| わたしのパソコンのファイルには「意味」っていう項目があって、そこに書いてあったの。どこの本の中に書いてあったか記録しとかなかったからわかんないけど、菅野盾樹っていう人が言ってるのがあったので、それを。
(資料11) ・・・・・・・・・・・ 意味 sense, meaning/sens, sinification〔仏〕/Sinn, Bedeutung〔独〕
人間は意味を糧として生きている動物である。いや、人間以外のあらゆる生物たちも、彼らなりの意味をいのちの養分としている。生命と意味とは深部で結びつく。彼らの意味を受動的に咀嚼するだけに終始するのではなく、意味を能動的に放射したり紡いだりする。ただし人間の場合には、地球上の他の仲間たちとは異なり、人間だけに固有な意味を享受している。それというのも、人間には言語能力がそなわっているからだ。〈文化〉と呼ばれる記号的構築物を人間だけが本格的に創出しえたのも、この能力のおかげである。とはいえ、人間がいとなむ意味を、ソシュール主義者のように、人間以前(あるい人間以外)の生命ないし自然から切り離し絶対視するのは誤りだろう。いいや、この世界に意味なんかあるものか、すべてが無意味だとうそぶくニヒリストでさえ自分の言葉が意味をなすことを暗に要請することで、意味を擁護している。このかぎりで人間は、メルロ=ポンティの言い方をかりれば、「意味への刑へと処せられている」。 ・・・・・・・・・・・ っていう始まりで、
見出しは、 ・・・・・・・・・ ・意味とは理解されるところのものである ・意味はモノではない ・生命価値としての「意味」 ・事物の本質としての「意味」 ・本質の形而上学的役割 ・生の乏しさの形式としての意味 ・記号としての事物と言語記号 ・・・・・・・・・・ っていうの。全部写すのやめるけど、ソシュールの言語学、 No27452、に追加的に、最後の見出しの部分だけ書き写しておく。
・・・・・・・・・・ ・記号としての事物と言語記号
以上の議論は「事物の意味」をめぐるものであった。しかし〈意味〉という観念は多義的である。表情の意味、行為の意味、記号の意味、仕事の意味、人性の意味‥‥。残された紙数の余裕がないので、最後に「記号の意味」に言及することで締めくくりとしたい。問題は、事物の意味と記号の意味(とくに言語の意味)とをどのように統一的に捉えるべきか、という点にある。 記号学を構想したソシュールは、常識的で伝統的な記号の観念を批判して、新たな記号観を確立した。旧来の記号観によると、記号とは「他の何かを代表する何か」(something that stands for something else)である。話を言語にかぎると、言語とはモノに付与された名称の目録だという理解になる。彼はこの種の言語観を厳しく批判した。彼によると、記号(signeシーニュ)とは、記号表現(significantシニフィアン)と記号内容(sgnifiéシニフィエ)とが表裏一体をなす構造である。記号表現とは具体的には聴覚像をいうが、これは物理音を一定の形相で限定することで成立する。また記号内容とは概念のことであるが、これは混沌とした観念的素材をやはり形相で限定することで成立する。言語記号は、記号体系(ラング)の中で一定の価値を付与されつつ概念を担う。これが言語記号の「意味」である。 彼のこうした構想がある意味で古代の形而上学を継承したものである点は明らかであろう。私たちとしては、ソシュールの到達点から逆に世界へと引き返して見よう。ここに椅子があるとする。それは多くの素材からできているが、それらはすべて椅子の部品として加工されている。つまりそれらは形相によって限定されて〈椅子〉という記号のための表現を提供しているのだ。他方、それらの部品や素材は設計図通りに組み立てられてひとつの椅子を形成している。つまり、この設計図は多種多様な椅子の集合から特定のタイプの椅子の形相を指定するかぎりにおいて〈椅子〉の記号内容に相当する。 私たちは何を言いたいのか。ソシュール記号学に忠実に考えれば、この実物の椅子がすでに「記号」なのである。この場合の「記号」という語には古典的な定義よりいっそう包括的な定義を施す必要がる。すなわち、記号は「意味するところのもの」(something that has some meaning)である。こうして、人間が経験しうるものすべての事物や事象は、意味するかぎりにおいて記号にほかならない。ソシュール記号学は、ユクスキュルやギブソン理論とここで結びつく。 事物の意味の根拠として私たちはすでに生命機能を見出している。無意味から意味がどのように生成するかという問いは、生命の起源の問いとパラレルであろう。 さてソシュールは言語能力(langageランガージュ)を人間の特権として設定した。人間が複雑な社会を営み文化を創出できたのも、この能力のおかげであるという。問題は彼が言語能力を人間の自然性とくに身体性と切り離なしてしまったことだ。「恣意性の原理」というソシュールの思想にはこの点が雄弁に語られている。しかしながら、その語のオノマトベや基礎色彩語の認知科学的研究、さらに近年の言語のアイコン性(iconicity)の研究は、「恣意性の原理」の「原理」としての意義を希薄にした。こうした研究動向は、人間言語も自然と絆を持ち能産的自然(natura naturanse)の発現にすぎないことを示唆している。言語の具体的形態はいつでもつねに意味と共鳴しあうのである。 ・・・・・・・・・
これ、わたし、メルポンが登場してるから書き写しておいたんだんだと思う。
ここに「能産的自然(natura naturanse)」ってあるけど、ネットで調べたら、 ・・・・・・・・・ 【能産的自然 natura naturans】 生み出された結果としてある自然界 (→所産的自然 ) に対し,これを生み出す力としての自然をいう。ドゥンス・スコツス,エリウゲナに発し,イブン・ルシュドが展開し,G.ブルーノ,B.スピノザが主要概念としたほか,F.シェリングもその自然哲学に用いた。多くの場合,神や絶対者に等しいが,M.デュフレンヌのようにこれをただ自然の有機的生産力の意味で用いる学者もいる。
【所産的自然 natura naturata】 哲学用語。イブン・ルシュドに発し,スピノザなどにより展開された概念で,具体的な自然的存在物をいう。能産的自然に対する。 ・・・・・・・・・ ってあった。 わたし、「神」っていうのなしにして、 所産的自然 natura naturata=生み出された結果としてある自然界。具体的な自然的存在物。 能産的自然 natura naturans=結果としてある自然界を生みだす力としての自然。 ってしとく。
以上でわたしが見ている資料の写しはおしまいにして、つぎから、メルポンのわたしのお喋り。
あ、その前に、「オノマトベ」って何? って思って、ネットで調べたのを、つぎにコピーしとく。
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