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■27410 / inTopicNo.13)  Re[22]: モーメント
  
□投稿者/ pipit -(2022/11/09(Wed) 19:06:51)
    悪魔ちゃん、こんばんは(*^◯^*)

    No27409に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > お邪魔しましま〜す。
    >
    > 「モーメント」、「契機」、
    >
    > わたしだったら、「そうさせるもの」ってしちゃうな〜。


    うん、いいね!

    「in der transscendentalen Tafel aller 【Momente】 des Denkens in den Urtheilen」は、
    『判断における思考すべての【そうさせるもの】を含む超越論的な表においては』
引用返信/返信 削除キー/
■27409 / inTopicNo.14)  Re[21]: モーメント
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/11/09(Wed) 18:39:07)
    お邪魔しましま〜す。

    「モーメント」、「契機」、

    わたしだったら、「そうさせるもの」ってしちゃうな〜。

引用返信/返信 削除キー/
■27408 / inTopicNo.15)  モーメント
□投稿者/ pipit -(2022/11/09(Wed) 14:30:38)
    2022/11/09(Wed) 14:32:55 編集(投稿者)

    みなさま、こんにちは。
    恐るべしコトバンクさん...

    pipit先程、ネット検索で
    『モーメント 哲学』で検索したら、コトバンクさんの
    『契機 (読み)けいき (英語表記)moment』などが出てきたので引用します。

    『契機けいき moment
    本質的構成要素をいう。 momentは語源的に異なる2つの語の系統をひいており,1つは運動を語源として瞬間を意味し,1つは重圧や動力を意味する (→モーメント ) 。契機を哲学的概念として用語化したヘーゲルには,この2つの意味の融合が明らかにみられる。ヘーゲルのいう契機は,まず弁証法的発展のなかで,次の発展を生み出すのに必須な一段階をさすが,この段階は次の段階の存在のなかへ止揚され,その高次の存在を構成する不可欠の要因となっているから,本質的構成要素の意味を得る。
    出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典noneブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について』

    『契機けいき moment 英語moment フランス語Moment ドイツ語
    原語は「動かす」という意味のラテン語の動詞mouereに由来する。それゆえ、あるものを動かし、決定する根拠のことを意味する。またさらに、ある全体、とくに静的なものではなく動的、過程的な全体に対するその構成要素、あるいはその一局面のことを意味することもある。実際、すべての事象を生成発展の相としてとらえていこうとするヘーゲル哲学においては、この意味で使われている。
    [清水義夫]』

    『けい‐き【契機】
    @ それを欠いては事物が存在できないような要素。または、事物が発展するのに、どうしてもそこを通らねばならない点や条件。
    A きっかけ。動機。原因。
    ※枯野抄(1918)〈芥川龍之介〉「この時、偶然な契機(ケイキ)によって、醜き一切に対する反感を師匠の病躯の上に洩らしたのであらうか」』

    『けい‐き【契機】
    1 きっかけ。動機。「失敗を契機に体制を立て直す」
    2 ヘーゲルの弁証法の用語。全体を構成するために不可欠な要素。また、事物の動的過程において、その変化・発展を規定する本質的・必然的な通過段階。』

    『モーメント
    積率ともいう。』

    『せきりつ【積率 moment】
    モーメントともいう。統計学で度数分布や確率分布の散布の大きさを測り,分布を特徴づけるのに役だつ。』

    『モーメント【moment】
    能率ともいう。』

    いろいろ読んで、契機や要素という意味でカント的には「モーメント」という単語を読めばいいのかな?と思いました。
    (・・?)

    田村一郎先生は、
    「in der transscendentalen Tafel aller Momente des Denkens in den Urtheilen」は、
    『判断における思考すべての要素を含む超越論的な表においては』
    と訳されてます。
    ※B98
    ※以文社、上、p135


引用返信/返信 削除キー/
■27406 / inTopicNo.16)  Re[19]: B97
□投稿者/ pipit -(2022/11/09(Wed) 09:05:26)
    No27405
    (pipit感想)
    モーメントという単語がわからないなぁと息子に聞くと知恵袋の回答を教えてくれました。

    https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11174799696

    回答の一つを引用させていただきますm(_ _)m
    >momentには「一瞬」の他に「重さ」とか「重要性」と言う意味もあります。力のmomentを最初に意識したのはアリストテレスで、「てこ」でモノを動かすときに、棒の長さと棒に垂直に加える力の積が大きいほど動かす能力が高い、「てこ」に作用する力の重要性が高いという意味でmomentumを使いました。日本語では「仕事の能率」と訳しています。<

    これを読んで、pipitには、判断へ向かう因縁としての純粋悟性概念を「モーメント」と表現するイメージが湧きました。

    モーメントが出てくるドイツ語原文は以下です。

    in der transscendentalen Tafel aller Momente des Denkens in den Urtheilen

    https://korpora.zim.uni-duisburg-essen.de/Kant/aa03/088.html
引用返信/返信 削除キー/
■27405 / inTopicNo.17)   B97
□投稿者/ pipit -(2022/11/09(Wed) 09:04:21)
    2022/11/09(Wed) 09:07:21 編集(投稿者)

    みなさまおはようございます。
    No27400で引用した最後の英訳文を再掲して、DeepL日訳を下敷きにpipitが日訳しました。大切な箇所だと思ったからです。

    These judgements, therefore,
    infinite
    in respect of their logical extent,

    このように、これらの判断は、その論理的範囲に関しては無限であるが、

    are,
    in respect of the content of their cognition,
    merely limitative;

    その認識の内容に関しては、単に限定的である。


    and are consequently entitled to a place in our transcendental table of all the momenta of thought in judgements,

    そしてその結果、判断における思考のすべてのモーメントの超越論的な表において、(肯定判断から区別される無限判断として)その地位を得る資格がある。

    because the function of the understanding exercised by them may perhaps be of importance in the field of its pure a priori cognition.

    なぜなら、それらの判断によって行使される悟性の機能は、おそらくその純粋にアプリオリな認識の領域において重要であるためである。
引用返信/返信 削除キー/
■27403 / inTopicNo.18)  Re[17]: B97
□投稿者/ pipit -(2022/11/09(Wed) 00:31:57)
    2022/11/09(Wed) 00:33:33 編集(投稿者)

    (pipitの田村一郎先生訳文の読解)
    一般論理学は、述語が主語に付随しているか、それとも対立しているかだけに注目する。

    (対して)超越論的論理学では、否定的でしかない述語を通して、論理的肯定が認識全体とのかかわりでどのような成果を与えるかを考える。

    「魂は不死である。」
    論理形式は肯定的だが、
    判断としては一つの誤謬を取り除いたことになる。
    魂は不死的なものの無限の範囲に位置付けられる。

    可死的なものは存在し得るものの領域全体の一部であり、不死的なものは別の部分なのだから、「魂は不死である。」は、魂は無限の量のものの一つであって、可死的なものが除かれた後も残るものということ。
    けれども結局は残るものも無限なままで、しかも、魂という概念は少しも大きくなることはない。
    したがってこの論理的範囲にかかわる無限判断は、実際には認識内容全般について制限するだけである。
    この(制限という)悟性機能は、おそらくそのアプリオリな純粋認識の分野ではより重視されることになるので、超越論的な表においては見過ごしてはならない判断である。
引用返信/返信 削除キー/
■27400 / inTopicNo.19)  B97
□投稿者/ pipit -(2022/11/08(Tue) 22:49:52)
    2022/11/08(Tue) 22:50:39 編集(投稿者)

    みなさまこんばんは。
    No27387の続きです。
    まず、該当箇所の田村一郎先生の訳文などにpipit自身で目を通してみます。
    その後、御子柴善之先生、中山元先生、石川求先生のそれぞれの解説を読んでみたいと思っています。

    (英訳)
    2. In like manner, in transcendental logic, infinite must be distinguished from affirmative judgements, although in general logic they are rightly enough classed under affirmative. General logic abstracts all content of the predicate (though it be negative), and only considers whether the said predicate be affirmed or denied of the subject. But transcendental logic considers also the worth or content of this logical affirmation&#8212;an affirmation by means of a merely negative predicate, and inquires how much the sum total of our cognition gains by this affirmation. For example, if I say of the soul, “It is not mortal”&#8212;by this negative judgement I should at least ward off error. Now, by the proposition, “The soul is not mortal,” I have, in respect of the logical form, really affirmed, inasmuch as I thereby place the soul in the unlimited sphere of immortal beings. Now, because of the whole sphere of possible existences, the mortal occupies one part, and the immortal the other, neither more nor less is affirmed by the proposition than that the soul is one among the infinite multitude of things which remain over, when I take away the whole mortal part. But by this proceeding we accomplish only this much, that the infinite sphere of all possible existences is in so far limited that the mortal is excluded from it, and the soul is placed in the remaining part of the extent of this sphere. But this part remains, notwithstanding this exception, infinite, and more and more parts may be taken away from the whole sphere, without in the slightest degree thereby augmenting or affirmatively determining our conception of the soul. These judgements, therefore, infinite in respect of their logical extent, are, in respect of the content of their cognition, merely limitative; and are consequently entitled to a place in our transcendental table of all the momenta of thought in judgements, because the function of the understanding exercised by them may perhaps be of importance in the field of its pure &#224; priori cognition.

    (DeepL日訳)
    2.このように、超越論的論理学では、無限は肯定的判断と区別されなければならないが、一般論理学では十分に正しく肯定的判断の下に分類される。一般論理では、述語の内容を(それが否定的であっても)すべて捨象し、当該述語が主語を肯定するか否定するかを考えるだけである。しかし、超越論的論理学では、この論理的肯定-単なる否定的述語による肯定-の価値や内容も考慮し、この肯定によって我々の認識の総体がどれだけ得られるかを問うのである。たとえば、私が魂について「それは死すべきものではない」と言うならば、この否定的判断によって私は少なくとも誤りを回避するはずである。さて、「魂は死すべきものではない」という命題によって、私は論理形式の点で、本当に肯定したことになる。なぜなら、私はそれによって魂を不滅の存在の無限の領域に置くからである。さて、存在しうるものの全球のうち、死すべきものが一部分を占め、不滅のものがもう一部分を占めるので、この命題によって肯定されるのは、私が死すべき部分をすべて取り去ったときに残る、無限の多数のもののうちのひとつが魂であるということ以上でも以下でもない。しかし、この手続きによって私たちが達成するのは、すべての可能な存在の無限の球が、死を免れないものがそこから除外されるように制限され、魂がこの球の範囲の残りの部分に配置されるということだけです。しかし、この部分は、この例外にもかかわらず、無限のままであり、さらに多くの部分が全球から取り除かれても、それによって魂についての我々の観念を少しも増大させたり肯定的に決定したりすることはないのである。したがって、これらの判断は、その論理的範囲に関しては無限であるが、その認識の内容に関しては、単に制限的である。その結果、判断における思考のすべてのモメントに関する我々の超越的表において、それらの判断によって行使される理解の機能が、おそらくその純粋なアプリオリ認識の分野において重要である可能性があるため、場所を与えられる資格がある。



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■27399 / inTopicNo.20)  Re[17]: 日記
□投稿者/ pipit -(2022/11/08(Tue) 20:44:35)
    まだ読んでないよー

    散歩に行くと月が欠けて赤茶っぽかったよ
    U・x・U

    ワンくんはみてないな、多分。☆彡

    ♪Qeiru-Haze

    https://youtu.be/x0bFRsmmloM
引用返信/返信 削除キー/
■27394 / inTopicNo.21)  日記
□投稿者/ pipit -(2022/11/08(Tue) 18:29:06)
引用返信/返信 削除キー/
■27387 / inTopicNo.22)  B96
□投稿者/ pipit -(2022/11/07(Mon) 23:11:47)
    No27386
    > (pipit感想)
    判断表No27343を提示したカントは、この区分は論理学知ってるみなさまになんかちょっと違うって思われるかもォ、と、なぜその区分にしたのかなどを自分で注釈していくみたいです。<

    このカントによる註釈は、1.2.3.4.と四つあります。
    1.量について
    2.質について
    3.関係について
    4.様相について
    です。
    カテゴリーの区分ですね。

    まず、1.量について
    (カントの時代の)論理学では、理性推理においては単称判断と全称判断は同様の扱いができると主張されるが、それは(理性推理においては)正しい。
    だが、その判断を、単なる認識において比較すると、判断対象の数としての【量】という観点からは同様ではなくそれぞれの地位を持つ。

    という註釈内容みたいです。

    今日は終わりかな?
    おやすみなさい!
    (( _ _ ))..zzzZZ

    散歩に行くとワンくんにくっつき虫いっぱいくっつくよ 
    U・x・U

    ♪ Qeiru-世界線第二ターミナル
    https://youtu.be/Q9AqWwbTvWc
引用返信/返信 削除キー/
■27386 / inTopicNo.23)  B96
□投稿者/ pipit -(2022/11/07(Mon) 22:40:29)
    2022/11/07(Mon) 22:43:17 編集(投稿者)

    みなさまこんばんは!

    こんじょおぉ
    一行だけでも!

    No27289
    No27343
    の続きです。

    Meiklejohnさん英訳
    As this division appears to differ in some, though not essential points, from the usual technique of logicians, the following observations, for the prevention of otherwise possible misunderstanding, will not be without their use.

    DeepL日訳
    この区分は、本質的な点ではないが、論理学者の通常の手法と異なる部分があるようなので、起こりうる誤解を防ぐために、以下の考察が役に立たないということはないだろう。

    ------------------
    (pipit感想)
    判断表No27343を提示したカントは、この区分は論理学知ってるみなさまになんかちょっと違うって思われるかもォ、と、なぜその区分にしたのかなどを自分で注釈していくみたいです。

    うぅ、もう少しがんばる?

    次の箇所チラっとみまして、、、
    『外延』という用語がよくわからないな。。。

    wikiに、
    『内包と外延』という項目がありました。

    『内包(Intension)はある概念がもつ共通な性質のことを指し、外延(extension)は具体的にどんなものがあるかを指すものである。これらは互いに対義語の関係をもつ。』
    『内包はある記号(言葉)が意義とする、対象に共通な性質のことであり、外延は記号の指す具体対象のことを指す[1]。また、外延と内包は各々、概念の外側か内側かという意味合いを持っている[2]。例えば「芸術」という言葉は、「自己表現」「人間活動」などの属性を内包とするのにたいして、「演劇」「音楽」「絵画」「彫刻」「文学」などの非属性を外延として指す[1]。
    すなわち「芸術」を内包的定義で表すと「芸術とはさまざまな方法で自己表現を行い、美的な価値を創出する人間活動」のようになり、外延的定義は「芸術とは演劇、音楽、絵画、彫刻、文学などのこと」となる。外延的定義ではすべての例をあげることは大抵困難なので、などのような言葉を用いて具体例を途中で打ちきることが多い[3]。
    集合の記号で書くと、内包は「芸術」を、
    「芸術」=「自己表現」∩ 「人間活動」 ∩ ...
    のように積集合で規定する。「芸術」は右辺の諸概念の内包(すなわち特殊化)として表される。一方、外延は「芸術」を、
    「芸術」=「音楽」 ∪ 「絵画」 ∪ 「彫刻」 ∪ 「文学」 ∪ ...
    のように和集合で規定する。「芸術」は右辺の諸概念の外延(すなわち一般化)として表される。
    「内包」と「外延」という概念は通常互いに対義語の関係である。ただしその定義については哲学者によってより限定したものとなることもある。また、内包は志向性(Intention)との関連で論じられることが多い。』

引用返信/返信 削除キー/
■27366 / inTopicNo.24)  御子柴先生の本からの引用
□投稿者/ pipit -(2022/11/06(Sun) 15:01:56)
    No27359の日記内容に関連するのかな、と、思う御子柴善之先生の解説文章を引用します。

    『カント哲学の核心『プロレゴーメナ』から読み解く』御子柴善之先生、NHKブックス、p155-157

    『ア・プリオリな総合的判断はいかにして可能か---その答え

     もっとも、私たちが忘れてはならないのは、知覚の継起を原因と結果という概念で結合する場合、原因は結果に対して時間的に先行しなくてはならず、その点で、これらの概念による結合が時間を前提していることである。そうすると、こうした概念は、「物一般」について妥当するのではなく、あくまで時間という形式において与えられる現象に妥当するに過ぎないことになる。(「物一般」という概念には、現象としての物のみならず、物それ自体もまた含まれる。)この点をカントは§30の冒頭で次のように記している。

       したがって、純粋悟性概念も、もしそれが現象の諸対象のもとを
       去り、物それ自体(ヌーメノン)に関係づけられようとするなら
       まったく何の意義ももたない。純粋悟性概念は、いわば現象を判
       読して経験として読むことができるようにするためにのみ役立つ
       のである。(Ak312-313.中公99.岩波129)


     純粋悟性概念は、そしてそれに基づく純粋悟性の諸原則も、感性の及ぶ世界(感性界)における経験使用に役立つに過ぎない。これがヒューム問題を克服したカントの提示する主張である。
    あれれ、ア・プリオリな総合的判断の問題は、形而上学の問題だったのではないですか、カントにとってヒューム問題とは形而上学の可能性の問題だったのではないですか、そう思った読者もいるだろう。ヒューム問題を克服するために、ア・プリオリな純粋悟性概念を取りだし、それに基づいて真の自然法則である純粋悟性の諸原則を提示したのに、それを使用できるのが感性界に限定されるのだとしたら、形而上学の可能性は閉ざされてしまうのではないだろうか。それでもカントは次のように明確にまとめている。

       さて、以上のことから、これまで探求してきたすべてについて、
       以下のことが帰結する。
       「すべてのア・プリオリな総合的原則は可能な経験の原理に他な
       らない」、また、決して物それ自体に関係づけられることはでき
       ず、経験の対象としての諸現象にしか関係づけられ得ない。
       (Ak313.中公100.岩波131)

     カントもここに明記しているように、これは「いかにしてア・プリオリな総合的判断は可能か」という問いに導かれてきた、これまでの探求のすべての結論である。すなわち、純粋自然科学を可能にする純粋悟性の諸原則はたしかにア・プリオリな総合的原則であり、ア・プリオリな総合的命題として表現される。しかし、それは可能な経験の原理に他ならないのである。縮めて言えば、ア・プリオリな総合的判断は経験を可能にする原理としてのみ可能なのである。したがって、それは経験の諸対象の領域である現象界(感性界)を越え出ることができない。ア・プリオリな総合的判断を含む、純粋数学も純粋自然科学も現象界を越え出ることはできないのである。これはもう、従来型の独断論的形而上学の不可能宣言に他ならない。』
    引用終了

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