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■27641 / inTopicNo.37)  Re[63]: 語の意味−「意味」
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/11/24(Thu) 19:05:10)
    「意味」ってなあなに?
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■27576 / inTopicNo.38)  Re[62]: 話すこと
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/11/19(Sat) 20:33:24)
    いろんなひとが、いろんなところで、なにか、話してる。

    追加ね。

    キリスト教、イスラム教、仏教、それぞれ、キリスト、ムハンマド、ゴータマ・シダルタ、っていう「人のお喋り」っていうことにはかわりないんじゃないかしら?
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■27575 / inTopicNo.39)  Re[61]: 話すこと
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/11/19(Sat) 19:53:36)
    No27574、タイトル入れるの忘れた、「話すこと」ね。

    いろんなひとが、いろんなところで、なにか、話してる。
    っていうの、政治家さんやマスも当然含まれるよ。

    あと、「話すこと」と「話されたもの」の区別において、
    「話されれたもの」が、「おのれを示す当のもの//あらわなもの」であるかどうかはその後の話しになるからね。
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■27574 / inTopicNo.40)  Re[60]:
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/11/19(Sat) 19:33:59)
    わたし「哲学ってなあに?」っていうことで、「語の意味」をいろいろ調べて見てるんだけど、そもそも「語」とか「意味」ってなあに?っていうのも浮かんできてるんね。ん〜ん、それぞれの意味とその関係性(結びつけ)かな?ん?「意味」?
    「意味」の意味?ん〜ん、難、難。これにつてのわたしのはあとにしよっと。

    で、いまは「語る」こと、「言語」について、

    No27452ソシュールの「言語学」、
    「言語活動」において、
    (1)「ラング(言語)」は〔文法〕に関わること。
    (2)「パロール(言)」は〔具体的に発せられた個々の言葉〕。
    って、わたし見たんだけど、よく考えたら(2)の方が先よね。(2)から(3)が導き出されてるんじゃない?って。
    幼児のころにお喋りするようになるけど、そのとき、〔文法〕を教わってからお喋りすることができるようになる、じゃないよね。
    メルポンは「パロール(言葉)」(=具体的に発せられた個々の言葉)において見てる気がする。原初に戻って、っていうことかな。
    わたし、「学者」と「素朴的経験的私」って分けて見てるなかで、学者が語ってることを「学論」ってして、(1)はこれになるのかな。

    「語る」こと、って「話す」こと、もっと原初的に「お喋りする」こと、「言語」、これ「言葉」ってしてもいいよね。

    いろんなところで、いろんなひとが、なにか、お喋りしてるわけよね。ここニークラでも、これしてるわけじゃん?
    ん〜ん、お喋りしたい、って言った方がいいかな。わたしもそのひとりだけどね。

    お喋りする、っていうのは、
    No27469っていうことになるかな。

    あ、注意しとかなくっちゃならないのは、「話すこと」と、それによって「話されたもの」とは区別しとく、っていうこと。現象学で言う「ノエシス」と「ノエマ」かな?

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■27573 / inTopicNo.41)  Re[59]: 語ること
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/11/19(Sat) 18:02:00)
    書き忘れた。
    No27553 について、わたしの見立て、

    (1)フッサールの、【日常の実践的な生活は素朴であり】ってあって、
    No27469で書いたように、メルポンも、
    【世界との、この素朴な触れあいを再発見し、結局はそれに哲学的な資格を与えることに、あらゆる努力を傾注するのである。】とか、【フッサールが、その生涯の終わりに臨んで、現象学の最も主要なテーマとして提起した「自然的世界概念」あるは「生活世界」の、一つの解明にすぎないのだ。】って言ってる。で、「現象学」っていうの、〈わたしのような素朴的経験的私が生きる生活世界のフィロソフィア〉、って見て、「学者(学論)」的なのと「素朴的経験的私」的なのに分けて見た、っていうこと。現象学が見えるようにしようとしてるのは後者の方、だとわたし見てる。

    (2)メルポンのは、
    P304【言葉は正真正銘の身振りである。身振りがその意味を含んでいるように、言葉もまたその意味を含んでいる。】
    から、メルポンは、「言葉」を「身振り」のうちに含めてる、っていうこと。
    わたしの問題は、「身振り」「言葉」そして「意味」の関係なんだけど、これはあとにする。

    P305【日常生活において使用される既成の言語は、明らかに表現の決定的な段階がすでに踏み越えられたこと前提にしている。われわれがこの起源に遡り、言葉のざわめきの下の原初的な沈黙を再発見しない限り、そしてこの沈黙をやぶる身振りを描き出さない限り、われわれの人間考察はいつまでたっても表面的なものにとどまるであろう。言語は身振りであり、その意義は一つの世界なのである。】
    っていうところから、
    大人になった私はふつうに言葉を使ってるけど、それは【明らかに表現の決定的な段階がすでに踏み越えられたこと前提にしている】。もし哲学が「根源」とか「原初」を見ようとしてるんだったら、この前提となっていることを考える必要がある、って言ってるんじゃないかしら。
    フッサールの『デカルト的省察』の訳注に、
    〔フッサールは『論理学研究』においてもこう述べていた。「哲学者はまさに《自明なこと》の背後に最も困難な諸問題が隠れていることをも当然承知していなければなるまい。逆説的ではあるが、しかし深い意味をこめて、哲学とは平凡な事柄についての学であるとさえ言えるほどである」と。〕ってある。
    メルポンが言ってる【前提にしてる】の前提となっていること、これを《自明なこと》となっている、って見ることもできるかも。こういうことから、

    (c)メルポンは、 【この起源に遡り、言葉のざわめきの下の原初的な沈黙を再発見しない限り、そしてこの沈黙をやぶる身振りを描き出さない限り、われわれの人間考察はいつまでたっても表面的なものにとどまるであろう。】ってしてるんだと思う。
    こういうんから、わたし〈言葉のざわめきの下の原初的な沈黙を再発見し、この沈黙をやぶる身振りを描きだすこと〉ってして、これって、乳幼のころのことよね、って簡単に見ちゃってる。

    こう見ると、現象学って、もうすでに大きくなってふつうに生活できてる人にとって「自明なもの」となっていることへと向かうことにはべつに興味ないことなのかもね、って。

    話しがいろんなところに飛んでるけど、わたしが言いたかったのは、
    メルポンは、「言語」も「身振り」のなかに入れてる、っていうこと。あと「振舞い」っていう言い方もしてる。

    わたしもこれに倣って、
    わたしのばあい、〈言語・行為・表情・仕草・生理的変化・何か物を作る〉みたいなのをまとめて「身振り」って呼ぶことにしてる。
    こういうふうに見てるから、「身振り」のなかの「言語」にかぎって言うばあい、「言語的身振り」ってメルポンはしてるみたい。

引用返信/返信 削除キー/
■27572 / inTopicNo.42)  Re[58]: 語ること
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/11/19(Sat) 16:16:09)
    わたし現象学のから、いろんなこと結びつけようとしてるんだけど、
    No27553 に関連して、もう一箇所、想いだしたから、
    メルポンの『行動と構造』から、再掲だけど、
    No16450
    *******************
    人間の意識という問題が決定的な形で論じられるのは、〈知覚〉や〈感覚的なもの〉の段階においてでなければならないのであるが、しかるにハイデガーの言う企投なるものは(『存在と時間』によれば、それがわれわれに現実の理解可能性を与えてくれるはずのものである)、日常的実存の主体が釘を打って物をつくる以上は〈腕をあげ〉、時計を見るからには〈目を向け〉、車に乗って行くからには〈向きを定める〉のだということを、すでにあらかじめ前提しているからなのである。つまり、行動したり身体を動かしたりする機能や知覚の能力が「自明」なものとあらかじめ判断されてしまえば、後は、人間存在が右のようなさまざまの営みを果たしうるというように、なんの問題もおこらない道理であろう。ひとびとが常識の「自明さ」を最後まで問いつめた試しはいまだかつてなかったが、ハイデガーの読者も、われわれの意図している〈世界の記述〉において彼の展開する精細さが、その引きかえに、「つねに−すでに−そこに」あるわれわれの世界*をまったく無視していたのだということに、後になって、やっと気づくというわけである。

    *訳注
    〔フッサールは、この世界を前述語的と名づけ、それを現象学的記述の対象としている。彼は、『経験と判断』のなかでその世界を次のように性格づけている。「環境は、前所与性〔=あらかじめ与えられてあること〕、つまり受動的前所与の領域として、すなわち、われわれがなんの深いかかわりもなく、把捉的まなざしを向けることもなく、なんの関心も目覚めないままのとき、つねに、すでにそこにある前所与性の領域として、同時にそこにあるものである。いかなる認識活動も、個々の対象に向う把捉活動も、すべてこの受動的前所与性の領域を前提としている」しかし、じつはこの前述語的経験は、認識ばかりではなく〈主題〉をもった活動(ハイデガーによれば「として−構造」をあらわす経験にも先行するのである。「世界信念という、この普遍的基底は、生活的実践であれ、認識とう理論的実践であれ、あらゆる実践となるものである」〕

    ****************

    メルポンは、
    【人間の意識という問題が決定的な形で論じられるのは、〈知覚〉や〈感覚的なもの〉の段階においてでなければならない】
    って言ってる。

    人間の「意識」について、現象学のは、
    「現象学事典」の「受動的総合/能動的総合」のなかに、
    〔フッサールにおいて総合は意識の原形式であり、その特徴は「流れ去る多様の統一」と規定される。〕ってあって、人間の「意識」をおおきく二つ、「受動的総合」と「能動的総合」に分節して、〔能動的総合はとくに自我的な作用であるに対して、受動的総合は自我の関与なしにおのずから生じる。その点で、無意識の働きにも比せられる。能動的総合はすべて受動的総合を土台にして行われる。〕って書いてある。
    詳しいことはやめとくとして、たしかカントも、人間の「認識」を「感性」と「悟性」という2つの幹に分節してたみたい。
    わたし「意識(脳の活動)」を見るとき、わたしこういうのに倣ってる。
    わたし「受動的総合」を〈感性の領域〉、「能動的総合」を〈思考の領域〉ってしてる。【〈知覚〉や〈感覚的なもの〉】を〈感性の領域〉ってわたし見てる。
    メルポンのばあい、人間の「意識」を問題とするとき、〈感性的領域〉について論じられなければならない、って言ってるんだと思う。だから『知覚の現象』ってなったのかもね。

    「語ること」で連関してくるのが「訳注」の〔フッサールは、この世界を前述語的と名づけ〕た、ところかな。

    いまは、「語る」こと、「言語」について、これ中心に見てる。

引用返信/返信 削除キー/
■27553 / inTopicNo.43)  Re[57]: 結びつけ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/11/17(Thu) 19:35:23)
    「語る」っていうこと、これって、「言語(言葉)」や「意味」にかかわってくるよね。
    あと、「現象学」、わたしのような素朴的経験的私が生きる生活世界のフィロソフィア、ってわたし見てるんね。
    こういうなかで、
    「What」のところで書き写したのをここでもういちど載せとく。

    フッサールの『デカルト的省察』から、
    No11345
    *********
    …日常の実践的な生活は素朴であり、すでに与えられている世界のなかに入り込んだまま経験し、思考し、価値づけをし、行為している。その際、経験することがもつ志向的な働きはすべて、それによって初めて事実が端的にそこに存在することになるのにもかかわらず、匿名的に行なわれる。経験している者自身は、それについて何も知らない。そこで働いている思考についても、同様に何も知らない。例えば、数、述定的な事態、価値、目的、作品といったものは、この隠れた働きのおかげで、一つ一つ積み上げられて現れるが、経験している者には、これから現れてくるもののみが視野に入る。実証的な諸学においても、事情は変わらない。それらは高次の素朴性であり、賢明な理論的技術によって形成された作品であるが、ただ、それらすべてが究極的にはそこから湧き出ているはずの志向的な働きが、解明されないままなのだ。学問というものは確かに、その理論的な歩みを正当化できることを要求し、いつも批判的吟味に基づいているが、その批判は究極的な認識批判(3)なのではない。究極的な認識批判とは、根源的な働きについての研究と批判的吟味であり、それがもつあらゆる志向的地平を露呈することなのである。…
    訳注(3)
    〔ロックの『人間知性論』からカントの『純粋理性批判』に至る近代哲学の課題は「認識批判」であった。フッサールが現象学的還元の着想を得た頃の覚え書きにも「理性の批判」という語が見られる。〕
    *********

    『知覚の現象学』の「第一部身体」のなかの、「Y表現としての身体と言葉(パロール)」、のところ。
    No27469はこの中の一部を書き写したものだけど、このなかに書いてあるところをもう少し、

    〔思惟は表現である〕と題してあって、その一部を、
    **************
    P304言葉は正真正銘の身振りである。身振りがその意味を含んでいるように、言葉もまたその意味を含んでいる。そしてこのことがまさに意思伝達を可能ならしめるものなのである。私が他人の言葉を理解するためには、もちろん彼の語彙と統辞法とが私にとって「既知」でなければならない。しかしこのことは、他人の言葉の作用が私のうちにそれと連合する「諸表象」を引き起こし、こうした「諸表象」の集まりがついに語り手におけるものとの「表象」を私のうちに再生産するに至る、ということを意味するものではない。私が最初に交信するする相手は「表象」や思想ではなく、語る主体であり、ある一定のありよう(style d’étre)であり、彼がめざす「世界」である。他人の発言を促した意義志向が顕在的な思想ではなくて自己を充たさんとするある欠如であるのと同じように、この志向を私が受け継ぎ引き受けるということは、私の思惟の作業ではなくて、私自身の実存の同時的な転調であり、私の存在の変換なのである。

    P305われわれは言葉が制定されて(instituee)いる世界のなかに生きている。日常的なあらゆる言葉に対して、われわれ自身のうちに出来合いの意義が用意されている。これらの言葉はわれわれの心に二次的な思想しか呼びおこさない。この思想はこの思想でまた別の言葉に言い直される。そしてこの別の言葉とは、われわれから真の表現の努力といえるものを少しも要求せず、聞き手がそれを了解するためにも何ら努力を必要としないような言葉である。こういうわけで言語活動と言語理解とは、当たりまえのことのように思われる。言語的世界、相互主観的世界は、われわれにとってもはや驚くべきことではない。われわれはこの世界をもはや世界そのものから区別しない。そしてわれわれが反省するのも、すでに語られまた語りつつある世界の内部においてである。話すことを学ぶ幼児の場合にせよ、あることがらを初めて語り考える著述家の場合にせよ、要するにある沈黙を言葉に変えるすべてのひとびとの表現や意思伝達のなかに存する偶然なものにわれわれはもはや気づかなくなっている。しかし日常生活において使用される既成の言語は、明らかに表現の決定的な段階がすでに踏み越えられたこと前提にしている。われわれがこの起源に遡り、言葉のざわめきの下の原初的な沈黙を再発見しない限り、そしてこの沈黙をやぶる身振りを描き出さない限り、われわれの人間考察はいつまでたっても表面的なものにとどまるであろう。言語は身振りであり、その意義は一つの世界なのである。
    **************

    わたし、こういうのを手がかりにして、〈世界における(への)存在者(わたし)〉を見ようとしてる。

引用返信/返信 削除キー/
■27469 / inTopicNo.44)  Re[56]: 結びつけ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/11/13(Sun) 20:00:05)
    No27467 の最後のところ、
    <わたしの〈思っていること〉を「見えるようにすること」によって、〈思ってること〉は完成する。>
    これのメルポンの書き写します。これはまえに書いたと思うけど。

    メルポンの『知覚の現象学』の
    〔言語は思惟を予想するのではなく、それを成就する〕
    というところに書いてあったの

    ******************

    P294仮に言葉(パロール)が思惟を予想し、話すことがまず第一に認識の志向もしくは表象によって対象に結びつくことであるとすれば、なぜ思惟があたかもその完成に向かうが如く表現に向かうのかわからなくなるであろう。また、どんなに馴れ親しんだ対象といえども、その名を想い出さない限り、われわれにとって定かならぬものと見えるのはなぜなのか、そしてまた、何を書くのやら自分でもしかとわからずに本を書きはじめる多くの著述家たちが示すように、思惟する主体がその思想を自分に向かっていい表わし、あるいは実際にいったり書いたりしない限り、彼自身でも自分の思惟についていわば無知なのはどうしてかという理由が理解されないであろう。言語表現や伝達の苦労にわずらわされずに対自的に存在することで満足するような思惟は、出現するが早いか、たちまち無意識に舞い戻ってしまう。結局このような思惟は自己に対してすら存在しないに等しいことになる。カントの有名な問い(訳注59)に対して、われわれは内的もしくは外的言語によって自己に対して自分の思惟を提示するという意味おいては、思惟することも実際の一つの経験であると答えることができる。なるほど思惟は一瞬のうちに稲妻の如く進展する。しかし次にそれをわれわれのものとするという仕事が残っている。そしてそれがわれわれのものとなるのは表現によってである。対象が再認されてしかる後にその名が呼ばれるのではない。呼称は再認そのものである。
    p295私が薄暗がりのなかで一つの物を見つめ、「これはブラシだ」というとき、私の精神のなかにブラシなる概念があって、そのもとに対象が包摂され、他方、頻繁におこなわれた連合によってこの概念が「ブラシ」なる語と結びつけられている、というのではなく、「ブラシ」なる語そのものが意味を担い、私はこの語で対象を名ざすことによって対象に到達したという意識をもつのである。よくいわれるように、幼児にとっては対象が名づけられたとき、はじめてそれが知られるのであり、名称は対象の本質であり、その色彩や形と同じ資格で対象のなかに宿るのである。科学以前の考え方にとっては、対象を名づけるということは、それを存在せしめ、もしくはそれを変容せしめることに等しい。神は命名することによって諸存在を創造し、呪術はそれらについて語ることによって、それらに作用する。もしも言葉が概念に根拠を置くものならば、これらの「誤謬」は不可解となろう。なぜなら、もしそうなら概念はいつでも言葉とは別ものとして自己を知り、また言葉を外的な随伴者として知っているはずなのだから。以上の主張に対して、幼児は言語による指示を通して対象を知ることを学ぶのであって、対象は最初は言語的存在として彼に提示され、後になってから初めて自然的存在となるのだ、要するに言語的共同体の事実上の存在によって幼児の信念は十分説明されると、こう反論してみても、これは問題の性格を変えるものではない。というのは、もし幼児が自然に関する思惟として自己を知る以前に言語的共同体の一員として自己を知ることが可能だとすれば、それは主体が普遍的思惟として自己を知らぬがままに言葉(パロール)として自己を捉えるのとが可能であり、語が対象や意義の単なる記号にとどまるどころか、事物そのものに住まい、意義を担い運ぶものであるとすることを条件としているからである。こういうわけで言葉は発語する人にあって、既成の思想をいい表すのではなく、思想を完成するのである。

    (訳注59)「カントの有名な問い」とは例の「先天的総合判断はいかにして可能なりや」だと思われる。総合判断(主概念のなかに意味的に含まれていない概念を賓概念とする判断)は、一般に経験の媒介を必要とする。そこでカントのいわゆる先天的(非経験的)総合判断(因果律その他の経験の構成原則)は、一見自己矛盾した概念に見え「いかにして可能なりや」という問いが生ずる。メルロの文章は思惟も実は言語による経験だということによって、この問いに答えることができるということなのであろう。

    **********************

    こういうのって、そうだな〜、ってわたし思う(あ、カントのについてのところはわたしわかんないよ)。

    それと、訳本で、【言葉】には(パロール)ってルビがついてます。
    No27452で、ソシュールの言語学では、
    ランガージュ(言語活動)をラングとパロールに分けられてるみたいだけど、たぶんメルポンはパロール(言葉)について見てるんだと思う。

    メルポンは、『知覚の現象学』のなかで、
    【世界との、この素朴な触れあいを再発見し、結局はそれに哲学的な資格を与えることに、あらゆる努力を傾注するのである。】とか、
    【フッサールが、その生涯の終わりに臨んで、現象学の最も主要なテーマとして提起した「自然的世界概念」あるは「生活世界」の、一つの解明にすぎないのだ。】
    って言ってる。

    「現象学」っていうの、わたしのような素朴的経験的私が生きる生活世界のフィロソフィア、ってわたし見てる。

引用返信/返信 削除キー/
■27467 / inTopicNo.45)  Re[55]: 結びつけ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/11/13(Sun) 17:41:14)
    (b),(d),(g)の結びつけのつづきです。
    No27466で、

    「私の外にあらわれているもの」を「見る」こと、によって私に「見られたもの」、これが「私の内(意識)にあらわれてるもの」

    ってして、(b)と(d)が結びつけられたんだけど、これと、
    (g) 「語ること」、これは「見えるようにさせること」で、それによって「見えるようにされたもの」。
    をどう結びつけようっかな〜、って。

    そこで、PさんとQさんというふたりのやりとりで見ていって見るね。
    「PはQになんか話してる」のね。これは、PはQに対して「語る」ことで、Pが〈思っていること〉を「言葉」で「見えるようにさせてる」、ってうことになるよね。
    あ、このばあいお喋りだから、「見えるようにさせてる」っていうより、「聞こえるようにさせている」っていう方が正確なんかもしれないけど、わたしのばあい「見ること」のうちに「聞くこと」「読むこと」「触ること」さえも含めてるからね。
    Pが「語る」ことによって「見えるようにさせたもの」=「言葉」を、Qが「見る(聞く)」のね。これは「Qの外にあらわれれているもの」を「見る」こと、によって「見られたもの」、これが「Qの内(意識)にあらわれているもの」、っていうことになるよね。
    このときね、Pが語ることによって見えるようにさせた「言葉」は、Pにとっても「Pの外にあらわれているもの」ってなって、この「Pの外にあらわれ(し)てるもの(Pによって発せられた言葉)」は、Pにとっても「見られたもの」となって、これが「Pの内(意識)にあらわれているもの」ともなるよね。

    ん〜ん、こういうんで(b),(d),(g)が結びつけられたかな?

    「語る」っていうことにおいて、【「話す主体」が存在する】、【話すひとというものが存在する】、っていうことを忘れないように、ってメルポンに倣ったから。
    あと、
    「語る」ときは、誰かに向けて、っていうのもあるよね。この誰かっていうのは必ずしも他人だけじゃないよね。自分自身に向けて、っていうのもあると思う。
    たとえば、いま、わたしがこうしてパソコンに何か打ち込んでいるのは、ここニークラで発表する(見えるようにする)ことだけじゃなくて、わたし自身に向けて、でもあるわけね。わたしに〈思われたの〉をパソコンの画面上に「言葉(文)」であらわす。この「言葉(文)」という「わたしの外にあらわれ(し)ているもの」をわたしが「見る」こと、によってわたしに「見られたもの」、これが「私の内(意識)にあらわれてるもの」。そしてこれとわたしに〈思われたもの〉とを照らしあわせて見る。
    わたしの〈思っていること〉を「見えるようにすること」によって、〈思ってること〉は完成する。ということになるのかも。
    (ここの最後のところは、メルポンから倣ったのね。ここのとこ、次に書き写して見ます。)

引用返信/返信 削除キー/
■27466 / inTopicNo.46)  Re[54]: 結びつけ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/11/13(Sun) 15:30:08)
    素朴的経験的わたしので、わたしに分かりやすく、いろんなこと結びつけようとしてるんかもしれない。

    No27423
    No27439をまとめなおして、

    「現象」
    (a)現象学における「現象」→「おのれを示す当のもの//あらわなもの」
    (b)日本語で「現象」って言ったら→「あらわれ//あらわれているもの」

    「イデア」idea→日本語で「観念」
    (c)日本語で「観念」を〈意識にあらわれてるもの全般〉ってして、
    学論的には、「観念」には、二つあって、
    (c-1)感性的観念
    (c-2)理性的知的観念(表象)
    (d)もともとの意味は、idein=見ること、idea=見られたもの/姿/形
    「idea(観念)」っていったら、だいたいが(c-2)のこと。

    「ロゴス」logos
    (e)言葉(言語)→「言語学」
    (f)内的な、知的な、思考的な(論理とか理性的な)→「論理学」
    (g)「ロゴス」は 「語ること」。これは「見えるようにさせること」で、それによって「見えるようにされたもの」。
    学論的には、(e),(f)の意味で、わたしのはハイデガーに倣って(g)。
    そしてここの(e)関して、
    No27452を見て見た、っていうことになるかな。

    学論的なのはわたしには難しいので、(b)、(d)、(g)で見ていく。
    こっからが、わたしの勝手でしょ、になるのね。

    (b)、
    現象学における「現象」(おのれを示す当のもの//あらわなもの)っていうのは横に置いといて、
    わたしが見ている「あらわれ//あらわれているもの」について考えてみると、
    「あらわれている」っていうの、「いつ?」「どこに?」「なにが?」「どのように?」「どうして?」っていう問いが浮かぶよね。

    「どこに?」なんだけど、世界のうちに「私」を縁取って見て、
    (x)私の外にあらわれてるもの
    (y)私の内(意識)にあらわれてるもの
    のふたつに分けて見た。
    これで(d)と結びつけて見ると、

    「私の外にあらわれているもの」を「見る」こと、によって私に「見られたもの」、これが「私の内(意識)にあらわれてるもの」
    ってなった。

    「あらわれ//あらわれているもの」――「あらわれている」についてはいろんなのが浮かんでくる。

    @メルポンの、〔哲学的問いかけ〕の最後のところ、
    No25556
    ここからわたしに見えたものは、
    No25902で、
    乳幼のころ、(1)「なにか〈ある〉」、そして(2)「なにこれ?」
    そしてメルポンの哲学的問いかけは、
    (1)から「〈ある〉というのはどういうことか」、(2)から「〜とは何か」
    〈ある〉は〈存在する〉とも言いかえられるのね。
    こういうのから、乳幼のころに哲学的問いかけがすでに生まれている、ってわたし見たんだけど、
    でね、
    「あらわれている」を、「あらわれて〈ある〉」ってしてみると、これと結びついてくる気がしてる。

    A「あらわれている」を日本語の漢字で言い表して、
    「表れている」「現れている」「顕れている」ってして区別して見ると、
    ハイデガーの「現象という概念」、
    No27096
    No27097
    にも結びついてくる感じ。

    B(x),(y)で見て見ると、
    No26276で見たような
    「実在論/観念論」「主観/客観」にも結びついてくる感じ。

    ん〜ん、難、難。

引用返信/返信 削除キー/
■27454 / inTopicNo.47)  Re[53]: 「語ること」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/11/12(Sat) 20:15:20)
    「語る」って、「お喋り」って言ってもいいよね。
    音声的お喋りでも、文字的お喋りもあるけど。

    ん?「論」は「お喋り」とは違う?
    こういう人いたら、ぜひ!
引用返信/返信 削除キー/
■27453 / inTopicNo.48)  Re[52]: 「語ること」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/11/12(Sat) 20:01:21)
    いま、「語ること」についてわたし考えてるんだけど、

    ネットをニュース見てたら、

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    「死刑のはんこ」発言で葉梨法相辞意 星浩氏が断罪「死刑を茶化すような法務大臣は民にあらず」11/11(金) 16:58配信
     ジャーナリストの星浩氏が11日、TBS系「Nスタ」(月〜金曜後3・49)に生出演し、「死刑のはんこ」発言で辞意を表明した葉梨康弘法相を巡る問題に私見を語った。葉梨氏はが9日、都内の会合で「だいたい法相は朝、死刑(執行)のはんこを押す。昼のニュースのトップになるのはそういう時だけという地味な役職だ」などと述べた。10日に自身の発言について謝罪し、11日に辞任の意向を固めた。番組ではその後、岸田文雄首相が葉梨氏の後任に斎藤健元農水相を充てる方針を固めたことを速報で伝えた。
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    っていうのあった。

    これも「語り」よね。で、このなかで、語ってるひと、何人いるのかしら?って。



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