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■31388 / inTopicNo.1)  時さんへ
  
□投稿者/ 田秋 -(2023/06/29(Thu) 21:58:59)
    こんばんは、時さん

    些細なことなので、このスレの最後にチョコっと書きます。

    誤解があるといけませんので。
    「取経」という経典ありません。

    西遊記は玄奘三蔵が中国にいたのではどうしてもわからない経典の疑問点を確かめるために天竺まで行った旅が土台になっていています。なので玄奘はお経を取りに行く事が目的ではありませんでしたが(結果的に大量の経典を持ち帰りました)、西遊記は最初から経典を持ち帰るのが目的でした。

    経緯を要約すると、あるときお釈迦さまが世界の四大部州を見渡すと南贍部州だけが乱れていました(ご存じのようにここに長安があります)。それで仏教で人々を教化するため天竺までお経を取りに来る人間を探させに観音菩薩を南贍部州までやりました。

    一方、唐の太宗にも色々あって、とある龍王の恨みを買い呪い殺されますが、太宗の部下魏徴と義兄弟の契りを結んだ崔判官が冥界にいて崔判官の機転により太宗は生還することができました。ただ生還したら地獄で苦しむ亡者救済のため施餓鬼法要をすることを約束します。

    太宗は生き返り約束通り盛大に施餓鬼法要を催しましたが、そこで選ばれた高僧が玄奘三蔵でした。玄奘は台上で次々とお経を唱えていましたが、そこに現れたのが丁度長安にいた観音菩薩。
    「そなたの説いているのは全て小乗(原文のママ)のみだ。大乗の教えを説くことができるか」
    「存じませぬ」

    そこで太宗も交えて観音と会話が交わされ、天竺へ玄奘三蔵がお経を取りに行くことになったのでした。
    要約と言っておきながら長くなってしまいました。

    と言う訳で、悟空や八戒、沙悟浄を引き連れた天竺への旅を取経の旅と言います。また西遊記として拡大・膨張する前の最古の西遊記の祖本を「大唐三蔵取経詩話」と言います。

    ===
    堺正章西遊記をご存じなのですね!それではキャスティングネタを一つ。
    最初日本テレビは坂東玉三郎に声を掛けたそうです。しかしすげなく断られてしました。そこで発想の大転換、女性にやらせてみてはどうか!?ということになり、夏目雅子に白羽の矢が立ったわけです。それが大当たりとなりました。

    以後何度も西遊記は制作されていますが、三蔵は全部女性です(宮沢りえ、牧瀬里穂、深津理恵)。
    西遊記の訳者中野美代子氏は北海道大学で教鞭を執っていましたが、かつて
    「本気で玄奘三蔵は女性だったと信じている学生がいる」と嘆いていました。
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■31382 / inTopicNo.2)  pipitさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/06/29(Thu) 18:17:36)
    2023/06/30(Fri) 11:13:34 編集(投稿者)

    pipitさんへ。返信をありがとうございます。

    触・受・渇愛という縁起の流れは、梵網経にも一部あったと思いますが、大切だと思いますね。

    実例でいいますと、今回pipitさんは、時の投稿を観ました。これがpipitさんが眼で色に触れた(触)という事で、意で法に触れたという事です。触した次には、三受のうちのどれかを感受して、返信を書きたいという思い(渇愛)から返信をいただけたという流れですね。触・受・渇愛の縁起支の流れはこのような感じだと思います。^^

    接触がなければ、苦の原因の渇愛は生起しません。が、仏陀の言っているのは、接触しつつ苦が生起しないメカニズムです。つまりは、見ながらにして外部からの不善法に自らの心が影響されない方法です。ですので、常に平安な心の状態を保てます。でも、文字で表現すると、ややこしいですね。

    > アーナンダ尊者でさえ、結集ギリギリでしたもんね。

    在家者では完全な苦の滅尽ができないというのは、時間がかかる等の意味ではありませんで、原理的に不可能だという意味です。

    > 兄上の存在は、仏道を歩みたいと願う私にいつも大きな励ましを与えてくださっています。心より感謝しています。

    私なんぞに感謝などは不必要ですよ。pipitさんはpipitさんらしく、自らの道を歩んでくださいね。

    > 私は最近、結集のことを思います。
    > 阿羅漢にはもう教えは不要なのに、なぜ阿羅漢のみで結集して教えを「私はこう聞きました。」と整えられたのか。

    歴史的事実としては分かりませんが、思いとしては、正法を後世に残すためだったのではないでしょうか。

    > 今の私はダメダメでも、ほんの少しだけでも自分なりに歩みながら、法灯をつなげたいという願いだけでも持ちたいな、と、感じています。

    法灯をつなげたいという願いだけでも大きな希望の持ち主ですね。そう感じます。

    > いつも応援してくださっていると自分勝手にでも(^^)思っています♪
    > 兄上さま、どうぞご自愛くださいませ。
    > ありがとうございますm(_ _)m

    こちらこそ、ありがとうございます。本人が頑張っているのを知っていますので、私の子供にもあまり言ったことはない表現なのですが、頑張ってね♪(^^)

    では、今回はこの辺で。
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■31380 / inTopicNo.3)  時さんへ
□投稿者/ pipit -(2023/06/29(Thu) 17:36:43)
    時兄上さまへ

    No31376
    読ませていただきました!

    > > そして、取り急ぎにはなるのですが、この場をお借りしてpipitさん宛に私の出した結論だけを書いておきたいと思います。仏陀の教えである完全な苦の滅尽は、在家者では不可能です。その道理は、仏典を読んで理解実践していただくしかありませんが。<

    アーナンダ尊者でさえ、結集ギリギリでしたもんね。

    >そしてもしも仏陀が言うように、輪廻転生があるのであれば、解脱とともに輪廻の終焉を迎えることは可能だと結論します。つまりは、人間界に二度と生まれることはないという事になります。もちろんこれは、日本語訳で書かれた内容が大筋にでも仏陀の思想として正しい世界観だとした場合です。原始の中で仏陀が言うように、仏陀にも人は救う事はできません。ただ本当の事を伝えるのみなのですね。触があるから受が生起し、受が生起するから渇愛が生起します。同じく原始の世界に惹かれたもの同志として、今後も応援しています。<

    兄上の存在は、仏道を歩みたいと願う私にいつも大きな励ましを与えてくださっています。心より感謝しています。

    私は最近、結集のことを思います。
    阿羅漢にはもう教えは不要なのに、なぜ阿羅漢のみで結集して教えを「私はこう聞きました。」と整えられたのか。

    今の私はダメダメでも、ほんの少しだけでも自分なりに歩みながら、法灯をつなげたいという願いだけでも持ちたいな、と、感じています。


    > 私は何も私だけが正しいとも、他を否定しようとも、見解を押し付けようという思いも毛頭ありませんで、そのあたりのご理解を頂ければ幸いです。お付き合いをありがとうございました。<

    いつも応援してくださっていると自分勝手にでも(^^)思っています♪

    兄上さま、どうぞご自愛くださいませ。
    ありがとうございますm(_ _)m

引用返信/返信 削除キー/
■31379 / inTopicNo.4)  田秋さんへ
□投稿者/ 時 -(2023/06/29(Thu) 17:05:32)
    田秋さんへ。こんにちは。レスをありがとうございます。

    > お礼にはなりませんが、西遊記の最後を書き記したいと思います。西遊記は大乗仏教が前提なので、その辺りはお含みおき下さい。

    了解しました。^^

    > 最後、お釈迦さまにより
    > 三蔵法師は 南無栴檀功徳仏
    > 孫悟空は 南無闘戦勝仏
    > 猪八戒は 南無浄壇使者菩薩
    > 沙悟浄は 南無八宝金身羅漢菩薩
    > 白馬(三蔵の乗り物:西海龍王の子)は 南無八部天龍広力菩薩
    > に任命(原文は「なすであろう」されました。

    > ここで特筆すべきことは三蔵法師と悟空は仏になったのです。ということ観音菩薩よりも悟りの境地上では上になっちゃったのです。

    > 取経の旅の途中では
    > 「これ、悟空」
    > と言っていた観音菩薩、今後は
    > 「悟空さま」
    > と呼ぶことになるのです。

    > あまり知られていない西遊記のお話でした。

    全く知りませんでした。(笑)ありがとうございます。大乗には、取経というこのような仏典もあるのですね。

    原始の中にも、出家修行者の長老を前に説法を行う在家者のお話もありますが、西遊記といいますと私の世代では、孫悟空は、堺正章。猪八戒は、西田敏行。沙悟浄は、岸部四郎で、三蔵法師が夏目雅子のドラマを思い浮かべました。セピア色の記憶です。

    懐かしい一時を、ありがとうござました。m(__)m
引用返信/返信 削除キー/
■31378 / inTopicNo.5)  時さんへ
□投稿者/ 田秋 -(2023/06/29(Thu) 16:32:10)
    こんにちは、時さん

    詳しい説明、ありがとうございました。m(_ _)m

    お礼にはなりませんが、西遊記の最後を書き記したいと思います。西遊記は大乗仏教が前提なので、その辺りはお含みおき下さい。

    最後、お釈迦さまにより
    三蔵法師は 南無栴檀功徳仏
    孫悟空は 南無闘戦勝仏
    猪八戒は 南無浄壇使者菩薩
    沙悟浄は 南無八宝金身羅漢菩薩
    白馬(三蔵の乗り物:西海龍王の子)は 南無八部天龍広力菩薩
    に任命(原文は「なすであろう」されました。

    ここで特筆すべきことは三蔵法師と悟空は仏になったのです。ということ観音菩薩よりも悟りの境地上では上になっちゃったのです。

    取経の旅の途中では
    「これ、悟空」
    と言っていた観音菩薩、今後は
    「悟空さま」
    と呼ぶことになるのです。

    あまり知られていない西遊記のお話でした。
引用返信/返信 削除キー/
■31376 / inTopicNo.6)  Re[53]: 田秋さんへ
□投稿者/ 時 -(2023/06/29(Thu) 14:41:19)
    田秋さんへ。こんにちは。ご返信をありがとうございます。

    No31367

    > やはり、お尋ねしておいて良かったです。時さんの本意でないことを感じ取っていました。

    それは良かったです。^^

    > そもそも何故このご住職とのエピソードに反応したのかと言うと、「愛」について語られていたからです。

    > ボクは人を愛するし、音楽を愛するし、様々なものを愛しています。また願わくば愛されたいとも思っています。愛するが故に執着もします。もしボクの人生に愛というものがなかったら、それは非常につまらないものだと思うのです。愛するが故に苦が生まれるのならそれで「良し」、とは言わないまでも「仕方がない」としています。

    文面より、田秋さんのお人柄は、人としても素晴らしい方だと素直に感じます。

    > ボクに娘が二人いますが、少なくとも娘が生まれた時点では妻を愛していましたし、娘のことはずっと愛しています。

    > この辺りが、ボクが仏教に「?」を抱く点なのです。一方、キリストさんの「隣人を愛せよ」の方には素直に賛成票を投じることができます。

    > この最後の段落はボクの日ごろ仏教に感じていることを人に聞こえるようにつぶやいてみただけですので、スルーしてください。

    原始の中には、子を亡くした親がもがき苦しむというお話もあるのですね。何も子を愛すことを否定しているのではなく、愛するなというのでもなく、愛は苦を生むのですよ。と静かに仏陀が語るシーンがありますが、その子を亡くした親は、何を言っているのか!愛は喜びを生むのです!と言い返します。、、、愛は、苦を生むのか?喜びを生むのか?という対立軸で、最終的には、その人物はそれを理解します。というお話です。単にそれだけのお話です。

    そして仏陀にはラーフラという子供がいたようですが、直接的にはラーフラを愛しています等との記載があるものはないのですが、仏典内の言葉の端々にラーフラに対する愛情を私が勝手に感じるものが多くあるのです。

    以前、原始の世界観は現代日本のそれと比較して、非常識な世界観だと書いたのですが、この辺り(仰る愛の感受)の事も含めてなのですね。

    私が私なりに理解実践している原始の世界観は、この辺りも含めて、現在の生活でどのように整合性を取るのか?という判断も含まれているのですね。原始の世界観では、出家者と在家者とそれ以外の人々に分かれています。家や家族から離れ、仏陀のもとで梵行を重ねて苦の滅尽や解脱を目指したのが出家者、通常の生活を営みながら、それでも教えを聞き実践したのが、在家者になります。いずれにしましても、多分ですが、当時のインドを想像しますと命がけの事が多かったために、離脱者も多かったのだとも思います。

    四向四果(預流向・預流果・一来向・一来果・不還向・不還果・阿羅漢向・阿羅漢果)という概念が原始にはあるのですが、仏陀は、阿羅漢果という境地です。中に「向」とつくものがありますが、これは、その次の段階に向かっている途中という意味なのですが、右側に行けば行くほど梵行により欲(煩悩)がなくなるという構造的な概念です。

    ですので当時の出家者は、仏陀のもとで阿羅漢果を目指すことになり、在家者は、不還果に至ることを最終目標にしていたといえば、その概念上では言えるでしょうか。この世界観で観ますと、日本では仏陀不存在ですので、至れたとしても不還果が最終になると思いました。この場合の教えのもとが、原始仏典だと私は考えました。

    書き出すと長くなってしまう悪い癖が私にはあるようですので、この辺りにしたいと思いますが、現在の世界における宗教で最大のものは、24億人のキリスト教のようです。隣人を愛せよ。という事には、田秋さんと同じく私も賛成票を投じますが、ではなぜ世界中で争い事が終焉を迎えないのか?終焉に向かっていてのこの現状なのか?イエスの教えの核である、隣人を愛せという事を皆が実践していてもこの現状なのか?と、私もあまりこの辺りは、通常は表現しませんのでスルーとしていただきたいのですが、小さな隣人トラブル等も含めて、この辺りも人生哲学として今まで考察してきたつもりなのですね。

    そして、取り急ぎにはなるのですが、この場をお借りしてpipitさん宛に私の出した結論だけを書いておきたいと思います。仏陀の教えである完全な苦の滅尽は、在家者では不可能です。その道理は、仏典を読んで理解実践していただくしかありませんが。そしてもしも仏陀が言うように、輪廻転生があるのであれば、解脱とともに輪廻の終焉を迎えることは可能だと結論します。つまりは、人間界に二度と生まれることはないという事になります。もちろんこれは、日本語訳で書かれた内容が大筋にでも仏陀の思想として正しい世界観だとした場合です。原始の中で仏陀が言うように、仏陀にも人は救う事はできません。ただ本当の事を伝えるのみなのですね。触があるから受が生起し、受が生起するから渇愛が生起します。同じく原始の世界に惹かれたもの同志として、今後も応援しています。

    私は何も私だけが正しいとも、他を否定しようとも、見解を押し付けようという思いも毛頭ありませんで、そのあたりのご理解を頂ければ幸いです。お付き合いをありがとうございました。
引用返信/返信 削除キー/
■31367 / inTopicNo.7)  Re[52]: 田秋さんへ
□投稿者/ 田秋 -(2023/06/29(Thu) 08:20:24)
    おはようございます、時さん

    お返事ありがとうございました。

    やはり、お尋ねしておいて良かったです。時さんの本意でないことを感じ取っていました。

    ===
    早速「法相続経」を以下のURLで読んでみました。
    https://w.atwiki.jp/waikei2008/pages/7.html

    前半の釈尊の説法は理解できましたが、後半の舎利子の説法は聞いて歓喜するには至りませんでした。

    ===
    そもそも何故このご住職とのエピソードに反応したのかと言うと、「愛」について語られていたからです。

    ボクは人を愛するし、音楽を愛するし、様々なものを愛しています。また願わくば愛されたいとも思っています。愛するが故に執着もします。もしボクの人生に愛というものがなかったら、それは非常につまらないものだと思うのです。愛するが故に苦が生まれるのならそれで「良し」、とは言わないまでも「仕方がない」としています。

    ボクに娘が二人いますが、少なくとも娘が生まれた時点では妻を愛していましたし、娘のことはずっと愛しています。

    この辺りが、ボクが仏教に「?」を抱く点なのです。一方、キリストさんの「隣人を愛せよ」の方には素直に賛成票を投じることができます。

    この最後の段落はボクの日ごろ仏教に感じていることを人に聞こえるようにつぶやいてみただけですので、スルーしてください。

    ありがとうございました。
引用返信/返信 削除キー/
■31366 / inTopicNo.8)  田秋さんへ
□投稿者/ 時 -(2023/06/29(Thu) 00:02:56)
    田秋さんへ。

    No31361

    田秋さん、こんばんは。レスをありがとうございます。

    > 時さんの書きこみ( No31349 )の、あるご住職との会話の部分なのですが、時さんはこのご住職に対して負のイメージを抱かれたのですか?

    負のイメージは抱いていたつもりは、今もありませんかね。私が原始を学び初めて暫くたってからの事ですので、小さく「ぇ?」という驚きが最初でした。

    > よくわからないのですが「法の相続よりも財の相続をするだろう」でなんとなくそうなのかなあ、と思いました。

    これは、原始の中部経典の中に「法相続経」というものがあるのですね。この内容は、財を求めるものが多いが、それらの相続者にならずに、皆さんは、私の説いた正法の相続者となるのですよ。といった事が記載されているのですね。当時の私の視点では、私の学んだ正法ではないお話をされましたので、「ぇ?」となったのですね(笑)まずは、仏陀自身の教えは駄目なんですよ。と否定されたことで、その瞬間に、え?では、このご住職は誰を師としているのだろうか?と、このご住職に聞くに聞けない疑問が生じた事を記憶しています。当時の私の理解での正法を否定されるのであればという事で、ならばきっと正法の相続者と財の相続者とも区別がついていないだろうと思いましたので、瞬間的に「この人ならば間違いなく、法の相続よりも財の相続をするだろうなと思いました」と書いたのですね。もちろん想像ですので、実際には分からないことですが。

    > それで合ってますか?

    負のイメージというよりも、「ぇ?」という驚きでしょうか。

    > もしそうならばそれは「・・愛を説ていないんですよ。」の部分に起因しているのでしょうか(椅子の上でコケられた、ということなので)?

    はい。実際に転げ落ちたという意味ではなくて、その瞬間に心が滑ったといいますか。漫画みたいでしょ?(笑)当時の私の理解では、仏教徒で仏陀の教えの否定はありえません。そしてその否定の根拠として「仏陀は、愛を説ていないんですよ。」と愛を持ち出されたことになるでしょうか。私の理解では、愛は3種類なんですね。通常の人間愛。神の無償の愛。そして渇愛の愛。ですが、仏教関係でのお話での愛は、瞬間的に渇愛を意味してると思いましたので、これは仏陀の教えでは滅尽すべきものなんですね。つまりは苦の原因と説かれるものですが、、、多分ですがその瞬間、ご住職は、人間愛の事を表現されたのだと今も思っていますが、それをもって仏教の世界で師である仏陀の否定はないのではないだろうかとも思ったのですね。ですので、少し混乱したことは記憶しています。人間愛が少ないといいますか、ほぼないというのは、仏典中の仏陀の人となりで理解できないこともないのですが。

    > 間違っていたらごめんなさい。

    いえいえ。ありがとうございます。このような感じでした。^^
引用返信/返信 削除キー/
■31364 / inTopicNo.9)  パニチェさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/06/28(Wed) 23:17:42)
    パニチェさんへ。

    No31360

    パニチェさん、こんばんは。レスをありがとうございます。

    > エピソードに関しても説法も大乗仏典と同じく創作されたり付け加えられていることが仏典研究で明らかになっています。

    後学のために、原始で1つ2つでも創作されされたことが明らかにされた内容と、その仏典研究というものがいかなるものなのかを教えていただければ幸いです。

    > ここのところは時さんと私では少し意見が合わないかもしれませんね。^^

    はい。少し意見が合わないかもしれませんね。^^と言いたい所ですが、偏った見解を私は持ちたくないと思ってはいますが、なんせ学び初めの時のイメージが良くなかったという事で、なにがしかの認知バイアスがかかってしまっているのかもしれませんね。ただ、今回いろいろとお話にお付き合いしていただいて、その可能性にでも気づけたのであれば大きな収穫です。

    ちなみにですが、原始の中部経典にあるのですが、生後間もない菩薩は、立ち上がり七歩あゆみます。そして、雄牛のごとくに語を発します。なんていうお話は、作り話だろうなぁと思っています。通常は、生まれたての幼児が立ち上がって歩いて言葉を発しませんから。私の解釈でもこの辺りのお話は、ナンセンスだという判断で流していますが。もちろん、その他にもあったように思います。

    > 典型的な生臭坊主ですね。

    何かこう、お話した医者にしてもこの僧侶にしても、割との高確率で出会いガチャで外れる運命なのかもしれません(笑)
引用返信/返信 削除キー/
■31361 / inTopicNo.10)  Re[49]: パニチェさんへ
□投稿者/ 田秋 -(2023/06/28(Wed) 22:23:50)
    こんばんは、時さん

    横レス失礼します。
    パニチェさんとの濃いやり取りの中で済みません・・・と言いながら。。。

    時さんの書きこみ( No31349 )の、あるご住職との会話の部分なのですが、時さんはこのご住職に対して負のイメージを抱かれたのですか?
    よくわからないのですが「法の相続よりも財の相続をするだろう」でなんとなくそうなのかなあ、と思いました。
    それで合ってますか?

    もしそうならばそれは「・・愛を説ていないんですよ。」の部分に起因しているのでしょうか(椅子の上でコケられた、ということなので)?

    間違っていたらごめんなさい。
引用返信/返信 削除キー/
■31360 / inTopicNo.11)  時さんへ
□投稿者/ パニチェ -(2023/06/28(Wed) 21:49:13)
    2023/06/28(Wed) 22:17:18 編集(投稿者)

    時さん、こんばんは。レスありがとうございます。

    No31349に返信(時さんの記事)
    >>時さんに伺いたいのは、例えば複数の原始仏典で十四無記(十無記)が説かれている一方で、最古層の仏典のひとつとでもあるスッタニパータには地獄の記述が延々とあります(第3章 大いなる章 第10経コーカーリヤ)。こういうところを時さんはどのように捉えておられますか?

    > 私の理解不足でご質問の意図を取り違えている可能性があります。そのような場合には、ご指摘いただければ幸いです。宜しくお願いします。

    > 「世界は常住であろうか」「世界は無常であろうか」「世界は有限であろうか」「世界は無限であろうか」「霊魂と身体は同一であろうか」「霊魂と身体は別異であろうか」「如来は死後に存在するのであろうか」「如来は死後に存在しないのであろうか」「如来は死後に存在し、かつ存在しないのであろうか」「如来は死後に存在するのでもなく、かつ存在しないのでもないのであろうか」これらが代表的な十無記です。

    > これらは、基本的に教えの目的である、苦の滅尽や解脱、涅槃に役立つことがないために無記として回答しないのだと理解しています。それに、これらにこだわる問いというのは、見や想に固執していますしね。固執があるときに苦が生起します。それらに固執がないときには見は生起しません。これら以外にも「そんなことは言っていません」という事等も記載がなくとも(ないからこそ)無記に入るように考えています。これが、説かないことは説かないと憶持せよ。という意味のようにも思います。

    > 余談ですが、完全にこれらを説かなかったのかというと、そうでもないのですね。如来を炎に譬えて、最後には大海に譬えている経典があります。

    > 如来の死後を問いかけたものに対して、目の前に火が燃えていれば分かりますか?分かります。では何故目の前で燃えているのでしょうか?草や薪の摂取で燃えています。

    > では、その火が消えれば分かりますか?分かります。ではその消えた火は、東西南北のどの方向に去ったのでしょうか?と聞かれれば、あなたはどう答えますか?

    > 師よ、その質問は適切ではありません。なぜならその火は、およそ草や薪の摂取により燃えていたのであり、それらの滅尽のゆえに糧のないものとなって消失したものだされるからです。

    > そうですね。色によって如来を説明しようと思えばできますが、如来のその色は、捨断され根を断たれており、将来に生じない法となっているのです。如来は色の滅尽により解脱した者なのです。あたかも大海のようです。

    > その如来に対し、生まれ変わるのか、生まれ変わらないのか、生まれ変わり、かつ生まれ変わらないのか、生まれ変わるのでなく、かつ生まれ変わらないのでもないのか、というのは適切でないのです。

    > 色の次には、受・想・諸行・識と同じ内容が続きます。まぁ、五蘊のそれぞれで如来を説明しようと思えばできるといえばできるが、本来的には五蘊が滅尽しているのが如来なので、その如来に対してあなたの死後はどうなるのですか?等々と聞くこと自体がナンセンスだという事だろうと思います。最後に大海に例えられていますが、これもまた問われれば、色であり、想であるとしか説明できないと思いますね。

    > スッタニパータ以外にも、原始には多くの地獄に関する仏典があったように記憶していますが、コーカーリヤについては、特別何も引っかからないですかね。。。仏陀が認めている聖者2人(サーリプッタ・マハー・モッガラーナ)を何度も誹謗中傷し敵意を抱いてたために、コーカーリヤは死後に地獄に転生したというお話だと思います。特別引っ掛かりはないのですが、コーカーリヤは、聖者2人を非難した不善人ですね。不善人が聖者を非難すれば悪趣へ転生する等というお話は、お決まりのコースだと思いますが。

    > そしてこの章の最後、
    > 678 ここに説かれた地獄の苦しみがどれほど永く続こうとも、その間は地獄にとどまらなねばならない。それ故に、人は清く、温良で、立派な美徳をめざして、常に言葉と心を慎むべきである。と締め括られています。ですので、これは、戒めといいますか、教えといいますか。励ましといいますか。目的意識の啓発といいますか。あえて表現するならば、このような理解です。

    > 私が自信がないのは、無記と地獄のお話との(こういうところ)と仰る繋がり方です。もしも上記で書きました内容で外していた場合、ご指摘ください。

    丁寧な返信をありがとうございました。
    正直に言えば私の言葉不足で少し質問の意図というか趣旨が伝わらなかったところがありますが、ここで再度質問することは避け、以下の返信に代えさせてもらいます。

    > ご説明をありがとうございます。しかし、なるほどと言えるほど、理解できていないことも自覚しつつですが・・・大乗では、そのようなストーリーを独自で作り上げているのですか。。無量寿経の現代語訳の一部もネットで読んでみました。特に感想というのはありません。

    > 如来蔵蔵思想  生きとし生きるものが皆、如来を胎内に宿しているということである。 如来すなわち仏になる可能性は仏性(ぶっしょう)ともいわれるが、それがすべての生きものにそなわっているという教えである(一切衆生、悉有仏性)。(ネット検索)

    > 一切衆生悉有仏性  お釈迦様の教えに「一切衆生 悉有仏性」(一切衆生 悉く仏性有り)があります。 これは『涅槃経』という経典の中に説かれています。 命あるものは、すべて仏となる性質(可能性)を内にもっている。 つまり、すべての人が仏に成るべき仏性を生まれながらに具えている、人間性を完成して真の人間に成る事ができるという意味です。(ネット検索)

    > 上記は、原始には記載がなくて大乗系にあるという事ですが、パニチェさんのご認識では、発展形なのですね。・・・お釈迦様の教えに「一切衆生 悉有仏性」(一切衆生 悉く仏性有り)があります。・・・原始にはこのような教えはありませんので、ここが理解の分岐点でしょう。私が過去に混乱したのは、こういった場合だったのですね。原始と大乗の区別があるもないも知らなかったときのお話ですが。

    > 釈尊は人間の救済を重んじたはずであるから、人里離れたところで自己の完成だけを目指すのが本来の在り方なのか?という反動から、、、社会情勢や時代の流れ等からその形態が変化してもおかしくはないですが、この辺りで本来の仏陀の教えから乖離しだしたのでしょう。と言いましても、別に今も何がどうなるというものでもありませんが。

    結論から言えば、私は大乗仏典も釈尊の教えから乖離しているとは思いません。
    原始仏典が全て釈尊の直伝かと言えばそうではありません。エピソードに関しても説法も大乗仏典と同じく創作されたり付け加えられていることが仏典研究で明らかになっています。

    少なく見積もっても200〜300年の口伝の後に文字として編集されているわけですから、今となってはどれが釈尊の直伝かは誰も判別できません。

    遥か昔に大乗仏教が釈尊の直伝であるという前提で行われた教相判釈の結果である五時八教も今となってはナンセスであるように、初期仏典や大乗仏典に深浅高低を付けること自体はナンセンスだと思います。
    あくまでも教えは筏であり、頂に到達するための道のりや乗り物であるわけですから。

    大乗仏典も釈尊の教えを起点として仏弟子や高僧が生涯をかけた仏修行と学究の成果として残した法宝だと私は考えています。
    同じく口伝による結集においても羅漢の修業の成果や学究によって明らかとなった仏智が加えられているのでしょう。
    結果的に原始仏典同士を比較すればロジックとして辻褄が合わないところが多々ありますが、釈尊が対機説法(説く相手の機根に合わせた例え話を持ち出して説法する)の名人であったことも考えれば方便を多用しているためと好意的に解釈しています。

    ここのところは時さんと私では少し意見が合わないかもしれませんね。^^

    > 以前に、あるお寺のご住職とお話をさせていただける機会がありまして。。。そこで話していく中で、ご住職が言われたのは「仏陀自身の教えは駄目なんですよ。」「ぇ?・・・何故ですか?」「・・愛を説ていないんですよ。」という会話の流れで、思わず椅子の上でコケタという、作り話のような本当のお話があります。この人ならば間違いなく、法の相続よりも財の相続をするだろうなと思いました(ここは想像です)

    典型的な生臭坊主ですね。

    > 私では、大乗等の仏典を理解し、歴史的背景を研究し、総合理解することはキャパオーバーのようです。ギブアップです。

    了解しました。

引用返信/返信 削除キー/
■31349 / inTopicNo.12)  パニチェさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/06/28(Wed) 12:44:21)
    パニチェさんへ

    No31332

    こんにちは。レスをありがとうございます。

    > 時さんに伺いたいのは、例えば複数の原始仏典で十四無記(十無記)が説かれている一方で、最古層の仏典のひとつとでもあるスッタニパータには地獄の記述が延々とあります(第3章 大いなる章 第10経コーカーリヤ)。こういうところを時さんはどのように捉えておられますか?

    私の理解不足でご質問の意図を取り違えている可能性があります。そのような場合には、ご指摘いただければ幸いです。宜しくお願いします。

    「世界は常住であろうか」「世界は無常であろうか」「世界は有限であろうか」「世界は無限であろうか」「霊魂と身体は同一であろうか」「霊魂と身体は別異であろうか」「如来は死後に存在するのであろうか」「如来は死後に存在しないのであろうか」「如来は死後に存在し、かつ存在しないのであろうか」「如来は死後に存在するのでもなく、かつ存在しないのでもないのであろうか」これらが代表的な十無記です。

    これらは、基本的に教えの目的である、苦の滅尽や解脱、涅槃に役立つことがないために無記として回答しないのだと理解しています。それに、これらにこだわる問いというのは、見や想に固執していますしね。固執があるときに苦が生起します。それらに固執がないときには見は生起しません。これら以外にも「そんなことは言っていません」という事等も記載がなくとも(ないからこそ)無記に入るように考えています。これが、説かないことは説かないと憶持せよ。という意味のようにも思います。

    余談ですが、完全にこれらを説かなかったのかというと、そうでもないのですね。如来を炎に譬えて、最後には大海に譬えている経典があります。

    如来の死後を問いかけたものに対して、目の前に火が燃えていれば分かりますか?分かります。では何故目の前で燃えているのでしょうか?草や薪の摂取で燃えています。

    では、その火が消えれば分かりますか?分かります。ではその消えた火は、東西南北のどの方向に去ったのでしょうか?と聞かれれば、あなたはどう答えますか?

    師よ、その質問は適切ではありません。なぜならその火は、およそ草や薪の摂取により燃えていたのであり、それらの滅尽のゆえに糧のないものとなって消失したものだされるからです。

    そうですね。色によって如来を説明しようと思えばできますが、如来のその色は、捨断され根を断たれており、将来に生じない法となっているのです。如来は色の滅尽により解脱した者なのです。あたかも大海のようです。

    その如来に対し、生まれ変わるのか、生まれ変わらないのか、生まれ変わり、かつ生まれ変わらないのか、生まれ変わるのでなく、かつ生まれ変わらないのでもないのか、というのは適切でないのです。

    色の次には、受・想・諸行・識と同じ内容が続きます。まぁ、五蘊のそれぞれで如来を説明しようと思えばできるといえばできるが、本来的には五蘊が滅尽しているのが如来なので、その如来に対してあなたの死後はどうなるのですか?等々と聞くこと自体がナンセンスだという事だろうと思います。最後に大海に例えられていますが、これもまた問われれば、色であり、想であるとしか説明できないと思いますね。

    スッタニパータ以外にも、原始には多くの地獄に関する仏典があったように記憶していますが、コーカーリヤについては、特別何も引っかからないですかね。。。仏陀が認めている聖者2人(サーリプッタ・マハー・モッガラーナ)を何度も誹謗中傷し敵意を抱いてたために、コーカーリヤは死後に地獄に転生したというお話だと思います。特別引っ掛かりはないのですが、コーカーリヤは、聖者2人を非難した不善人ですね。不善人が聖者を非難すれば悪趣へ転生する等というお話は、お決まりのコースだと思いますが。

    そしてこの章の最後、
    678 ここに説かれた地獄の苦しみがどれほど永く続こうとも、その間は地獄にとどまらなねばならない。それ故に、人は清く、温良で、立派な美徳をめざして、常に言葉と心を慎むべきである。と締め括られています。ですので、これは、戒めといいますか、教えといいますか。励ましといいますか。目的意識の啓発といいますか。あえて表現するならば、このような理解です。

    私が自信がないのは、無記と地獄のお話との(こういうところ)と仰る繋がり方です。もしも上記で書きました内容で外していた場合、ご指摘ください。

    > 上記は大乗仏教が興った歴史的な背景をも含んだ思想的な部分ですね。ご存じのように当時の上座部(部派仏教)は出家者が中心で世俗や実社会から遊離したところで修行と学究に没頭していました。釈尊は人間の救済を重んじたはずであるから、人里離れたところで自己の完成だけを目指すのが本来の在り方なのか?という反動から、仏塔を守っていた在家信者たちが中心となって大乗運動が生じました。この背景から大乗仏教では自己完成よりも菩薩行(人間の救済)を重んじたところがあります。

    > これを色濃く反映しているのが無量寿経(浄土三部経のひとつ)にある阿弥陀仏の四十八誓願(阿弥陀仏が法蔵菩薩の頃に四十八の誓願を立て、これらを達成した後に仏になるというストーリー)です。涅槃に入れるのに人間救済を優先させ、涅槃に入るべきではないと直接的に説かれる大乗仏典はないと思います。

    > 大乗仏典に言葉として「自洲・法洲(自灯明・法灯明)」は記されてないと思いますが、この発展形が「如来蔵蔵思想」や「一切衆生悉有仏性」だと思います。

    ご説明をありがとうございます。しかし、なるほどと言えるほど、理解できていないことも自覚しつつですが・・・大乗では、そのようなストーリーを独自で作り上げているのですか。。無量寿経の現代語訳の一部もネットで読んでみました。特に感想というのはありません。

    如来蔵蔵思想  生きとし生きるものが皆、如来を胎内に宿しているということである。 如来すなわち仏になる可能性は仏性(ぶっしょう)ともいわれるが、それがすべての生きものにそなわっているという教えである(一切衆生、悉有仏性)。(ネット検索)

    一切衆生悉有仏性  お釈迦様の教えに「一切衆生 悉有仏性」(一切衆生 悉く仏性有り)があります。 これは『涅槃経』という経典の中に説かれています。 命あるものは、すべて仏となる性質(可能性)を内にもっている。 つまり、すべての人が仏に成るべき仏性を生まれながらに具えている、人間性を完成して真の人間に成る事ができるという意味です。(ネット検索)

    上記は、原始には記載がなくて大乗系にあるという事ですが、パニチェさんのご認識では、発展形なのですね。・・・お釈迦様の教えに「一切衆生 悉有仏性」(一切衆生 悉く仏性有り)があります。・・・原始にはこのような教えはありませんので、ここが理解の分岐点でしょう。私が過去に混乱したのは、こういった場合だったのですね。原始と大乗の区別があるもないも知らなかったときのお話ですが。

    釈尊は人間の救済を重んじたはずであるから、人里離れたところで自己の完成だけを目指すのが本来の在り方なのか?という反動から、、、社会情勢や時代の流れ等からその形態が変化してもおかしくはないですが、この辺りで本来の仏陀の教えから乖離しだしたのでしょう。と言いましても、別に今も何がどうなるというものでもありませんが。

    以前に、あるお寺のご住職とお話をさせていただける機会がありまして。。。そこで話していく中で、ご住職が言われたのは「仏陀自身の教えは駄目なんですよ。」「ぇ?・・・何故ですか?」「・・愛を説ていないんですよ。」という会話の流れで、思わず椅子の上でコケタという、作り話のような本当のお話があります。この人ならば間違いなく、法の相続よりも財の相続をするだろうなと思いました(ここは想像です)

    私では、大乗等の仏典を理解し、歴史的背景を研究し、総合理解することはキャパオーバーのようです。ギブアップです。
引用返信/返信 削除キー/

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