典で記されているストーリーはほとんどフィクションだと思いますが、好意的に考えれば衆生を涅槃へ誘う方便であると考えています。
    ただあまりに人間釈尊が神格化されすぎたきらいはあるとは思いますが。。。。

    >>ここも少し分からないのですが自洲・法洲(自灯明・法灯明)は大パリニッバーナ経〔大般涅槃経〕からです。
    >>で、“自”“法”を諦かに極めるのが見性悟道だと考えており、この道具としてさまざまな仏典や哲学や他のジャンルを道具として用いています。

    > ご認識は、了解しました。大乗のそれも原始の長部16経「大般涅槃経」と同じなのですね。

    大乗仏典に言葉として「自洲・法洲(自灯明・法灯明)」は記されてないと思いますが、この発展形が「如来蔵蔵思想」や「一切衆生悉有仏性」だと思います。

引用返信/返信 削除キー/
■31323 / inTopicNo.14)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/06/27(Tue) 00:15:48)
    ザビビのふくろうさんへ。

    こんばんは。レスをありがとうございます。

    No31320

    > なんか、余計な口出しだったかもしれないですね。すみません。

    いえいえ。とでもないです。私の知らない新たな視点をいつもご紹介いただけますので、大変ありがたいです。^^(持ち上げているのではないですよ)

    > 以上の話、時さんは、実在論でなく観念論に親和性がある、というお話だと思いますが、これについては、細かいことを措けば、現実=バーチャルリアリティーという世界観には親和性があるんですよ。

    はい。そうだと思います。現実逃避の最たるものかも知れないですが(笑)

    > いや、まあ、少しは読んでいますし関心もありますが、とても時さんやパニチェさん相手に自説を述べるというレベルではないので勘弁していただきたいってことです。
    > また少ししたら、知ったかぶってエラそうなことを言ってるかもしれません(笑)

    はい。ぜひにエラそうにでもご参加ください。(笑)

    > > 私個人は私個人の人生を大切にしたいと考えていましたので、やはり人生哲学になりそうですね。^^ レスが滑っていませんように。
    >
    > いえ、こちらこそ横から口出ししてすみませんでしたm(__)m

    いえいえ。毎回、大変勉強になります。ありがとうございますm(__)m

    > ※念のための補足ですが、(1)と(2)の分類は、観念論(主観主義)vs実在論(客観主義)の対立と全く関係ありません。

    了解しました。ご返信をありがとうございました。
引用返信/返信 削除キー/
■31322 / inTopicNo.15)  パニチェさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/06/26(Mon) 23:56:58)
    パニチェさんへ。お忙しい所、レスをありがとうございます。

    No31313

    > 質問に質問を返すことは非礼にあたるかもしれませんができるだけ質問に正確に答えたい故の確認ということでご容赦下さい。
    > また返信が平日は出来ない場合もあり、土日にずれこむこともありますのでよろしくお願いします。

    上記、問題なく了解しました。お気遣いなくお願いします。

    > 現時点での私の場合は仏教や哲学、その他の興味あるジャンルは自己探究の道具といった意味合いが強いです。
    > あと実践的な人生哲学としてはニーチェと仏教の複合体(劇薬であるニーチェを仏教で中和するというかなんというか、うまく言えませんが)です。

    了解しました。

    > ここがよく分からないのです。「大乗〜派ならば大乗〜派のみ、原始ならば原始のみという意味で、例えば、〜は〜だから〜なのですというロジックが成立する」というところです。
    > 例えば「良いとこどり(私はこちらです)」でも「〜は〜だから〜なのですというロジックが成立する」場合もありますし、原始ならば原始に限定しても矛盾する教説もあるように思うので「〜は〜だから〜なのですというロジックが成立しない」場合もあるように思うのです。

    なるほどです。例えばですが、細かい表現は抜きにして原始では、欲とは想念による貪りの事であり、その発生源は触である。故に、欲の滅尽は触の滅尽と同義である。→これが「〜は〜だから〜なのです。」という私が表現している原始でのロジックですね。

    大昔に迷った記憶しかないので、私自身が大乗系の教えとの整合性が取れないと思ったのですが、取れるというご認識なのですね?いえ、それならばそれで問題はないのです。

    例えば、原始では、あえて涅槃に入れるのに入らず、衆生済度を目指すとは説かれていませんが、大乗の基本は、衆生済度なのですよね?原始では、個々人を最短で涅槃に導く方法が説かれていているように思うのですね。ですので、原始では、涅槃を目指した弟子がその状態に至れれば、間違いなく涅槃に入ると思います。入らないという選択をした弟子のお話は記憶にありません。(肉体の死後直前に弟子が願うならば、どの転生先にでも転生ができるとの記載があったとは記憶していますが。)私に何かのバイアスでもかかっているのかもしれませんが、この場合には、仏陀の教えとして各仏典を読まれたときに、意図的に涅槃に入らない(あえて現世にとどまり、生きとし生けるものを救う)等の選択があるのかないのかということで、仏陀の教えはという意味での迷ったりされないのでしょうか?この場合が、〜は〜だから〜なのですという全体としてのロジックが成立しないと考えたパターンです。(原始単独、大乗系単独ではなく、全体としての、原始と大乗、両者全体の同時理解の場合です)

    > 私の場合はこちらですが、私が知るところの仏教は私なりに全体的なロジックとして成立しています。

    ご回答をありがとうございます。私の場合には、過去、訳が分からなくなったという記憶しかありませんでしたのでお尋ねした次第ですが、そうですか、パニチェさんのご認識では整合性が取れているのですね。

    > ここも少し分からないのですが自洲・法洲(自灯明・法灯明)は大パリニッバーナ経〔大般涅槃経〕からです。
    > で、“自”“法”を諦かに極めるのが見性悟道だと考えており、この道具としてさまざまな仏典や哲学や他のジャンルを道具として用いています。

    ご認識は、了解しました。大乗のそれも原始の長部16経「大般涅槃経」と同じなのですね。

    > 結論を先に言いますと現在は禅定は実践していません。
    > 論理と言語と直観による見性悟道を歩んでいるつもりで、これが私のライフワークならぬライフホビーです。

    了解しました。

    > あとこれは情報交換と受け止めていただければ有難いのですが。。。
    > 仏典が文字として編集されたのは少なく見積もっても数百年の口伝の後です。
    > 当時のインドでは文字は主に商用として使われており「忘れないために書き留める」というものでした。
    > 釈尊の教えを書き留めるというこは身から離すということになり羅漢(結集に参加した仏弟子)は自らの身に付けるべきものという考えで文字には書き留めていなかったということらしいです。

    新しい情報をありがとうございます。記憶ではあのような感じだったと思ったのですが、どうも違ったようです。田秋さんにここでお詫びします。誤情報を垂れ流し、大変失礼しました。

    今回は、私が過去に大乗と原始がごちゃまぜになりましたので、パニチェさんはどうなのだろうか?という問いを投げかけてみましたが、問題ないようですので最後に衆生済度のお話でのご回答をいただければと思っています。宜しくお願いします。
引用返信/返信 削除キー/
■31320 / inTopicNo.16)  時さんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/06/26(Mon) 23:34:35)
    こんばんは。
    レスをありがとうございます。
    なんか、余計な口出しだったかもしれないですね。すみません。


    No31318に返信(時さんの記事)
    > ザビビのふくろうさんへ。レスをありがとうございます。
    >
    > No31310
    >
    > 過去にアインシュタインとインドのタゴールとの対話がありますね。「人が見ていないとき、月は存在するのか?」という問いです。
    >
    > どうも私の場合には、東洋系の思想の方がしっくりとくる脳の構造らしく、最終的には、タゴール派ですかね。単純に、私が月を見ていないときには月は存在しないとなりますね。(笑)しかし他の方との会話の時には、常識的には、え?存在してるでしょ?と答える方が無難であることは知っています。これと同じく、想像の中になりますが、眠っているときには、家族も友人たちも朝ごはんも存在しているとは言えない(夢を見ないで眠っているとします)と思いますが、起床した瞬間、つまりは、朝ごはんの香りや卵焼き等を目にした瞬間にそれらが現れています。という説明になりますね。
    >
    > ここで存在しているかどうか、どちらか分からないという答えもありそうですが、この場合には、過去に見ていないときにも朝ごはんはあるんだという思い自体、それが当たり前の事実だという思い自体があったことの証明にはならないでしょうか。つまりは、思い込みの産物ですかね。もしもそれらを飛び越えて、観念論的に見ると、やはり答えは、人(私)が見ていないとき(眼がその月をなす色と接触していないとき)それ(月)は存在しているとは言えないですよね?もしもこの状態で存在していると言えるとすると、心の中だけで、想念に浮かび上がっている月という事になるでしょうか。後は、月というものを眼で見ておらず、その想像もしていないときには、それは存在していないといっても良いように思います。存在する、しない、どちらも証明はできないでしょうけどね。私には証明自体は不必要ですが、興味本位的な観点からすると、証明されるとすれば、この問いも量子力学の世界にお任せになるでしょうか。
    >
    > その前に、月、見る、時、存在といった共通認識としての言葉の定義も必要になるのでしょうか?うーん、難しいですね。
    >

    以上の話、時さんは、実在論でなく観念論に親和性がある、というお話だと思いますが、これについては、細かいことを措けば、現実=バーチャルリアリティーという世界観には親和性があるんですよ。


    >>仏教についてはほぼ門外漢なので、外野からになりますが、より一般的観点から少し述べさせてください。
    >
    > あら?ふくろうさん・・・門外漢でしたか?(笑)失礼しました。
    >

    いや、まあ、少しは読んでいますし関心もありますが、とても時さんやパニチェさん相手に自説を述べるというレベルではないので勘弁していただきたいってことです。
    また少ししたら、知ったかぶってエラそうなことを言ってるかもしれません(笑)

    >>哲学観の違いということで言うと,私は次のように感じています。
    >>
    >>哲学や宗教・思想,あるいは芸術や文学でも,自分がそこに求める何らかの意味の“ほんとう”を「真理」と呼ぶとすると,その捉え方に少なくとも二つのタイプがあるように思います。
    >>
    >>(1) あくまで「私にとっての真理」を求めるタイプ。これこそは“ほんとう”であると自分を納得させ,満足させるもの。極端に言えば,他人がどう思おうと,普遍的でなかろうとどうでもいい。したがって,真理が真理であることの根拠は,すなわち自己にある。例えば,究極を言えば,美の根拠は,美しいと思う私にある。善の根拠は私の内なる道徳律にある(これは異論があるかも)。
    >
    > 時個人は、お察しの通りこちら(1) ですね。ものの見方が観念的であり、通常は実在だどうのと会話したりしますが、独りになって考え込むとき、間違いなく観念的に物事を見て考察しています。
    >
    >>(2) それが主観的真理であろうと,真理である限り,何らかの普遍性を本質的条件とみなす。自分がほんとうだと思う、あるいは満足するから真理なのではない。それが真理であることの根拠は自己の内にはなく,外部に存する。つまり,その意味で真理は超越的根拠をもつ。たとえば,ある芸術作品が美しいのも主観(自己)が美しいと思うからそうなのではなく,例えばプラトンだったら美のイデアを根拠とする。
    >
    > なるほど、学問的ですね。イデアこそ実在だというお話でもありますかね?純粋な思考での考察のみでしか認知できないという。(すみません、適当に書いています。)
    >
    >>以上の分類に基づいて考えると,たとえばいわゆる人生論的真理は(1)に属し,学問としての真理は(2)に属することになると思います。というのも,人生論の根拠はまさに個人の人生経験における真実にあろうからですし,学問的真理は通常個人的経験を越えた普遍性をその真理性を担保するものとして要請するからです。
    >
    > 私個人は私個人の人生を大切にしたいと考えていましたので、やはり人生哲学になりそうですね。^^ レスが滑っていませんように。

    いえ、こちらこそ横から口出ししてすみませんでしたm(__)m

    ※念のための補足ですが、(1)と(2)の分類は、観念論(主観主義)vs実在論(客観主義)の対立と全く関係ありません。
引用返信/返信 削除キー/
■31318 / inTopicNo.17)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/06/26(Mon) 23:07:06)
    ザビビのふくろうさんへ。レスをありがとうございます。

    No31310

    過去にアインシュタインとインドのタゴールとの対話がありますね。「人が見ていないとき、月は存在するのか?」という問いです。

    どうも私の場合には、東洋系の思想の方がしっくりとくる脳の構造らしく、最終的には、タゴール派ですかね。単純に、私が月を見ていないときには月は存在しないとなりますね。(笑)しかし他の方との会話の時には、常識的には、え?存在してるでしょ?と答える方が無難であることは知っています。これと同じく、想像の中になりますが、眠っているときには、家族も友人たちも朝ごはんも存在しているとは言えない(夢を見ないで眠っているとします)と思いますが、起床した瞬間、つまりは、朝ごはんの香りや卵焼き等を目にした瞬間にそれらが現れています。という説明になりますね。

    ここで存在しているかどうか、どちらか分からないという答えもありそうですが、この場合には、過去に見ていないときにも朝ごはんはあるんだという思い自体、それが当たり前の事実だという思い自体があったことの証明にはならないでしょうか。つまりは、思い込みの産物ですかね。もしもそれらを飛び越えて、観念論的に見ると、やはり答えは、人(私)が見ていないとき(眼がその月をなす色と接触していないとき)それ(月)は存在しているとは言えないですよね?もしもこの状態で存在していると言えるとすると、心の中だけで、想念に浮かび上がっている月という事になるでしょうか。後は、月というものを眼で見ておらず、その想像もしていないときには、それは存在していないといっても良いように思います。存在する、しない、どちらも証明はできないでしょうけどね。私には証明自体は不必要ですが、興味本位的な観点からすると、証明されるとすれば、この問いも量子力学の世界にお任せになるでしょうか。

    その前に、月、見る、時、存在といった共通認識としての言葉の定義も必要になるのでしょうか?うーん、難しいですね。

    > 仏教についてはほぼ門外漢なので、外野からになりますが、より一般的観点から少し述べさせてください。

    あら?ふくろうさん・・・門外漢でしたか?(笑)失礼しました。

    > 哲学観の違いということで言うと,私は次のように感じています。
    >
    > 哲学や宗教・思想,あるいは芸術や文学でも,自分がそこに求める何らかの意味の“ほんとう”を「真理」と呼ぶとすると,その捉え方に少なくとも二つのタイプがあるように思います。
    >
    > (1) あくまで「私にとっての真理」を求めるタイプ。これこそは“ほんとう”であると自分を納得させ,満足させるもの。極端に言えば,他人がどう思おうと,普遍的でなかろうとどうでもいい。したがって,真理が真理であることの根拠は,すなわち自己にある。例えば,究極を言えば,美の根拠は,美しいと思う私にある。善の根拠は私の内なる道徳律にある(これは異論があるかも)。

    時個人は、お察しの通りこちら(1) ですね。ものの見方が観念的であり、通常は実在だどうのと会話したりしますが、独りになって考え込むとき、間違いなく観念的に物事を見て考察しています。

    > (2) それが主観的真理であろうと,真理である限り,何らかの普遍性を本質的条件とみなす。自分がほんとうだと思う、あるいは満足するから真理なのではない。それが真理であることの根拠は自己の内にはなく,外部に存する。つまり,その意味で真理は超越的根拠をもつ。たとえば,ある芸術作品が美しいのも主観(自己)が美しいと思うからそうなのではなく,例えばプラトンだったら美のイデアを根拠とする。

    なるほど、学問的ですね。イデアこそ実在だというお話でもありますかね?純粋な思考での考察のみでしか認知できないという。(すみません、適当に書いています。)

    > 以上の分類に基づいて考えると,たとえばいわゆる人生論的真理は(1)に属し,学問としての真理は(2)に属することになると思います。というのも,人生論の根拠はまさに個人の人生経験における真実にあろうからですし,学問的真理は通常個人的経験を越えた普遍性をその真理性を担保するものとして要請するからです。

    私個人は私個人の人生を大切にしたいと考えていましたので、やはり人生哲学になりそうですね。^^ レスが滑っていませんように。
引用返信/返信 削除キー/
■31313 / inTopicNo.18)  時さんへ
□投稿者/ パニチェ -(2023/06/26(Mon) 20:37:49)
    2023/06/26(Mon) 21:15:23 編集(投稿者)

    時さん、こんばんは。レスありがとうございます。
    質問に質問を返すことは非礼にあたるかもしれませんができるだけ質問に正確に答えたい故の確認ということでご容赦下さい。
    また返信が平日は出来ない場合もあり、土日にずれこむこともありますのでよろしくお願いします。

    No31301に返信(時さんの記事)

    > 以前にお話が噛み合う噛み合わないという事を書きましたが、考えるまでもなくこれは当然のことで、人により人生哲学として、信仰として、また、哲学的観点より参考にする仏典を原始系にするのか密教系にするのか、大乗系にするのか全てを網羅等々でも違うでしょうし、その内容を理解把握する個人の能力でも違うからです。昨日の対話では、仕事としてではなく信仰としてでもなく、人生哲学として(修正箇所です 自己探求として)の道具として仏典を学んでいるという事は、パニチェさんと私で共通していると思いました。

    現時点での私の場合は仏教や哲学、その他の興味あるジャンルは自己探究の道具といった意味合いが強いです。
    あと実践的な人生哲学としてはニーチェと仏教の複合体(劇薬であるニーチェを仏教で中和するというかなんというか、うまく言えませんが)です。

    > そして私の場合は、まずは原始のみに絞って実際に仏陀は何を教えたのかを知りたかっただけだという事を書いたと思います。原始だけに絞った理由は、絞らなければ後世の多くの人達(龍樹、親鸞、空海・・)の解釈が入り込み、その仏典中の道理としての仏陀自身の教えが浮かび上がらなかったからであり、原始に絞った結果、一応は何を言って何を教えたのかを知ることができたように思います。これはもちろん、私の人生において大きく影響を与えました。参考までに私が知る仏典は原始仏典のみで、長部経典、中部経典、相応部経典、増支部経典、小部経典で、この中の内容のみとなります。この仏典軍の日本語訳の大元は、https://tipitaka.org/です。

    了解しました。

    > ・パニチェさんが学んでおられる仏教は、一つの筋、体系として理解把握できる内容ですか?これは、大乗〜派ならば大乗〜派のみ、原始ならば原始のみという意味で、例えば、〜は〜だから〜なのですというロジックが成立するものですかという意味です。

    ここがよく分からないのです。「大乗〜派ならば大乗〜派のみ、原始ならば原始のみという意味で、例えば、〜は〜だから〜なのですというロジックが成立する」というところです。
    例えば「良いとこどり(私はこちらです)」でも「〜は〜だから〜なのですというロジックが成立する」場合もありますし、原始ならば原始に限定しても矛盾する教説もあるように思うので「〜は〜だから〜なのですというロジックが成立しない」場合もあるように思うのです。

    > ・それとも、多くの種類の仏典の中からの良いとこどりですか?すみません、良い表現が思いつきませんでしたが、これは、あるところは密教から、あるところは大乗〜派、あるところは原始からという意味です。この場合には、〜は〜だから〜なのですという全体としてのロジックが成立しませんね。

    私の場合はこちらですが、私が知るところの仏教は私なりに全体的なロジックとして成立しています。

    > パニチェさんも以前に書かれていましたが、自灯明法灯明の法灯明の元となる仏典の事をお尋ねしています。

    ここも少し分からないのですが自洲・法洲(自灯明・法灯明)は大パリニッバーナ経〔大般涅槃経〕からです。
    で、“自”“法”を諦かに極めるのが見性悟道だと考えており、この道具としてさまざまな仏典や哲学や他のジャンルを道具として用いています。

    結論を先に言いますと現在は禅定は実践していません。
    論理と言語と直観による見性悟道を歩んでいるつもりで、これが私のライフワークならぬライフホビーです。


    あとこれは情報交換と受け止めていただければ有難いのですが。。。
    仏典が文字として編集されたのは少なく見積もっても数百年の口伝の後です。
    当時のインドでは文字は主に商用として使われており「忘れないために書き留める」というものでした。
    釈尊の教えを書き留めるというこは身から離すということになり羅漢(結集に参加した仏弟子)は自らの身に付けるべきものという考えで文字には書き留めていなかったということらしいです。


引用返信/返信 削除キー/
■31310 / inTopicNo.19)  Re[43]: パニチェさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/06/26(Mon) 18:18:28)
    時さん,パニチェさん,横レス失礼します。

    仏教についてはほぼ門外漢なので、外野からになりますが、より一般的観点から少し述べさせてください。
    哲学観の違いということで言うと,私は次のように感じています。

    哲学や宗教・思想,あるいは芸術や文学でも,自分がそこに求める何らかの意味の“ほんとう”を「真理」と呼ぶとすると,その捉え方に少なくとも二つのタイプがあるように思います。

    (1) あくまで「私にとっての真理」を求めるタイプ。これこそは“ほんとう”であると自分を納得させ,満足させるもの。極端に言えば,他人がどう思おうと,普遍的でなかろうとどうでもいい。したがって,真理が真理であることの根拠は,すなわち自己にある。例えば,究極を言えば,美の根拠は,美しいと思う私にある。善の根拠は私の内なる道徳律にある(これは異論があるかも)。
    (2) それが主観的真理であろうと,真理である限り,何らかの普遍性を本質的条件とみなす。自分がほんとうだと思う、あるいは満足するから真理なのではない。それが真理であることの根拠は自己の内にはなく,外部に存する。つまり,その意味で真理は超越的根拠をもつ。たとえば,ある芸術作品が美しいのも主観(自己)が美しいと思うからそうなのではなく,例えばプラトンだったら美のイデアを根拠とする。

    以上の分類に基づいて考えると,たとえばいわゆる人生論的真理は(1)に属し,学問としての真理は(2)に属することになると思います。というのも,人生論の根拠はまさに個人の人生経験における真実にあろうからですし,学問的真理は通常個人的経験を越えた普遍性をその真理性を担保するものとして要請するからです。

    私からすると,パニチェさんも時さんも,ともに(1)のタイプに思えます。
    私見では,悪魔ちゃんも完全にこちらのタイプです。
    私は(2)のタイプです。ま,乱暴に単純化しちゃうとですが。
    これは哲学作品に対する姿勢でも,その取り組み方の違いを生みます。
    また,芸術作品に対する姿勢に言えるもののように思いますね。

    今回の時さんからのパニチェさんへの質問は、ともに(1)のタイプのお二人の、仏教へ取り組む姿勢の違いが問題になっていると思います。
    その意味で、私にもなかなか興味深い質問だと思っています。

引用返信/返信 削除キー/
■31309 / inTopicNo.20)  Re[44]: 時さんへ
□投稿者/ 田秋 -(2023/06/26(Mon) 16:53:23)
    こんにちは、時さん

    お返事ありがとうございました。

    いわゆるクラシック音楽と呼ばれるものはたかだかここ350年くらいのものです。それですら当時のスタイルが正確にはわからなくなったり解釈が生まれたりしています。

    それに比べて釈迦は2500年前くらいの人であるにもかかわらず、お釈迦さまの言葉として残っているということは途轍もなく凄いことだと思います。文字があったればこそ、でしょうね。音はそういう訳にはいきません。

    ありがとうございました。今後とも宜しくお願いします。
引用返信/返信 削除キー/
■31308 / inTopicNo.21)  田秋さんへ
□投稿者/ 時 -(2023/06/26(Mon) 15:56:25)
    田秋さん、こんにちは。初めまして^^ 宜しくお願いします。

    > >原始に絞った結果、一応は何を言って何を教えたのかを知ることができたように思います。
    > 1.原典から〜英訳〜日訳の過程で、翻訳者の意向や解釈が入り込むということがあるかと思うのですが、その辺りは如何でしょうか?

    十分にあり得ますね。といいますか、原始仏典にも、仏陀自身の正確な文言だけが記載されているとは限りませんね。

    私が原始といっている仏典軍は、仏陀の死後直後から弟子たちにより生前の仏陀の教えとして今まで直接聞いていたものを「私は師から〜と聞いた」という書き出しも含めた内容で統合、文字化した事柄を皆で内容を確認して合格した内容だけを集めて仏典としたと勝手に理解しています。その弟子たちが集まっての確認作業を結集と言っていると思うのですね。これは、正確には知りませんが、仏陀の死後、6回程開かれたのでしょうか。ですのでそこで統合された内容も、全ての弟子が一様に仏陀から同じ内容として直接聞いたとは限らないという事ですね。

    そして仏陀の死後、大乗の衆生済度等の考え方が生まれて・・・現在に至るとなっていると思いますが、可能性を考えるのであれば、この衆生済度等も仏陀の言葉として言っていた可能性は否定できませんね。そんな意味では、般若心経の色即是空も同じことでしょう。

    そんな中で、恐らくは仏陀の死後に一番近い言葉を集めたであろうものとして原始じゃないのかな?との思いにより、私はそれを選択しました。

    原典から〜英訳〜日訳の過程での前に、その原典の信憑性自体をも疑ったという事ですが、もしもこれをいうのであれば、現在の日本の大乗やチベット密教等々、全てが同じことが言えそうですね。逆に言えば、現在、新興宗教が「私はこう聞いた」から始まるものをつくれば、それも後世では確認できないと思われますね。なんせ第一次資料があったとしても歴史的資料としても私には確認できず、その存在を確認できたとしても、言葉の意味が分かりませんので。そのような意味では何を原典にするのかは個人の選択で、皆同じだと考えています。ですので大乗経典も否定しません。

    そして仰るように、一つの仏典でも翻訳者が多くなればなるほどその内容が変化しないとは限りませんね。丁度、伝言ゲームの最初と最後の人のいう事が違うようにです。仏典の場合には、最初は直伝、口伝だった教えが結集を経て当時の文字で残され、それを現代では、英語やドイツ語、日本語に翻訳されていると思いますが、その翻訳者のレベルに応じても訳文は違ってくることは容易に想像が付きそうです。

    最近では原文を直日本語に翻訳されている方もおられる様で大変助かっていますが、それが正確なのかどうなのか?は、私には分かりませんというのが答えです。ただ、原文に(英語の I)が書かれていて、その意味を知らなくても、多くの文章に(英語の I)の記載があり、その日本語訳が(私は)とされていたのであれば、そしてこれが文脈を外していなければ、恐らくこの(英語の I)は(私は)という訳で間違っていないだろうと言ったことは、原文対比という事で、時々行っていました。

    長くなりましたので、まとめますと、
    @原典といっているものそのものも、その真偽は分かりません。
    A原典としたものを訳した場合、訳者の数だけその意味合いが変化する可能性は十分にあり得、正確性を担保するものはない。という事ですね。^^

    ですので、原始に絞った結果、一応は何を言って何を教えたのかを知ることができたように思います。というのは、私は最初に調べても調べても繋がらなかった仏陀自身のお話の内容が、原始仏典と言われるものだけに絞って考察した結果、一応のお話が私の理解につながったという事です。なぜならば、現在の多くの宗派等の教えをごちゃまぜにしていたために繋がらなかったと判断したためです。

    その内容(訳文)も訳者の世界観により変化している可能性も踏まえてですが、そこは仕方がないとあきらめています。実は一度ネット上の原典からの翻訳に挑戦はしましたが、結果、私にはできませんでしたので。

    > 2.時さんの読解力を疑うわけでは決してありません。原典を読んでもわからないところはありませんでしたか?

    細かく言えば言葉の意味的には多くありましたし、今も多くあります。^^
    ただ私の感覚なのですが、言葉の意味を細かく知る必要はないのではないかな?と思っています。大筋で仏陀という独りの人間像を捉える事ができれば、その理解に大きく通じるように思っています。

    これは例えばですが、学生時代に冗談の通じる先生、冗談を言ったときに軽く注意をする先生、無条件で無視する先生等では、言葉の意味ではなくて、その対応が違ってくると思うのですね。この先生は〜な感じだといった具合で、仏典内容より仏陀の人となりを読めれば、記載がなくてもその言動は類推できるように思います。多分、仏陀ならばこんな時にはこう言っただろうとか。

    ただし、この類推はあくまでも類推ですので、説かなかったことは説かなかったと憶持せよ。という事から、仏陀はこういった。と表現するのは間違いですね。

    言葉のつながりの理解ができないという意味では、教えの中に(無明・行・識・名色・六処・触・受・渇愛・求・利・用・貪欲・著・嫉・守・護・現行の不善法)という流れ(縁起)が記載されたものがあるのですが、このうちで(求・利・用・著・嫉・守・護)等の意味の説明が仏典内でないのですね。説明がないので、当然訳文にもありません。広辞苑等で調べてはみますが、これの流れが細かい意味でどういう繋がりなのかなんていうのは分からないのですが、大まか、渇愛が生起すれば自らを守るために不善法(他者に対しての怒りや攻撃や陰口や盗み)等が起こるという事を言っているのだろうなぁ。といった具合での理解です。長くなりましたが、この程度です(笑)

    > このようなぶしつけなことをお尋ねしたのには理由があります。音楽の世界にも同じようなことが起こるのです。それは楽譜に関してなのですが、バッハにしてもモーツァルトしてもベートーベンにしても演奏するには楽譜が必要です。
    >
    > 演奏する際に自筆譜を使うことはありません。それが残っていればどこかの図書館などに大事に保管されます。実際に演奏家が使う楽譜は、出版社がスコアから抽出して作ったパート譜です。
    >
    > バッハ或いはそれ以前の時代のものになるとその当時の演奏スタイルが作曲家の念頭にあり、その時代の常識に従って楽譜を書きます。特に注意を要するのが、楽譜には最低限ことしか書かず、細かいところは演奏家に委ねるということが一般的だったことです。和音記号(コードネーム)だけが書かれていてそれを見て伴奏するとか。
    >
    > ところが、当時は録音というものはありません。あまり書かれていない楽譜だけが後世に残っていきます。しかし昔のスタイルを知らない今の演奏家がその楽譜をそのまま演奏すると音楽になりません。そこでエディターと言われる人が、省略されていた約束事を楽譜に書き込みそれを出版します。
    >
    > 一例を挙げると、楽譜の冒頭に強弱記号が何も書かれていない事がよくあります。
    > 「どんな音量で始めれば良いのだろう?メゾフォルテくらいで弾こうか」
    > と迷いそうですが、勉強すると何も書いてない場合は f(フォルテ=強く)で演奏する、という約束事があったことがわかります。
    >
    > そういうことを、エディターが具体的に書きこんでいく訳です。エディターという人はそういうことを専門に研究した人です。
    >
    > ところで、同じ作曲家の曲でも出版社によって細かいところで解釈が異なっている場合があります。それはその出版社の楽譜を校訂したエディターの解釈の違いによるものです。
    >
    > それがここ3〜40年、原典版というものが出版されるようになりました。原則、作曲家が書いた通りの譜面を出版し、解釈は演奏家に任せるという考え方です。出版社によって解釈が違う、原典はどうなっているんだろう?と疑問を抱いていた多くの演奏家はそれに飛びつきました。ところが・・・
    >
    > 疑問点は解明しましたが、演奏家はその他の当時の演奏スタイルや記譜法のオーソリティではありません。極端に言えば、わかった以上のことがわからなくなりました。
    >
    > またこういう例もあります。ボクが在籍していたオケでモーツァルトの作品の原典版を購入し、それでとりあえず合奏してみたところ、
    > 「ここは繋げた方が良い」
    > 「ここのディナーミクは前後と矛盾がある」
    > 「このボウイングは弾きにくい」
    > と延々修正した結果、今まで使っていた楽譜とさして変わらない楽譜が出来上がったという笑えぬ喜劇も起こりました。
    >
    > で、現在のボクの原典版に対する姿勢は、「参考にする」程度です。やはりエディターの考えはそれなりの深い研究に裏付けられていると思いました。
    >
    > という経験があるのでお尋ねしてみました。

    音楽にも疎いのですが、仰ることは理解できているつもりです。過去にノダメカンタービレというドラマを何度か見たことがありますが、指揮者の感情一つでここを大きくとかもっと感情をこめてとか、私には興味深く、難しすぎる世界観がそこにはあったことを記憶しています。

    楽譜もそうなのですね。モーツアルトが書いたものそのものを手に入れたとしても、モーツアルトではないのでどこをどのようにという事が他人には分からないという事だろうと思いますが。

    演奏の場合にも、例えばのモーツアルトの人生を見つめながら、当時の街並みを想像しながら、空気を想像しながらという事が必要になるような気がしています。もちろん当時の街並みやモーツアルトそのものの気持ちにはなれる保証はないとは思いますが、そこは限界としての想像しかないように感じました。と、ド素人が簡単に書いてしまえるほど、単純なことではないとは思いますが。音楽も奥が深そうですね。

    ただ楽譜にしても仏典しても、そこに音符や文字というただのインクの染みがあるだけだなんて考えたくありませんので、それぞれの人の心の中に広がる音の広がりやその意味合いから、何もその師と同じになろうとしなくても、それぞれが感受した世界観を自らの居住処にできれば最高ではないでしょうか。そんな風に感じました。

    長文を失礼しました。
引用返信/返信 削除キー/
■31302 / inTopicNo.22)  時さんへ
□投稿者/ 田秋 -(2023/06/26(Mon) 12:38:25)
    こんにちは、時さん

    時さんに質問が二つあります。

    >原始に絞った結果、一応は何を言って何を教えたのかを知ることができたように思います。
    1.原典から〜英訳〜日訳の過程で、翻訳者の意向や解釈が入り込むということがあるかと思うのですが、その辺りは如何でしょうか?
    2.時さんの読解力を疑うわけでは決してありません。原典を読んでもわからないところはありませんでしたか?

    このようなぶしつけなことをお尋ねしたのには理由があります。音楽の世界にも同じようなことが起こるのです。それは楽譜に関してなのですが、バッハにしてもモーツァルトしてもベートーベンにしても演奏するには楽譜が必要です。

    演奏する際に自筆譜を使うことはありません。それが残っていればどこかの図書館などに大事に保管されます。実際に演奏家が使う楽譜は、出版社がスコアから抽出して作ったパート譜です。

    バッハ或いはそれ以前の時代のものになるとその当時の演奏スタイルが作曲家の念頭にあり、その時代の常識に従って楽譜を書きます。特に注意を要するのが、楽譜には最低限ことしか書かず、細かいところは演奏家に委ねるということが一般的だったことです。和音記号(コードネーム)だけが書かれていてそれを見て伴奏するとか。

    ところが、当時は録音というものはありません。あまり書かれていない楽譜だけが後世に残っていきます。しかし昔のスタイルを知らない今の演奏家がその楽譜をそのまま演奏すると音楽になりません。そこでエディターと言われる人が、省略されていた約束事を楽譜に書き込みそれを出版します。

    一例を挙げると、楽譜の冒頭に強弱記号が何も書かれていない事がよくあります。
    「どんな音量で始めれば良いのだろう?メゾフォルテくらいで弾こうか」
    と迷いそうですが、勉強すると何も書いてない場合は f(フォルテ=強く)で演奏する、という約束事があったことがわかります。

    そういうことを、エディターが具体的に書きこんでいく訳です。エディターという人はそういうことを専門に研究した人です。

    ところで、同じ作曲家の曲でも出版社によって細かいところで解釈が異なっている場合があります。それはその出版社の楽譜を校訂したエディターの解釈の違いによるものです。

    それがここ3〜40年、原典版というものが出版されるようになりました。原則、作曲家が書いた通りの譜面を出版し、解釈は演奏家に任せるという考え方です。出版社によって解釈が違う、原典はどうなっているんだろう?と疑問を抱いていた多くの演奏家はそれに飛びつきました。ところが・・・

    疑問点は解明しましたが、演奏家はその他の当時の演奏スタイルや記譜法のオーソリティではありません。極端に言えば、わかった以上のことがわからなくなりました。

    またこういう例もあります。ボクが在籍していたオケでモーツァルトの作品の原典版を購入し、それでとりあえず合奏してみたところ、
    「ここは繋げた方が良い」
    「ここのディナーミクは前後と矛盾がある」
    「このボウイングは弾きにくい」
    と延々修正した結果、今まで使っていた楽譜とさして変わらない楽譜が出来上がったという笑えぬ喜劇も起こりました。

    で、現在のボクの原典版に対する姿勢は、「参考にする」程度です。やはりエディターの考えはそれなりの深い研究に裏付けられていると思いました。

    という経験があるのでお尋ねしてみました。
引用返信/返信 削除キー/
■31301 / inTopicNo.23)  パニチェさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/06/26(Mon) 10:09:04)
    2023/06/26(Mon) 11:25:29 編集(投稿者)

    パニチェさん、こんにちは。今回はお尋ねしたいことがありますので、可能な範囲でお答えをいただければ幸いです。

    以前にお話が噛み合う噛み合わないという事を書きましたが、考えるまでもなくこれは当然のことで、人により人生哲学として、信仰として、また、哲学的観点より参考にする仏典を原始系にするのか密教系にするのか、大乗系にするのか全てを網羅等々でも違うでしょうし、その内容を理解把握する個人の能力でも違うからです。昨日の対話では、仕事としてではなく信仰としてでもなく、人生哲学として(修正箇所です 自己探求として)の道具として仏典を学んでいるという事は、パニチェさんと私で共通していると思いました。

    そして私の場合は、まずは原始のみに絞って実際に仏陀は何を教えたのかを知りたかっただけだという事を書いたと思います。原始だけに絞った理由は、絞らなければ後世の多くの人達(龍樹、親鸞、空海・・)の解釈が入り込み、その仏典中の道理としての仏陀自身の教えが浮かび上がらなかったからであり、原始に絞った結果、一応は何を言って何を教えたのかを知ることができたように思います。これはもちろん、私の人生において大きく影響を与えました。参考までに私が知る仏典は原始仏典のみで、長部経典、中部経典、相応部経典、増支部経典、小部経典で、この中の内容のみとなります。この仏典軍の日本語訳の大元は、https://tipitaka.org/です。

    そこでお尋ねしたいのは、

    ・パニチェさんが学んでおられる仏教は、一つの筋、体系として理解把握できる内容ですか?これは、大乗〜派ならば大乗〜派のみ、原始ならば原始のみという意味で、例えば、〜は〜だから〜なのですというロジックが成立するものですかという意味です。

    ・それとも、多くの種類の仏典の中からの良いとこどりですか?すみません、良い表現が思いつきませんでしたが、これは、あるところは密教から、あるところは大乗〜派、あるところは原始からという意味です。この場合には、〜は〜だから〜なのですという全体としてのロジックが成立しませんね。

    パニチェさんも以前に書かれていましたが、自灯明法灯明の法灯明の元となる仏典の事をお尋ねしています。

    もちろん私の様に、一人の人間としての仏陀は、当時何を説いたのか?を知るためにでも、その他、龍樹や親鸞、空海等の思想の良いとこどりでも良いと思っています。

    宜しくお願いします。
引用返信/返信 削除キー/
■31291 / inTopicNo.24)  Re[41]: 論語読みの論語知らず
□投稿者/ パニチェ -(2023/06/25(Sun) 16:21:36)
    時さん、レスありがとうございます。

    No31290に返信(時さんの記事)

    > 世俗諦と勝義諦という表現されるという事は、大乗仏教の概念ですね。すみません、大乗仏教の概念は不勉強で分かりません。実は、一度書いたのですが、正確ではないとの判断で削除しました。

    なんか投稿後に書き足したり修正しまくってたので、時さんにも書き直していただいてたみたいでお手間かけまして、すみません。
    でも、そういう時さんの立ち居振る舞いに誠意を感じました。

    > 仏陀の説いた世界観を言語化すると、非想非非想処を超えた想受滅ですが、想受滅そのものを言語化することは私には不可能です。つまりは、有頂天と表現されるようにこの世での最終的に言語化可能なのは、非想非非想処までだと思います。想受滅・・あえての表現ならば、想と受の滅尽した境地でしょうか。

    なるほど。

    > うーん、どうなのでしょうか。。現代では、仏教と一言で表現していますが、この場合には仰るようにいろいろなものが含まれていますね。実は、私が仏教を学び初めのころ、調べても調べても、道理としての仏陀の教えが浮かんでこなかったのですね。そんな時、ある人との出会いがあり、時さん、大乗と原始は違うよという一言で眼から鱗状態でした。なるほど、道理として通らないはずでした。仏陀以降のいろいろな方々の考察や解釈を仏陀一人の思想体系として捉え、理解しようとしていたのですから。

    > ネットで検索しますと、大乗非仏説(だいじょうひぶっせつ)は、大乗仏教の経典はゴータマ・シッダッタの直説ではなく、後世に成立した偽経という説である。という意味が最初に出てきますが、ここだけにフォーカスしますと、大乗仏教の経典はゴータマ・シッダッタの直説ではない気がしますが、偽経だ!とまでは偏りませんかね。これは、〜だけが真理で、それ以外は幻想だ!という見解を持ってはいけませんよという単純な教えの理解からですが、ただ、原始の内容と比較しますと、全てではなにしても、かなりの違いを発見できるように思います。

    同意です。原始仏典と大乗仏典は、確かにかなり違いますね。

    > と言うことで、大乗であれ小乗であれ密教であれ、それぞれの人による仏教があってよいと思います。そのような中で、私個人は原始に惹かれ、私の思っている仏陀の教えという道理の理解に努めたというだけでしょうか。

    なるほど。

    > はい。無記の事とも言えますが、その他諸々も含めてになるでしょうか。

    了解しました。

    > 少し誤解があるようにも感じますが、今の自分に問われても大丈夫な問いは他者に向けても大丈夫とは考えてはおりませんで、時からの言語発信の場合には、可能な限りその辺には配慮しているつもりではいます。ただ、予測不可能なお相手からの発言での場合には、時個人は、意味論的意味で捉えられるだろうという意味で書きました。中道については、パニチェさんの解釈と原始に書かれている内容とを統合したお話が今は私にはできませんので、スルーとさせてください。

    了解しました。私のこの箇所の先の返信については、すみません、私が誤読していたようです。

    > ご配慮をありがとうございます。では今回はこの辺りで、一度お休みをいただきたいと思います。有意義な時間でした。お付き合いをありがとうござました。

    こちらこそ、ありがとうございました。

引用返信/返信 削除キー/

<前の12件 | 次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -