| ■28279、 パニさん、ありがとございま〜す。
>ちなみに小児は超人の例えで< あらそうだったんですね。よく分かりました。
『小児の立場こそが』っていうところだけがわたしに注目されたみたい。
【モーリス・メルロ=ポンティ著『知覚の現象学』中島盛夫訳発行所財団法人法政大学出版局】に、 『われわれがこの起源に遡り、言葉のざわめきの下の原初的な沈黙を再発見しない限り、そしてこの沈黙をやぶる身振りを描き出さない限り、われわれの人間考察はいつまでたっても表面的なものにとどまるであろう。』(p305) ってある。
世界や私、そして世界と私との関係性において、その起源を考えるとき、乳幼のころに遡ってそのうちで見ること、メルポンはこういう仕方をしている、ってわたし見てる。ニーチェもそういうところって似てるのかな、って思ったんだけど違ったみたい。
>精神の三変化に関するニーチェの言葉<の抜粋部分を読んで見て、 なんかニーチェも大変だったのね〜、って。
【「ニーチェ」工藤綏夫著発行所清水書院2003年10月10日第27刷発行】のなかに、 ・・・・・・ 大地の主「超人」の産出をめざす精神は、まず第一に、駱駝のように従順にあらゆる重荷をにない、わけても、「汝なすべし」と命ずる義務に服従し、それにたえることによって自己の強さを実証しようとする。この「畏敬を宿している、強力で、重荷に堪える精神は、数多くの重いもの出会う。そして、この強靭な精神は、重いもの、もっと強いものを要求する」(『ツァラトゥストラ』同所)。 ・・・・・・ ってうのあった。
以下はわたしの勝手な見えね。
ニーチェは「汝なすべし」という足かせをつけられ、駱駝になり、さらに獅子になって頑張ってみたんだけど、あ〜疲れた〜、シンド〜。疲れ果てたニーチェは、ああ〜いいな〜、こんな足かせなくして、なんがごちゃごちゃ考えないで、世界と軽快に遊び戯る無垢なる小児みたいに自由になりたいな〜。
そうよ!私の「一つの新しい始まり、一つの遊戯、一つの自力でころがる車輪、一つの第一運動」は小児のころよ。これは生への意志であり、「肯定」なのよ。そうよ!「創造の遊戯のためには」、「肯定が必要なの」。〈存在する〉というのは「肯定」以外の何ものであるのかしら?「いまや精神は自分の意志を意欲する」。ラクダになりシシになって「世界を失った精神は」、〈われあり〉という「自分の世界をかちえるのだ」った。
って、こんなふうにね。
あ、ニーチェはこう言ってるっていうんじゃなくてあくまでも個人的感想ね。
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