| 2022/12/10(Sat) 09:26:19 編集(投稿者) 2022/12/10(Sat) 09:10:42 編集(投稿者)
みなさまおはようございます。
(カントの文章) 『なんらかの仕方で触発されることで表象を受け取るわれわれの心の受容性を、感性と呼ぼう。 それに反して表象そのものを生み出す能力、つまり認識の自発性が悟性である。 われわれの本性からして、直観は感性的でしかありえない。 つまり直観に含まれているのは、われわれが対象によって触発されるという仕方だけである。 これに対して、感性的な直観の対象を思考する能力が悟性である。 これらの特質のいずれも、他方に優先することはできない。 感性がなければわれわれにはどんな対象も与えられないし、悟性がなければ何一つ思考されないだろう。 内容が伴わない思考は空虚であり、概念を伴わない直観は盲目なのである。 (略) 両者が一体になることでしか、認識は生まれないのである。』 『純粋理性批判 上、以文社、p114、田村一郎先生訳)
すごく卑近な例を思いつきました。 出来上がる認識を「プリン」に喩えてみたとき、 内容を卵液 概念を型 に喩えられるのではないかと思いました。
概念を「ことば」と考えるとよりわかりやすくなるのですが、
ドロドロの卵液(感性的な直観の対象)を、何かに入れなければ固められない。 プリンにするためにはなにかしらの型が要る。 型としての言葉(概念)に入れて焼けば、プリン(客観妥当性のある認識)になる。
言葉(概念)に何を入れるかはある意味では自由だけど、色のついた水を入れて冷凍庫で冷やして、「プリンです。」と出しても、詐欺と訴えられる可能性はある。
ましてや、中身の入ってない空の容器を、「プリンです。」と出しても、いやいやいや、違うでしょう、となる。
カントの言葉の 『内容が伴わない思考は空虚であり、概念を伴わない直観は盲目なのである。』B75 を、 卵液・型・プリン、の3概念(3言葉、3単語)で考えてみた朝の日記でした。
pipitの考えたこと (中身の無い器(うつわ)は空虚であり、器を使わない卵液は掴めない。卵液と器が協働することでプリンができます。)
|