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■27131 / inTopicNo.85)  Re[16]: もじばけ
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/10/21(Fri) 19:57:13)
    やっぱ
    No27130のももじばけしてるところがある。

    「→」、「⇒」はok。
    で、
    「↔」は「↔」
    「⟺」は「⟺」
    ん〜ん、「&#」「;」は共通してるね、問題はその後の数字みたいね。
    じゃ、
    「⇔」「⟸」「←」「⇒」「⊂」は?

    ちょっと、コンピュータ?と遊んでま〜す。

引用返信/返信 削除キー/
■27130 / inTopicNo.86)  Re[15]: 哲学ってなあに?語の意味「現象」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/10/21(Fri) 19:32:26)
    もう一度、

    No27128 のつづき整理([(独)Phanomen]のaの上の・・は省略)
    (a)[(独)Erscheinug]⇒[(英)apparition]
    (b)[(独)Phanomen]⇒[(英)phenomenon]  ⟸[(ギ)phainomenon]
    ってなって、(a)(b)のこの両方の語はともに日本語で「現象」って訳される、って見たんだけど、

    No27129から、
    「現象学」では、両語を異なる日本語で訳し分けてる。
    で、
    (a)[(独)Erscheinug]⇒[(英)apparition] ⇒「(日)現出」
    (b)[(独)Phanomen]⇒[(英)phenomenon]⟸[(ギ)phainomenon] ⇒「(日)現象」
    そして、
    (c)[(独) Phanomenologie]⇒ [(仏)phenomenologie]⟺ [(英)phenomenology]⇒「(日)現象学」
       (独)のaの上の・・と(仏)の上のチョンは省略
    で、
    (c)は(b)の学。

    わたし、こうすることにした。

引用返信/返信 削除キー/
■27129 / inTopicNo.87)  Re[14]: 哲学ってなあに?語の意味「現象」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/10/21(Fri) 18:52:56)
    なんか
    No27128の、もじばけしちゃってるところある。
    矢印の一つなんだけど、じゃ、これはどうかな?「↔」、試しに。
    ま、たいした問題じゃないから、ほっとくけど。

    最後に、資料として、「現象学事典」のを書き写しておきます。

    (資料4)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    現象 [(独)Phanomen(仏)phenomene(英)phenomenon ]((仏のeの上のチョンと独のaの上の・・は省略)
     一般的には、われわれに現れてくるものごと、感覚的な知覚に現れてくるものごと、われわれの主観的な観念の相関者としての現れを意味するが、現象の学としての現象学においてその意味を変容されて重要な位置を占める概念となった。現象学は「事象そのものへ」というモットーに従って、われわれの経験の無偏見的な記述を追求する。現象学的には経験に直観的に与えられる現象は、たとえば本質と現象といった関係において捉えられる場合に見られるように、現れないものごとをその背後に隠す表層的出来事ではなく、事象そのものを「身体をそなえて」われわれに提示している。経験において現象としてそれ自体をわれわれに与えてくれる対象や世界は、自然的態度においては暗黙のうちに自体的に存在するものとして前提されてその真の現れにおいて捉えられていないのであるから、その制約性を乗り越え、それが与えられてくるその現れにおいて独自の方法論的態度をもって分析することが現象学的仕事となる。
     フッサールにとって経験されたものごとは、それが存在するか否かの判断を差し控えられ、その判断に関与することなく方法的に中立的に変容された純粋なノエマ的意味としての現象となる。このような方法的手続きを経てはじめて事物の総体ないし事物の地平としての世界が現象として己れを露わにしてくることとなる。彼にとって現象学的分析の原理は、われわれに直観において原的に提示されてくる限界内においてのみ、そのまま受け取ることである。現象概念をさらに展開したのはハイデガーである。それによると、現象学的意味での現象とは「己れを己れ自身に即して示すもの、露わなもの」という意味をもち、見せかけのものとして仮象(Schein)と、己れ自身を示さずに間接的に告げるものないしは己れを告げつつ隠れた他のものを暗示するものとしての現出(Erscheinung:現出は、現象という意味をもつ)からは区別される。現象学とは、「己れを示すものを、それが己れを己れ自身から示すとおりに、己れ自身のほうから見させる」ことであるから、優れた意味で現象といわれるものは、さしあたり大抵は隠れているが、己れを示すものに本質的に即するもの、存在者の存在である。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    (資料5)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    現出 [(独)Erscheinung]
     一般的に“Erscheinung”は「現象」の意味で用いられるが、現象学においては哲学者により異なる意義において語られる。ブレンターノにおいて現出は、(1)あるものがあらわれでること、(2)現れ出るあるものとしての志向的内在的な客観、(3)心的現象に対応する外的な客観、という多義的な意義を与えられる。フッサールの場合においても多義的な用法が見られ必ずしも明確ではないが、すでに彼は『論理学研究』において現出の概に、(1)直観や想起のような、そこにおいて対象が現れ出てくる具体的な体験(例、目の前にある明かりの体験)、(2)直観されて現れてくる特定の対象(眼の前に現れている明かり)、(3)誤った用法では、(1)の意味で現出の実的な部分、とくに色、形などの体験された感覚内容、を区別する。現象学的には、対象は体験の志向的対象としてノエマ的に思念された統一的な意味現象にほかならないから、現出概念において重要なのは、現出と現出するものとの相違、ノエシス的な作用的統一とノエマ的な意味成素の相違である。ハイデガーは存在論的な問題提起にもとづき現象概念と現出概念とを区別し、後者は前者の意味をもつこともあるが、述語的には後者を、おのれを示さずに間接的に告げるものないしはおのれを告げつつ隠れた他のものを暗示するもの、の意味で用いる。現出は有限な認識の対象としての存在者であり、存在者の「現出」(対象Gegenstand)および「物自体」(Ent-stand)としての二重の特徴づけは、存在者を有限な認識と無限な認識とに関係づける、伝統的な形而上学の二様のやりかたに対応している、とする。ヤスパースは現出を、客観化する意味での「現象における客観的基体」と、実存的意味における「暗号における即自存在の超越」、「絶対的意識を確信する実存」へとくべつする[『哲学』21]。
     その後の現象学の展開の中で、とくに後期ハイデガーの思索をうけながら、「現出論」が現象学の中心的問いの一つとなった。現出と現出するものとの間に成り立つ差異と自同の事態を、存在者として自らを顕わしつつも退き隠れる存在への問いとして思索してゆくものである。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    これで資料の提出は終わりで〜す。

引用返信/返信 削除キー/
■27128 / inTopicNo.88)  Re[13]: 哲学ってなあに?語の意味「現象」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/10/21(Fri) 18:29:46)
    ここでちょっと整理。

    外国語と日本語の関係をネットで調べて見たよ。

    (1)「(日)現象」をドイツ語に翻訳すると、
    [(独)Erscheinug]と[(独)Phanomen](aの上の・・は省略してます)、の二つが出てきた。

    (2)「(日)現象」を英語に翻訳すると、
    [(英)phenomenon]

    (3)(1)のドイツ語を英語に翻訳すると(この逆も同じだったから)
    [(独)Erscheinug]⟺[(英)apparition]
    [(独)Phanomen]⟺[(英)phenomenon]

    (4)[(独)Erscheinug]を日本語に翻訳すると、
    ⇒外観/外見/出現/現れ/現象/幻/風貌/幻影

    (5)[(英)apparition]を日本語に翻訳すると、
    ⇒姿を見せる[現れる]こと/出現/〔現れた〕姿、形、もの/〔超自然的な〕幻、亡霊、幽霊/《天文》出現

    (6)[(独)Phanomen]を日本語に翻訳すると、
    ⇒現象/事象/珍事/大事件/天才/鬼才/第一人者.

    (7)[(英)phenomenon]を日本語に翻訳すると、
    ⇒〔経験した〕事実、現象、出来事/〔不思議な〕出来事、現象、事象、事件/奇才、逸材、驚異的な人/《哲学》現象/《物理》現象

    で、日本語で「現象」の意味を調べたのが、
    No27124

    なんかごちゃごちゃしてるけど、まちがえないように、って。
    語の関係を整理して見ると、

    [(独)Erscheinug]⟺[(英)apparition]
    [(独)Phanomen]⟺[(英)phenomenon]

    あと、[(ギ)phainomenon]を加えて、字が似てる方に入れて、

    (a)[(独)Erscheinug]⟺[(英)apparition]
    (b)[(独)Phanomen]⟺[(英)phenomenon]  ⟸[(ギ)phainomenon]

    でいいかな。

    外国語では(a)(b)はいちおう区別されてると思うんだけど、日本語では両方とも「現象」になっちゃう?
    もしそうだとしたなら、日訳語を見るとき、どちらの語が使われてるか一応確認しといた方がいいかも。

    No27106の中島さんのから、
    *〔“Erscheinung”も“Schein”も「現れ」であって、ここに真偽ないし正誤の問題はもともと入っていない。〕
    から、
    [(独)Erscheinung][(独)Schein]⇒「現れ」

    *〔カントは、仮象を「誤った現れ」という意味に限定した〕〔それは「錯覚」とほぼ同義であり〕
    から、カントにおいては、
    [(独)Schein]⇒「誤った現れ(錯覚)」⇒「(日)仮象」

    *〔現象は、カントにおいては積極的に経験内の「真の現れ」という意味を受け持つことになる〕
    なんだけど、ここに出てくる〔現象〕っていうの、[(独)Erscheinug]なのか[(独)Phanomen]なのかが分かんない。
    中島さんは最初の方で、〔ドイツ語における「現象」(Erscheinung)〕っていってるから、もしこの語でのことなんだとしたら、
    [(独)Erscheinung](現象)⇒経験内の「真の現れ」
    っていうことになるけど、ここんとこよく分かんない。

    あと、日本語の「現象学」を調べたら、
    「(日)現象学」⇒[(独) Phanomenologie](aの上の・・は省略)
    「(日)現象学」⇒[(仏)phenomenologie](eの上のチョンは省略)
    「(日)現象学」⇒[(英)phenomenology]
    ってあったから、どちらも(b)の学、ってしておいてよさそう。

引用返信/返信 削除キー/
■27124 / inTopicNo.89)  Re[12]: 哲学ってなあに?語の意味「現象」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/10/20(Thu) 19:02:40)
    今日は「コトバンク」からの、一部コピー。
    ドイツ語の[Phanomen]のaの上には‥がついてるんだけど、省略します。

    (資料3)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    現象  Phanomen(独) Erscheinung(独) phenomenon(英)

    A.日本大百科全書(ニッポニカ)「現象」の解説
    形式的にはわれわれの意識主体に現れている事実一般をいう。しかし現れている「すがた」がどうとらえられるかによって、現象はさまざまな意味をもつ。
    (1)知識の対象となるすべての経験的事実を意味し、自然現象、社会現象、心的現象などといわれる。
    (2)「或(あ)るものの現れ」として、それが現れることによってそれ自身とは別のあるものを指示する。たとえば煙という現象は火を指示している。火の存在は「火の現れ」としての煙という現象を通して知ることができる。
    (3)仮象としての現象。現象が本質と分離・対立させられ、現象は本質、真の実在を覆い隠すものとされる。現象のうちにはいかなる真理もないとされ、本質、真の実在は現象を通して((2)のように)ではなく、仮象としての現象を取り除くことによって認識される。
    (4)カントにおける現象。現象と本質との区別という枠組みを前提し、しかし(3)と異なり本質そのものの認識は原理的に不可能であるとされる。カントにおいて人間が認識できるのは、直観形式である時間・空間とカテゴリーによって秩序づけられた現象のみである。現象は単なる仮象ではなく経験的実在である。物自体はけっして認識されえない。
    (5)現象と本質との統一。ヘーゲルにおいて現象こそが本質を示すのであり、すべての本質は現象する。絶対者自身が現象することがヘーゲル哲学の根本をなしている。
    (6)現象学における現象。ハイデッガーはギリシア語phainomenonに立ち返り、現象を「自己をそれ自身に即して示すもの」とした。現象はその背後にけっして現象とはならない本質を隠しているのではないが、現象がさしあたり隠蔽(いんぺい)されていることはありうる。現象学はその覆いを取り除き、現象を開示することをその課題とする。ハイデッガーにおいて、現象学の現象は存在者の存在であり、存在論は現象学としてのみ可能である。[細川亮一]

    B.ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「現象」の解説
    ギリシア語の phainomenonに由来し,「現れ」ないし「現れるもの」の意。ギリシアでは現象は感性的認識の対象と考えられ,ヘラクレイトス,プラトンでは存在それ自体とは区別され,パルメニデスなどエレア派では消極的な形で存在自体と区別されたが,アリストテレスでは現象界とイデア界との二元論は否定され,一元論の立場が取られた。カントでは現象は時間,空間内に現出し,悟性形式としての範疇によって構成される可能的認識の対象であり,物自体は英知界の対象として認識不可能なものとされた。ヘーゲルでは世界は絶対的精神の弁証法的展開として考えられたが,しかし現象を離れて絶対者はありえないとされた。 E.フッサールでは現象は意識の相関者であり,現象学的還元による超越論的意識に世界の意味が問われた。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    (A)の(6)は、
    No27096
    No27097
    に書き写したのが、そうだと思う。
    あと、
    (B)に〔ギリシア語の phainomenonに由来し〕ってあるから、
    No27096にある「ファイノメノン」っていうのはこの語のことだと思う。

    人によって日本語(あるいは外国語の)の「現象」っていう語の意味はいろんなふうにあるみたい。
    わたしのどうしようかな〜、って感じ。

引用返信/返信 削除キー/
■27106 / inTopicNo.90)  Re[11]: 哲学ってなあに?語の意味「現象」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/10/19(Wed) 18:37:42)
    中島義道さんの「現象・表象」の。
    No26793に前に一部書いたけど、このさいだから、全部書き写しておきます。

    (資料2)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・

    現象・仮象     中島義道

    現象と仮象という両概念は、哲学的にはカントの時代まで正確に区別されることはなかったが、それも当然である。なぜなら、ドイツ語における「現象」(Erscheinung)には「真」という意味が含まれておらず、また「仮象」(Schein)も「仮」という意味を特に担っていないからである。“Erscheinung”も“Schein”も「現れ」であって、ここに真偽ないし正誤の問題はもともと入っていない。ドイツ語では成績表も紙幣も身分証も“Schein”と呼ぶ。これらは「誤った現れ」ではなく、むしろ何ものかの「真の現れ」なのだ。こうした文脈において、カントと彼の同時代人ランベルトとを比べると、両概念がまったく異なった方向に彫琢(宝石などを加工研磨すること、詩や文章を推敲し立派なものにすること、美しく磨き上げる)されてゆくのを看取(見てそれを知ること、観取)できて興味深い。その後ヘーゲルやフッサールの現象学における現象概念も、また両解釈の間を揺れ動いていると言えよう。

    仮象の両義性
    ランベルト(1728-1777)は「現象学」(Phänomenologie)という用語をはじめて使用したとされるが、彼の現象学とは「仮象の学」にほかならない。この場合、仮象という概念に「真」に対する「偽」という意味合は含まれていない。仮象とはあくまでも真偽以前の「中間物」であり、何ごとにせよ見えるがまま・現れるままの事柄であって、これはドイツ語の“Schein”の意味を忠実に保っていると言えよう。こうした基本的態度のもとに、彼は「超越的仮象」「生理的仮象」「道徳的仮象」「病理学的仮象」「天文学的仮象」等々詳細な分類を施している。彼のプランは、こうした見えるままに記述する「仮象の言語」と、物に即した「物理学の言語」との間に翻訳規則を作ることであった。
    カントはこのランベルトの構想を一部引き受け、『純粋理性批判』をはじめ『現象学』というタイトルにしようとしたほどほどである。しかし、この構想をカントは大きく変容させ、仮象を「誤った現れ」という意味に限定した。それは「錯覚」とほぼ同義であり、広く主観的にそう見える(思われる)ものを客観的だと誤って判断するときに生ずるものである。仮象には経験的仮象と超越論的仮象がある。前者は、昇る月の大きさを対象としての月の大きさと錯覚するとき(月の錯視)や、岸の上に海が見えると、対象としての海が対象としての岸より上にあると判断するときなどに生ずる。そして、後者こそカントがもっとも注目したものであり、理性そのものが有する本性であって、本来可能な経験の範囲内で有効なカテゴリーを、経験を超える領野にも使用し、「世界全体の量は有限あるいは無限である」「魂は実体(不滅)である」「神は存在する」等々の誤った結論を導き出してしまうことである。
    こうした変容の過程で、ランベルトにおいては特に積極的な意味を持っていなかった現象は、カントにおいては積極的に経験内の「真の現れ」という意味を受け持つことになる。現象と仮象との区別は、とりわけ『自然科学の形而上学的原理』の第4章「現象学の形而上学的原理」において鮮明である。カントは互に等速度直線運動する二つに物体A,Bについては、ガリレイの相対性原理をそのまま認めて、どちらかが真のつまり実在的な運動であるわけではないと言う。両者ともに、可能的運動として等価なのである。しかし、円運動のように実在的な力が実在的な力が加わるような等速度運動においては、力が実在的であるがゆえに、そこには真の実在的運動が成立している。その場合、円運動の上に座標を組むと、その座標においては外界の運動は反対の方向の円運動として知覚されるであろう。しかし、もしそれを真の実在的運動であるとみなすなら、そのときはじめて「仮象」が生ずるのである。言い換えれば、そう見なさないとき、円の外の観察者にとっての円運動も円の上の観察者にとっての反対方向の円運動も、ともに現象である。同様にして、互いに等速度直線運動する二つの物体A,Bの上にある自分自身の運動も相手の運動も現象である。

    現象の両義性
    だからカントの場合、実は現象は二義的である。運動学のようなカテゴリーを適用した客観的妥当世界のみが現象であるわけではない。もうひとつ、夢や幻おみならず、私の目や耳に触れるある印象や私の舌に感じられる味わいや、私の手に触れる感触等々、いわゆる主観的現象もまた現象である。それらは「誤り」であるわけではなく、ただ主観的妥当性をもつにすぎないだけである。こうした現象はランベルトの「中間物」として仮象に近づいており、また偽と判断されたわけではなく真偽以前の「現れ」である。これら主観的妥当性を持つにすぎないものをいかに捉えるかが、カントの現象理解の鍵とも言える。カントは『プロレゴメナ』で主観的妥当性のみを持つ知覚判断と客観的妥当性を持つ経験判断の区別を推し進め、主観的妥当性の領野を確保しようとしたが、それはうまく超越論的観念論の体系の中におさまることはなかった。カントは『純粋理性批判』第2版に至って外的経験と並ぶ「内的経験」という概念を彫琢したが、これも経験であるかぎりすでに客観的妥当性を持つ。つまり、私に具体的に現れている現象をそのまま記述するとき、その現象記述はいかなる位置を占めるか、それがカントでは難問として残されているのである。

    現象と表象
    また、現象については、しばしば「表象」という概念との異同が問題となる。その使われ方は混乱しており、現象が表象と同義であったり、また、表象が特に単なる主観的妥当性しかもたないような現象を意味することもある。日本語では区別がはっきりしないが、ドイツ語の“Erscheinug”(現象)と“Vorstellung”(表象)との区別は明確であり、前者は何ものかの現れという自動詞の名詞化であるが、後者は私が私の前に何ものかを立てるという他動詞の名詞化である。前者は物理現象とも心理現象とも言うように語自体に存在論的な限定はないが、後者は私が私の前に立てるものであり、その操作の限り「ある」という主観的存在の色合いが濃厚になる。ショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』の冒頭で「世界は私の表象である」と宣言するが、こう語ることによって彼は、世界は何ものかの「現れ」であると言いたかったのではなく、私が私の前に立てるものにすぎない、したがって私を離れて無かもしれない、と言いたかったのである。
    カントにおいては、表象は物自体との対比で図式的に使用されている。私に現れる世界(現象)はそれ自体として存在するもの(物自体)ではなく、私の思考と直観との協同によって構築したもの(表象)だ、というのがカントにおける両概念の基本的な使用法である。つまり、表象は特に物自体の絶対的実在性というあり方に対する「超越論的観念性」というあり方を強調するときに使われる。

    カント以降
    ドイツ観念論は、ヘーゲルによる「意識の経験の学」を含み、科学的認識をことごとく取り入れた正しい現れ(=現象)と誤った現れ(=仮象)という、カントの現象と仮象の区別をほぼ侵襲している。だが、フッサールによる「現象学」は、現象とう地平を獲得する方法論を洗練させながら。「Schein=現れ」すなわち「中間物」であるというランベルトの視点から取り戻している。カントにおいて現象はわれわれには未知の物自体の「現れ」として捉えられているが、現象学において現象とはわれわれに未知のXが「現れる」ことではない。それは、われわれにみずからをその通りに告知する作用である。現象学にとって、現象と現象の背後世界との関係が問題なのではなく、むしろいったんあらゆる(物理学のような)事実学を遮断してこうした「現れ」の世界を記述し、次にこうした現象学による事実学への関係づけが問題なのである。これは、仮象の言語と物理学の言語との関係を求めるというランベルトの構想に沿っている。すなわち、カントが物理学のうちに認められるア・プリオリな総合判断をみずからのうちにも含むような学としての形而上学を目指すのに対して、フッサールはむしろ物理学などの事実学を徹底的に排して、「現れ」に戻ることにより開かれる現象学的地平を目指していると言えよう。
    ・・・・・・・・・・・・・・・

    中島さんのは以上で全部で〜す。

    〔ドイツ語の“Erscheinug”(現象)〕ってあるから、
    [(独)Erscheinug]⇒「(日)現象」
    っていうことになるのかな。

引用返信/返信 削除キー/
■27097 / inTopicNo.91)  Re[10]: 哲学ってなあに?語の意味「現象」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/10/18(Tue) 18:48:49)
    No27096のつづきで〜す。

    **************************
    P75たとえ「現われること」が現象という意味での自己示現ではなく、またけっしてそうではないにしても、それでも現れるということは、或るものの自己示現という根拠にもとづいてのみ可能なのである。しかしこの自己示現は、現れることをいっしょに可能にするものではあっても、現われること自身ではない。現れることは、おのれを示す或るものをつうじて、おのれを告げるのである。そうだとすれば、「現われ」という語でもってわれわれが指示しているのは、或るものがそこで現れていながら、それ自身は現われであることのない或るもののことだと、そうひとが言うなら、このことで現象という概念が限界づけられているのではなく、前提されているのだが、しかしその前提は隠蔽されたままなのである。というのは、「現われ」のこうした規定においては、「現われる」という表現は二重の意義に使用されているからである。或るものがそこで「現われる」当のものとは、或るものがそこで己を告げるということ、言いかえれば、おのれを示さないということにほかならない。しかも、「それ自身は『現われ』であることのない」という言い方においては、現われはおのれを示すことを意味している。だが、こうした自己示現は、或るものがそこでおのれを告げる当の「場」に、本質上属しているのである。したがって現象は、けっして現われではないが、あらゆる現われはたしかに現象に依拠している。ひとが現象を「現われ」という、かてて加えて不明瞭な概念の助けをかりて定義づけるなら、一切が無茶苦茶になってしまい、だから、こうした地盤にもとづいて現象学に対してなされる「批判」が奇妙な企てであることは、言うまでもないのである。

    P76「現われ」という表現は、それ自身これまた二重の意義をもつことができる。すなわち、第一には、おのれを告げはするが、おのれを示さないという意味での現れるということであり、第二には、告げるもの自身のことである――ただし、この告げるものは、このものがおのれを告げることのうちで、おのれを示さない或るものを暗示するのである。さらに最後に、ひとは、現れることを、己を示すこととしての現象という真正の意味をあらわす名称として、使用することがある。ひとがこうした三つの異なった事態を「現われ」として表示するなら、混乱はさけられなくなる。
    だが、こうした混乱は、「現われ」がもう一つ別の意義をおびることができることによって、さらに本質的に高まる。告げるものは、あらわではないものをおのれの自己示現において暗示するのだが、こうした告げるものを、ひとが、それ自身あらわでないものに即してあらわれ出てこのものから放射してくるものだと解し、しかも、このあらわではないものが、本質上けっしてあらわにならないものだと考えているときには――現われは、外へ生みだすこと、ないしは外へと生みだされるものと同然のものを意味することになり、ただし、この外へと生みだされたものは、外へと生みだすものの本来的存在をなすものではないことになる。すなわち、それは「たんなる現われ」という意味での現れにほかならない。外へ生みだされた告げるものは、なるほどおのれ自身を示しはするが、ただしそのとき、この告げるものは、おのれが告げる当のものの放射といて、このものをまさしく不断におのれ自身に即して遮蔽するというふうに、おのれ自身を示すのである。しかし、このように遮蔽しつつ示さないことは、これはこれで仮象ではない。カントは現われという術語をこうした繋ぎ合わせにおいて使用している。現われとは、カントにしたがえば、一つには、「経験的直観の対象」、つまり、経験的直観においておのれを示す当のもののことである。この己を示すもの(真正の根源的な意味での現象)は、それを同時に、おのれを現われにおいて秘匿する或るものから放射して告げることとしての「現われ」でもあるのである。

    P77「現われ」が、おのれを示すものをつうじておのれを告げるものという意義のものであるときには、そうした「現われ」にとっては現象というのは構成的であっても、しかしこの現象が仮象へと転化して欠性的なものになりうるのであって、そのかぎり現われもまたたんなる仮象になりうる。特定の照明をうければ誰でも、赤らんだ頬をしているかのように見えるのだが、おのれを示すそうした赤らみは、熱が実際にあることの告知だと解されることもできるのであって、それ自身としては、さらにはまた身体に障害があることを暗示するのである。

    P78現象――おのれをおのれ自身に即して示すこと――は、或るものが出会われるときの或る際立った様式を意味する。これに対して現われは、存在者自身のうちに存在している指示関連にほかならないのだが、しかもそれは、指示するもの(告げるもの)がおのれの可能的な機能を果たしうるのは、その指示するものが、おのれをおのれ自身に即して示すとき、つまり、「現象」であるときだけであるというふうな指示関連なのである。現れと仮象とは、異なった仕方においてそれ自身現象のうちに基礎づけられている。「諸現象」は、現象、仮象、現われ、たんなる現われといった名称で呼ばれているのだが、そうした「諸現象」の混乱した多様性がその混乱からまぬがれうるのは、現象という概念が、おのれをおのれ自身に即して示すもののことだと、初めから解されているときだけなのである。

    P78現象概念がこのように解されたとしても、いかなる存在者が現象とみなされるのかが規定されないままであるなら、だからまた、はたしておのれを示すものは、そのつど、一つの存在者であるのか、それとも存在者の一つの存在性格であるのか、そもそも未解決のままであるなら、もっぱらえられているのは形式的な現象概念にすぎない。だが、おのれを示すものが、たとえばカントの意味で経験的直観を通じて近づきうる存在者のことだと解されるなら、このさいには、形式的な現象概念は正当に適用されるにいたったのである。このように使用されたときの現象は通俗的な現象概念の意義をかなえている。しかし、この通俗的な現象概念は、現象の現象学的な概念ではない。カント的な問題性の地平のうちでは、現象学的に現象と解されているものは、その他さまざまな相違を保留すれば、次のように例示されることができる。すなわち、現われにおいて、つまり、通俗的に解された現象において、たとえ非主観的にではあっても、そのつど先行的に、また同伴的に、おのれをすでに示しているものは、主題的におのれを示すにいたりうるのであり、そして、おのれをこのようにおのれ自身に即して示すこのもの(「直観の形式」)こそが現象学の現象である、と。なぜなら、カントが、空間はなんらかの秩序がそのうちでみられるア・プリオリな場であると主張するとき、この主張でもってカントが、一つの事象的に根拠づけられた超越論的陳述を要求しているかぎり、空間および時間が、おのれをこのように示しえなければならないことは、つまり、現象になりえなければならないことは、自明であるからである。

    P79ところが、おのれを示すものがどのように立ち入って規定されうるかは別として、現象学的な現象概念が総じて了解されるべきであるなら、そのためには、形式的な現象概念の意味を見ぬき、またこの形式的な現象概念が通俗的な意義において正当に適用されるときの意味を見ぬく洞察は、避けがたい前提である。――現象学の予備概念を確定するに先立って、いかなる意味において現象学がそもそも現象に「ついての学」でありうるのかが判然となるために、ロゴスの意義が限界づけられなければならない。
    **************************

    ハイデガーの「現象という概念」っていうところに書かれたあったのは以上ですべて、で〜す。

引用返信/返信 削除キー/
■27096 / inTopicNo.92)  Re[9]: 哲学ってなあに?語の意味「現象」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/10/18(Tue) 18:46:23)
    まず、ハイデガーの『存在と時間』のなかの「現象という概念」っていうところ。前にタイピングしたのがあるからそれを。
    字数の問題で、2回にわけて貼り付けます。

    (資料1)
    **************************
    A 現象という概念   

    p72ギリシア語ファイノメノンは、「現象」という述語の語源であるのだが、それは動詞ファイネスタイに由来し、この動詞の意味は、おのれを示すということである。だからファイノメノンとは、おのれを示す当のもの、自己示現するもの、あらわなものということである。ファイネスタイ自身は、白日にさらす、明るみに出すという意味のファイノーの中動相(1)である。ファイノーは、ファという語幹に属しているのであって、その点では、光、明るさ、言いかえれば、或るものがそのうちであらわになりおのれ自身に即して看取されるようになりうるものを意味するところのフォースが、このファという語幹に属しているのと同様である。だから、「現象」という表現の意義として堅持されなければならないのは、おのれをおのれ自身に即して示すもの、つまり、あらわなものということである。そうだとすれば、「諸現象」のギリシア語ファイノメナは、白日のもとにあるもの、ないしは明るみに出されうるものの総体であって、このようなものをギリシア人はときとして単純にタ・オンタ(存在者)と同一視した。ところで存在者は、それへと近づく通路も様式に応じて、さまざまな仕方でおのれをおのれ自身のほうから示すことができる。それどころか、存在者が、おのれ自身に即してそれでない当のものとして、おのれを示すという可能性すら成り立つのである。こうした自己示現において存在者は「何々であるように見える」。そうした自己示現をわれわれは仮象すると名づける。そこでギリシア語においても、現象を言いあらわすファイノメノンという表現は、そのように見えるもの、「見せかけのもの」、「仮象」という意義をもっている。ファイノメノン・アガトンとは、善のように見えはするが――しかし「現実には」それが言明しているとおりの善なるものではないという意味である。現象概念をさらにいっそう了解するためには、ファイノメノンの二つの意義として名ざされたもの(自己示現するものとしての「現象」と、仮象としての「現象」)が、その構造からみて、いかにたがいに連関しあっているのかを見てとることに、一切がかかっている。或るものが、総じてその意味から言って、おのれを示すと、言いかえれば。現象であると言い張るかぎりにおいてのみ、その或るものは、おのれがそれでない或るものとしておのれを示すこともありうるのであり、「何々であるように見えるにすぎない」こともありうるのである。ファイノメノン(「仮象」という意義のうちには、根源的な意義(現象、すなわち、あらわなもの)が、第二の仮象の意義を基礎づけるものとして、すでにいっしょに含まれている。われわれは、「現象」という名称を、術語的には、ファイノメノンの積極的で根源的な意義に割り当て、現象の欠性的変様としての仮象から現象を区別する。しかし、これら二つの術語が言いあらわすものは、「現われ」とか、それどころか「たんなる現われ」とかと名づけられているものとは、差しあたっては全然なんら関係もない。

    P74それで、たとえば、「病気の現われ」といった言い方がなされる。そのさい指されているのは、肉体に生じた出来事のことであるのだが、このものは、おのれを示していながらも、こうした自己示現するものとして、おのれ自身を示さない或るものをその自己示現において「暗示している」。病気の現われといったような出来事の発生、つまり、そうしたものの自己示現は、なんらかの障害が実際に存在していることを伴っているのだが、その障害はそれ自身おのれを示さないのである。したがって、「或るもの」の現われとしての現われは、おのれ自身を示すということを意味するのではけっしてないのであって、むしろ、おのれを示さない或るものが、おのれを示す或るものをつうじて、おのれを告げるということを意味する。現れることは〔2〕おのれを示さないことなのである。だが、この「ない」は、仮象の構造を規定している欠性的な ない と混同されては、断じてない。現れるものという、まさにそうした仕方においておのれを示さないものは、仮象することもけっしてできない。すべての暗示、表示、症候、象徴は、たとえそれらがたがいにさらに異なっているにしても、現われるということの前述の形式的な根本構造をもっているのである。

    〔1〕「中動相」というのはギリシア語において、能動相と受動相との中間的機能をもち形のうえでは受動相と多くの場合同じだが、能動的な意味をもち、働きが主語に返ってくる再帰的な意味をもった動詞のことである。

    〔2〕著者の自家用本の欄外注記では、本文箇所の「現われることは」に続けて、「この場合には」の語句が補われている。

    **************************

    つづく

引用返信/返信 削除キー/
■27095 / inTopicNo.93)  Re[8]: 哲学ってなあに?語の意味「現象」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/10/18(Tue) 18:45:20)
    さ〜てと、「(日)現象」という語の意味について。
    自称現象学派のわたしとしては「(日)現象」っていう語の意味はちゃんと整理しとかなくっちゃ、てね。

    メルポンの現象学を捉えようとするなかで、いろんなところからタイピングしたのやコピーしたの、資料としてまず貼り付けて見ます。なんか長くなっちゃたので、分けて。

    いまのところの資料は次のよなもので〜す。

    (資料1)ハイデガー『存在と時間』――「現象という概念」
    (資料2)中島義道――「現象と仮象」
    (資料3)「コトバンク」――「現象」
    (資料4)「現象学事典」――「現象」「現出」

    順番はこのとおりにはならないかもだけど。あと途中でやんなちゃったらやめま〜す。

    あ、これ、わたしに分かるようにするための、だからね。この場をかりて。

引用返信/返信 削除キー/
■27080 / inTopicNo.94)  Re[7]: 哲学ってなあに?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/10/16(Sun) 12:28:03)
    あ、ちょっと、

    No27074 のように[idea]を見たなかで、
    No26916のカントの原文の中にある「Idee」は、〈思考の領域――思考的観念(表象)に限られた〉意味としてわたし見ることになった。

    でね、話しが飛ぶけど、小牧さんの「カント」のを、
    No26968
    No26970
    No26971
    に書き写したんだけど、
    そのなかの、No26970 に

    〔思考形式が、それとはまったく無関係に、時・空の形式によってまとめられた感覚素材にどうして適合するか。それが、カントをもっとも苦しめた問題であった。カントはこう考えた。じつは、感性の時間的・空間的形式によって、感覚が整理されてゆくさい、すでに悟性が働いていたのである。〕
    っていうのがある。

    これわたしこう見たよ。
    カントは、〈感性の領域〉に〈思考の領域〉の形式を滑り込ませている。そうすることによって、「自然科学的な先天的総合判断は、いかにして可能であるか」の説明がつくんじゃないか、って考えたんじゃないかしら、って。
    逆に、「自然科学的な先天的総合判断が可能である」ためには、〔感覚が整理されてゆくさい、すでに悟性が働いていた〕のでなければならない、ってしたのかも。

    自称メルポン派のわたしとしては、
    じつは、〈感性の領域〉と〈思考の領域〉は単に隣接してくっついてるんじゃなくて、キアスムしてる(互いに浸食し合ってる)って見てみるのが自然なんじゃないかしらって。

    あ、心にうつりゆくよしなしごと、書きとめておく。

引用返信/返信 削除キー/
■27074 / inTopicNo.95)  Re[6]: 哲学ってなあに?語の意味[idea]
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/10/16(Sun) 09:13:51)
    おはようございま〜す。

    ここんとこ、哲学に出てくる語の意味を調べて、わたしのどうしとこっかな〜、ってい感じのね。

    ここでは、[idea]についてね。

    No26984から、

    人によって[idea]の意味(用法)はいろいろあるみたいだけど、簡単にしちゃうと、

    (1)ideaのもともとの意味は、
     (a)idein(ギ)=見る
     (b)idea(ギ)=見られたもの、姿、形

    (2)「(日)観念」は、「(英)idea」、「(独)Idee」。
    「(英)idea」は、考え/着想/アイデア/発想/思いつき/意見/知識/心当たり/意図/狙い/目的
      「(独)Idee」は、考え/観念/思いつき/着想/理念/思想
    どうやら「idea」は思考の領域の色合いが強い感じだけど、ひとまずわたしのばあい、
    「idea」を日本語で「観念」ってすることにする。

    (3)観念(idea)は、一般的には、大きく分けて、
    (c)感性的表象
    (d)理性的知的表象
    ここに「表象」っていう語使われてるけど、
    No27042 で見たように、
    〔表象⇒(能動的に)私が私の前に何ものかを立てる〕ってしたとき、(c)の表現はヘンだと思うから、表象という語を使わず、「観念」ってする。あと「理性的知性的」を〈思考的〉にかえて、
    「観念(idea)」には一般的に次の二つがある。
    〈c〉感性的観念
    〈d〉思考的観念
    だから、「観念」っていう語が出てきたら、〈c〉か〈d〉のどちらかの意味で使われてる、って見るようにした。
    あと、〈d〉のばあい、表象という語も使える。

    (4)哲学の術語としては、
    〔感性的表象に対立するものとして、知的表象ないしは概念、さらにはその複合体を意味するのが本来の用法である。〕
    ここに〔知的表象ないしは概念〕ってあるけど、
    No26916で見たように、わたし、〔「概念」⇒思考によって類別する・類されたもの〕ってしたんだけど、やっぱ「概念」っていう語も思考の領域に属するものと見ておくことにする。

    わたしが見たところ、「観念(idea)」(とか「概念」)っていうの、今日では一般的に〈d〉の意味に限られて使われていて、ようするに、「思考」の領域に属するものとして使われている感じ。こういうのって、やっぱ“閉じ系”のように思われる。

    わたしのばあい、原初にもどって、(1)の意味としとく。ただ、姿、形は抜かして、
    〈a〉idein⇒見ること
    〈b〉idea⇒見られたもの
    これをひとつとして見て、
    〈p〉idein(見ること)とidea(見られたもの)
    ってしとく。

    ideaの意味を〈b〉ってしたとき、〈感性的観念〉のことのように思われるかもしれないけど、ちょっと違うよ。
    〈idea⇒見られたもの〉というのを、〈感性的観念〉と〈思考的観念〉の間に位置づけてる。
    あと、〈idein⇒見ること〉は、現象学でいう「志向性」に連関してくる気がしてる。

    もっとおおざっぱに見ちゃうと、
    〈a〉は「すること」、〈b〉は「(することによって)されたもの」

    メルポンは(1)から出発して、「見えるものと見えないもの」へと、なんじゃないかな〜?って。

    メルポンの『知覚の現象学』のなかから、いくつか抜粋して見ます。

    【なぜ、現象学がながい間、初歩的な状態にとどまり、問題性と願望の域をでなかったかが、理解されるであろう。】
    【フッサールの未刊の手稿のなかで、哲学者は永遠の初心者であるともいわれている。】
    【現象学は、いつも最初からやり直すという態度で、初歩的な状態にとどまり続けている。】

    こんなのから、わたしもメルポンに倣って、みたいな感じで〈p〉ね。

    まとめ
    (x)一般的に、「idea(観念)」っていう語は、思考の領域――思考的観念(表象)に限られた意味として使われている。
    (y)わたしのばあい、「idea(観念)」は〈idein(見ること)とidea(見られたもの)〉っていうイメージ。

    ひとまず。

引用返信/返信 削除キー/
■27044 / inTopicNo.96)  Re[5]: 哲学ってなあに? 語の意味
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/10/15(Sat) 16:35:02)
    ごめん、まちがっちゃいました。

    No27042で、
    No26949でカントが使ってるのはVorstellungの方だから、〔私が私の前に何ものかを立てる(能動的)〕というような意味で使ってるんだと見たよ。<
    のところのNoは、pipitさまに教えてもらった原文の訳のとのところで、
    No26916でした。
引用返信/返信 削除キー/

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