| 「現象学」については、あまり興味がない人が多そうだから、さらっさらって書いとくことにする。
ハイデガーはギリシア語の「ファイノメノンphainomenon」という語の意味から調べていって、そこから「現象学」における「現象」の意味を考えていった。これって、原初に遡って、っていうことだとわたし見てる。
たしかニーチェは古典文献学から始めた、っていうのどこかで見たような?こういのって、現象学のように〈原初に遡ってそこから始めていく〉っていうの共通してると思う。
メルポンは、
【現象学は、完全な哲学的自覚に到達する以前から、手法あるいは様式として、すでに実行され、認められ、動きとして現存していたのだ、と。現象学はずっと以前から、その道を歩みつつあったのである。その信奉者たちはいたるところに、ヘーゲルやキルケゴールはもちろん、マルクス、ニーチェ、フロイトにもまた、現象学を見出すのである。だが原典を文献学的に註釈したところで、大した成果は得られないであろう。われわれは原典のなかに、われわれがみずからそこに投入したものしか見出さないからである。そしておよそ歴史というものがわれわれの解釈を呼び招いたことありとするならば、まさに哲学の歴史こそ然りであろう。われわれが現象学の統一性とそのほんとうの意味を見出すのは、ほかならぬわれわれ自身のうちにおいてである。大切なことは、典拠を数多くならべることではなくて、われわれにとっての現象学を定着し、客観化することでる。われわれと同時代の読者の多くは、フッサールやハイデガーを読んだ際に、新しい哲学に出会ったとういう感じよりよりは、自分たちが持ち望んでいたものをそこに認めたという感じを抱いたのであるが、こういう感じを抱かせたものこそ、あの、われわれに知られている現象学の諸テーマを、それらが生のなかでおのずと互に結びついていたように、意識的に改めて結びつけてみよう。そうすると恐らく、なぜ、現象学がながい間、初歩的な状態にとどまり、問題性と願望の域をでなかったかが、理解されるであろう。】(『知覚の現象学』)
こんなこと言ってたのを想いだした。
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