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■27767 / inTopicNo.25)  Re[75]: オノマトペ
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/12/02(Fri) 20:23:20)
    No27766
    あ、ごめん
    「べ」じゃなくて「ぺ」でした。
引用返信/返信 削除キー/
■27766 / inTopicNo.26)  Re[74]: オノマトベ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/12/02(Fri) 20:10:04)
    No27765のつづきね

    ・・・・・・・・・・・・
    オノマトペ
    英語:onomatopoeia

    「オノマトペ」とは、「わんわん」「ワクワク」などのように様々な状態や動きなどを音で表現した言葉のことを意味する表現。英語では「onomatopoeia」でありカタカナ語の「オノマトペ」はフランス語「onomatopée」に由来する。
    オノマトペとは、オノマトペの意味
    オノマトペとは、さまざまな状態や動きなどを音で表現した言葉のこと。主に自然界にある音や声など、現実に聞こえる音を人の言語で表現した言葉である。犬の鳴き声の「わんわん」など。その他には、「ワクワク」のように、実際には音は聞こえないが感覚的な表現としてのオノマトペがある。日本語は特にオノマトペが多く用いられる言語といわれている。

    オノマトペの語源
    オノマトペの語源は、古代ギリシャ語のオノマトポイーア(onomatopoiia)に由来する。古代ギリシャ語のonoma(名前)とpoiein(作る)という言葉が融合しオノマトポイーア(言葉を作る)がという言葉が生まれた。古代ギリシャ語のオノマトポイーアを語源とし、英語ではオノマトピア(onomatopoeia)、フランス語ではオノマトペ(onomatopee)という言葉になっていった。

    オノマトペは、ある状態を表現する際に便利な言葉である。例えば、雨が降っている状態を誰かに伝えようとした場合、オノマトペを使用することで細かいニュアンスまで伝えることが可能だ。弱い雨なら「シトシト」、激しい雨なら「ザーザー」などのオノマトペを使用すると、聞き手もどのような状態であるのかをイメージしやすい。しかもオノマトペを用いることで、長々と説明する必要がなく簡潔に伝えることができるというメリットもある。日本語では多種多様なオノマトペがあるが日常生活の中でごく当たり前に使用されているため、あまり注目されることは少ない。日本では「ブーブー」(自動車)など幼児語に使用されることが多いため、幼稚っぽいというイメーシもある。オノマトペを意識して使用するのではなく無意識うちに使用しているのも日本におけるオノマトペの特徴だと言える。

    オノマトペの種類
    オノマトペの種類には、擬音語と擬態語がある。擬音語は音を描写した「ニャーニャー」「ゴクゴク」などであり、擬態語は「キョロキョロ」「イライラ」「シーン」など実際に音はしていないが、言語によって状態や動作などを表現している。日本においては、2つの区別を意識することは少なく、オノマトペは擬音語と擬態語の両方を指すことがほとんどである。代表的なオノマトペとしては「ピカピカ」「モチモチ」「ニコニコ」「コケッコッコー」などが有名だ。特に幼児期には、感覚的かつ理解しやすいためオノマトペを使用する場合が多い。

    救急車は「ピーポーピーポー」、うがいは「ガラガラぺッ」など、実際に聞こえる音と結びつけることで物の名称や動作を覚えやすくなる。その後、成長とともに正式な名称を覚えることによってオノマトペを使用した表現から通常の表現へと移行していく。

    オノマトペと若者言葉
    オノマトペは感覚に働きかけ相手に簡潔に伝わりやすい語のため、若者言葉の中にも多く取り入れられている。頭で考えるよりも心で感じることを重要視する傾向がある若者にとってオノマトペは最適なツールの1つである。オノマトペを使用してテンポよく会話を楽しむ若者が多い。例文としては「あの先輩、オラついてて怖い」などがある。

    この例文でのオノマトペは「オラつく」である。これは「オラオラ」という強引や高圧的な状態を指すオノマトペが元になった若者言葉である。その他には、「ジワる」というオノマトペもある。後から「ジワジワ」と笑いが起こる状況を表現する若者言葉である。その時には面白くなかったのに、後から徐々に面白さが込み上げてくる状況を、「ジワる」というたったの3文字で表現している。このように若者も会話をリズミカルに進行するために無意識にオノマトペを活用している。
    ・・・・・・・・・・・

    わたしもけっこうふつうに使ってるの、あるある。

引用返信/返信 削除キー/
■27765 / inTopicNo.27)  Re[73]: 「意味」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/12/02(Fri) 20:05:11)
    わたしのパソコンのファイルには「意味」っていう項目があって、そこに書いてあったの。どこの本の中に書いてあったか記録しとかなかったからわかんないけど、菅野盾樹っていう人が言ってるのがあったので、それを。

    (資料11)
    ・・・・・・・・・・・
    意味 sense, meaning/sens, sinification〔仏〕/Sinn, Bedeutung〔独〕 

    人間は意味を糧として生きている動物である。いや、人間以外のあらゆる生物たちも、彼らなりの意味をいのちの養分としている。生命と意味とは深部で結びつく。彼らの意味を受動的に咀嚼するだけに終始するのではなく、意味を能動的に放射したり紡いだりする。ただし人間の場合には、地球上の他の仲間たちとは異なり、人間だけに固有な意味を享受している。それというのも、人間には言語能力がそなわっているからだ。〈文化〉と呼ばれる記号的構築物を人間だけが本格的に創出しえたのも、この能力のおかげである。とはいえ、人間がいとなむ意味を、ソシュール主義者のように、人間以前(あるい人間以外)の生命ないし自然から切り離し絶対視するのは誤りだろう。いいや、この世界に意味なんかあるものか、すべてが無意味だとうそぶくニヒリストでさえ自分の言葉が意味をなすことを暗に要請することで、意味を擁護している。このかぎりで人間は、メルロ=ポンティの言い方をかりれば、「意味への刑へと処せられている」。
    ・・・・・・・・・・・
    っていう始まりで、

    見出しは、
    ・・・・・・・・・
    ・意味とは理解されるところのものである
    ・意味はモノではない
    ・生命価値としての「意味」
    ・事物の本質としての「意味」
    ・本質の形而上学的役割
    ・生の乏しさの形式としての意味
    ・記号としての事物と言語記号
    ・・・・・・・・・・
    っていうの。全部写すのやめるけど、ソシュールの言語学、
    No27452、に追加的に、最後の見出しの部分だけ書き写しておく。

    ・・・・・・・・・・
    ・記号としての事物と言語記号

    以上の議論は「事物の意味」をめぐるものであった。しかし〈意味〉という観念は多義的である。表情の意味、行為の意味、記号の意味、仕事の意味、人性の意味‥‥。残された紙数の余裕がないので、最後に「記号の意味」に言及することで締めくくりとしたい。問題は、事物の意味と記号の意味(とくに言語の意味)とをどのように統一的に捉えるべきか、という点にある。
     記号学を構想したソシュールは、常識的で伝統的な記号の観念を批判して、新たな記号観を確立した。旧来の記号観によると、記号とは「他の何かを代表する何か」(something that stands for something else)である。話を言語にかぎると、言語とはモノに付与された名称の目録だという理解になる。彼はこの種の言語観を厳しく批判した。彼によると、記号(signeシーニュ)とは、記号表現(significantシニフィアン)と記号内容(sgnifiéシニフィエ)とが表裏一体をなす構造である。記号表現とは具体的には聴覚像をいうが、これは物理音を一定の形相で限定することで成立する。また記号内容とは概念のことであるが、これは混沌とした観念的素材をやはり形相で限定することで成立する。言語記号は、記号体系(ラング)の中で一定の価値を付与されつつ概念を担う。これが言語記号の「意味」である。
     彼のこうした構想がある意味で古代の形而上学を継承したものである点は明らかであろう。私たちとしては、ソシュールの到達点から逆に世界へと引き返して見よう。ここに椅子があるとする。それは多くの素材からできているが、それらはすべて椅子の部品として加工されている。つまりそれらは形相によって限定されて〈椅子〉という記号のための表現を提供しているのだ。他方、それらの部品や素材は設計図通りに組み立てられてひとつの椅子を形成している。つまり、この設計図は多種多様な椅子の集合から特定のタイプの椅子の形相を指定するかぎりにおいて〈椅子〉の記号内容に相当する。
     私たちは何を言いたいのか。ソシュール記号学に忠実に考えれば、この実物の椅子がすでに「記号」なのである。この場合の「記号」という語には古典的な定義よりいっそう包括的な定義を施す必要がる。すなわち、記号は「意味するところのもの」(something that has some meaning)である。こうして、人間が経験しうるものすべての事物や事象は、意味するかぎりにおいて記号にほかならない。ソシュール記号学は、ユクスキュルやギブソン理論とここで結びつく。
     事物の意味の根拠として私たちはすでに生命機能を見出している。無意味から意味がどのように生成するかという問いは、生命の起源の問いとパラレルであろう。
     さてソシュールは言語能力(langageランガージュ)を人間の特権として設定した。人間が複雑な社会を営み文化を創出できたのも、この能力のおかげであるという。問題は彼が言語能力を人間の自然性とくに身体性と切り離なしてしまったことだ。「恣意性の原理」というソシュールの思想にはこの点が雄弁に語られている。しかしながら、その語のオノマトベや基礎色彩語の認知科学的研究、さらに近年の言語のアイコン性(iconicity)の研究は、「恣意性の原理」の「原理」としての意義を希薄にした。こうした研究動向は、人間言語も自然と絆を持ち能産的自然(natura naturanse)の発現にすぎないことを示唆している。言語の具体的形態はいつでもつねに意味と共鳴しあうのである。
    ・・・・・・・・・

    これ、わたし、メルポンが登場してるから書き写しておいたんだんだと思う。

    ここに「能産的自然(natura naturanse)」ってあるけど、ネットで調べたら、
    ・・・・・・・・・
    【能産的自然 natura naturans】
    生み出された結果としてある自然界 (→所産的自然 ) に対し,これを生み出す力としての自然をいう。ドゥンス・スコツス,エリウゲナに発し,イブン・ルシュドが展開し,G.ブルーノ,B.スピノザが主要概念としたほか,F.シェリングもその自然哲学に用いた。多くの場合,神や絶対者に等しいが,M.デュフレンヌのようにこれをただ自然の有機的生産力の意味で用いる学者もいる。

    【所産的自然 natura naturata】
    哲学用語。イブン・ルシュドに発し,スピノザなどにより展開された概念で,具体的な自然的存在物をいう。能産的自然に対する。
    ・・・・・・・・・
    ってあった。
    わたし、「神」っていうのなしにして、
    所産的自然 natura naturata=生み出された結果としてある自然界。具体的な自然的存在物。
    能産的自然 natura naturans=結果としてある自然界を生みだす力としての自然。
    ってしとく。

    以上でわたしが見ている資料の写しはおしまいにして、つぎから、メルポンのわたしのお喋り。

    あ、その前に、「オノマトベ」って何? って思って、ネットで調べたのを、つぎにコピーしとく。

引用返信/返信 削除キー/
■27764 / inTopicNo.28)  Re[72]: 「意味」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/12/02(Fri) 19:34:18)
    今日はわたしが見ている資料だけ貼りつけとくことにする。

    「現象学事典」からのを書き写しておきます。

    (資料10)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    意味 [(独)Sinn;Bedeutung (仏)sens;signifecation (英)sense;signification;meaning ]

    「意味」と邦訳される近代語が理論的用語としてあらわれるのは比較的あたらしい事であるが、古い時代にはストアの「レクトン」(表現されたもの)や中世の「スッポジオ」(下に置かれたもの)やロックの「唯名的本質」などの用語がこれに相当していたと考えられる。
     19世紀に出たフレーゲの論考では、表現の意味(Sinn)は指示対象(Bedeutung意義とも訳される)と区別され、前者は後者の与えられ方(Art des Gegebenseins)をいう。例えば「明けの明星」と「宵の明星」は表現の意味は異なるが、指示対象は同じ天体であり、「最も収斂の遅い級数」といえば意味はあるが指示対象はない。とはいえ、意味は単なる主観的表象ではなく、たとえ望遠鏡を通して共通に観察される月の実像のように客観性をもつとされた。
     フッサールの用語法は、フレーゲのそれとは一致しないが、『論理学研究』以来追及された意味の理論には明らかにフレーゲのそれと対応が見られる。対象は同じだが意味の異なる表現「イェーナの勝利」と「ウォータールの敗北」、「等辺三角形」と「等角三角形」など、また意味はあるが対象のない「丸い四角」「正十面体」等々適切な例によって意味は対象と区別される。フッサールによれば意味とは、意識の作用である意味志向の相関項であり、この作用は空虚なままでもありうるが、対象的なものの直観によって充実される。意味はふつう対象的には意識されず、意味を思念する作用は変動するが、意味そのものは客観的なイデア的統一体としてつねに存在し、表現を通してその客観的法則を明らかにすることができる。名辞的および命題的意味は独立性をもつが共義語の意味は非独立的であって、別な種類の意味による補完を要求することから、ここに文法の法則が明らかになる。たとえば「丸い四角」という表現は矛盾であり反意味(Widersinn)ともよばれるが有意味であり、意味ありげなだけの有節音や単語の非文法的羅列のような無意味を排除する純粋論理文法(意味の形式論)を基礎としてのみ、反意味を排除する論理学も、また多くの偶然的要素を伴った歴史的言語の文法も成立するのである。
     意味の研究は『論理学研究』の後半以後、さらに作用すなわち志向的体験の分析を通して深められる。志向的体験においては、与えられた感覚契機は統握され、何らかの意味に解釈されるのであり、この意味が作用の質料ともよばれ、同じ質料をめぐる作用の異なった諸性質(信じる、推測する、疑う、断定を保留する、願望する)とは区別される。中期の主著『イデーンT』では、統握作用はノエシス、質料はその相関項ノエマの核とよばれ、さきの諸性質と相関的に、「確実」「可能的」「蓋燃的」「疑わしい」「あたかも〜のよう」「願わしい」など、ノエマ的諸性格が核を包み、ノエマの完全な相をなす。このように意味を付与するものが意識であり、あらゆる実在は意味付与(Sinngebung)によって成立するという超越論的観念論が立てられるとともに、意味(Sinn)という用語は志向性の全域に適用される。これに対し、Bedeutungおよび表現(Ausdruck)という用語は論理的意味の場合に限定して使用されることになる。ここにいう表現は、フッサールによれば、意味を概念化する新しい層であり、すべての志向性を形式・内容ともにいわば反映、模写するが、表現を与える以外には非生産的であるとされる一方で、表現は完全もしくは不完全であり、表現の層と低層の間には複雑なズレや相互適応の過程があることが認められた。
     フッサール以後、意味をめぐる問題は多岐にわたっている。意味と指示対象の区別は論理学でいう内包と外延のそれにあたるから、同じ外延が異なった内包を通じて同定されることのありうることになるが、ヘーゲル以後の分析哲学では、命題の意味を真理条件(命題が真であるための必要かつ十分な条件)とするタルキス(Alfred Tarki)の定義が論理学的意味論としてしばしば採用される。この場合、同じ事実が異なった内包の差異の問題が残る。これに対して言語学的意味論は内包的意味を取り扱うが、自然言語は論理学のように一義的ではない。ここでは、ちょうど音韻論が音素を弁別特徴に分解するように、自然言語の意味を成分に分解することも試みられたが、一方では多義語の意味が文脈において限定され、他方では隠喩や換喩によって転義や複義化が起こる機構も研究された。「意味」という用語自体も多義的であって、認知的意味以外に情緒的意味が問題になることもある。ウィトゲンシュタインは「意味」を「使用」で置き換えようとしたが、記号論では意味論と語用論が区別される。言語論的現象学とも呼ばれたオースティン(John Langshaw Austin)の言語行為論では、意味と指示のほかに、命令や約束などが適切に発せられる場合にもつ発語内的力と、暗示などによる発語媒介的効果とが区別された。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    *意味と対象は区別される。
    *意味と指示対象の区別は論理学でいう内包と外延のそれにあたる。
    こんな感じのしか分かんなかった。

    このなかに出てくる語を調べて見ました。

    (仏)sens (英)sense、ってある。
    わたし「感じ」ってしてたんだけど、
    ネットで調べたら他にもいろいろあった。

    ・・・・・・・・・・・
    sense
    〔感覚器官から受け取る〕感覚、知覚、感触、感じ。〔漠然とした〕印象、感じ、予感
    分別ある[理にかなった]判断
    〔ある分野の〕鑑識力、認識力、センス
    〔道徳や倫理に関する〕分別、良識
    〔正しい決定ができる〕知性、判断力
    〔話などの〕要点、要旨、趣旨
    〔言葉が伝える一つの〕意味、意義
    《哲学》意義、内包的意味【対】reference
    ・・・・・・・・・・・

    メルポンは、『運動機能の研究の結果あきらかになったものは、要するに「意味」(sens)という言葉の新しい意味である。)(『行動の構造』)みたいなこと言ってる。

引用返信/返信 削除キー/
■27763 / inTopicNo.29)  Re[71]: 「意味」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/12/02(Fri) 19:09:44)
    「意味」、つづけます。

    ちょっと思ったんだけど、わたしのばあい、「存在」っていう名詞?より、「存在する」っていう動詞の方がなじみやすくなる気がしてる。そうすると、「○○が存在する(ある)」っていうことになって、その「存在する(ある)」というのはどういうこと?からは、「○○はそのようにして存在している(ある)」見たいに展開されてくんじゃないかしら、って。
    これと同じように「意味」も「意味する」で考えて見たどうかしらって。そうすると、「○○の意味」は、「○○は△△を意味する」あるいは、「○○の意味は、△△するところのものである」みたいになって、ほら、辞典みたいになる。
    「存在」とか「意味」っていう語は、動詞で使われるところのものである、みたいな?
    あ、これはふと、のやつだから、ちょっと書きとめとくだけにしとく。

    No27722で、
    「身振り」=「身体表現」ってしたんだけど、「からだの働き」ってしとくのもいいかも、って。
    身体の働きによって表現する、みたいな。
    あ、これもふと。

    わたしが見ている資料を書き写してくことにします。
    コトバクンのから、

    (資料9)
    ・・・・・・・・・・・・・
    意味 meaning

    日本大百科全書(ニッポニカ)「意味」の解説
    言語を中心とする、広義の記号の機能、用法、内容をいう。したがって、概念、命題(文)、命題が形成する文脈などはすべて意味をもつ。意味は人類の知的な範疇(はんちゅう)のなかで基本的なものの一つであり、それを他の語で定義し、代替することが不可能か、少なくとも至難であることは、次の一例からも明らかである。伝統的形式論理学では、概念に「内包(ないほう)」と「外延(がいえん)」を区別した。たとえば「桜」の内包はすべての桜の木に共通の性質、属性であり、外延は桜の木全体の集まりをいう。現代論理では、前者に「……は……より大きい」のような「関係」をも含め、後者は「集合」と割り切ることができよう。このように、関係も含めた内包は「意味」の重要な一部といいうるが、意味を集合と同一視したり、集合で代替しても、集合の要素が集合に属することをいう「帰属」は関係の一部であり、ここに、関係としての意味は最小限度前提されざるをえない。
     それゆえ、意味の解明の重要な方法の一つは、それをさまざまな視点から類型化し、また、他の概念と対比させて特色を明らかにすることにあり、たとえば次のような類型や設問が考えられる。(1)記述的意味と非記述的意味とが区別され、前者は広義の記述にかかわるもので、そのなかにも、論理、数学のような形式科学における関係の機能としての意味と、経験科学の名辞や命題の場合のように実質的内容に関する意味が区別される。後者は、事実の記述でなく、命令、勧告、評価、推賞、義務のように、記号使用者(語り手、書き手)の態度や情緒の表出、および記号解釈者(聞き手、読み手)の心理や行動への影響を本質的機能とし、倫理、美学、評価、文学などのような諸領域で重要な役割を演ずる。そのほか、(2)表現の有意味と無意味の別や、(3)話し手、書き手の「意図」としての意味が問われ、さらに、(4)意味が経験的に知られる個物と異なるという点で、その存在論的性格が、古来、普遍論争の伝統で問題とされる。  [杖下隆英]

     一般に、ある記号によって一定の心的内容が喚起されるとき、その心的内容をその記号の意味という。言語記号(音形あるいは文字)はその意味を介して、さらに外界の事物(指示物)をさす。この関係はオグデンとリチャーズが提唱した「意味の三角形」によって示される。
    (「意味の三角形」)の点線で示されているように、記号は直接に指示物をさすことはできない。助詞、接続詞などの文法的な語には、意味あるいは文法機能があるだけで、指示物はない。
     われわれは言語を用いて意味を伝えるが、伝達内容のすべてが言語により表現されるのではない。話し手と聞き手が共有する外界についての予備知識、省略文復原能力、非言語行動、場面の状況などを手掛りとして初めて十分な意味伝達が成立する。                                                 [国広哲弥]
    ・・・・・・・・・・・・・・・・

    「意味の三角形」については図があるんだけど、その添付の仕方わかんないから、省略〜。


引用返信/返信 削除キー/
■27722 / inTopicNo.30)  Re[70]: 「意味」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/11/30(Wed) 19:29:07)
    このごろわたしは、メルポンの『知覚の現象学』の(Y)「表現としての身体と言葉(パロール)」っていうところをタイピングしながらいろいろ考えてる。

    「ロゴス」⇒「語ること」←見えるようにさせること→見えるようにされたもの
    ってわたししたんだけど、(Y)から、これに関係するところを、
    No27469
    No27553
    で書き写したのね。

    「見えるようにさせること→見えるようにされたもの」っていうの、もうちょっと広い括りで、「表現→表現されたもの」ってしてもいいよね。「語ること」においては。「言語」「語」「言葉」によって、っていうことになるんだと思う。でも、「表現→表現されたもの」っていうことになると、「言語」だけじゃなくなるのね。
    No27553にあるように、
    メルポンは「言語」も「身振り」と見ている見たいなんだけど、「身振り」にはいろいろあるよね。
    ネットで調べたのを、コピーしとく。

    【身振り】
    1 感情や意志を伝えるためのからだの動き。しぐさ。ゼスチャー。
    2 身なり。いでたち。

    ん〜ん、「身振り」=「身体表現」ってしとく。

    「振る舞い」っていう表現もあるので、これもネットで調べたのをコピーしとく。
    【振舞い】
    @ 鳥がのびのびと羽を動かして飛びまわる。
    A 思うままに事を行なう。のびのびと動作をする。
    B ことさらに構える。威儀をつくろった挙動をする。
    C 行動や動作をする。
    ・ もてなす。馳走する。接待する。
    【所作】
    おこない。ふるまい。しわざ。所為。所行。

    あ、ちなみに「身振り」=〈言語・行為・表情・仕草(種)・生理的変化・ものづくり〉ってわたししてる、っていうのは前に書いたよね。

    (Y)のところを読んでるなかで、そもそも「意味」ってなに?っていうのが浮かんできて、もういちど「意味」、わたしに見えるようにして見ようと思ったのね。

    「意味」について、いくつか資料を集めて見て、(Y)にいこうかと思ってるよ。まだわたしのは浮かんでこないんだけど、考えながら、っていうところ。資料としては、
    (資料9)ネットからの
    (資料10)現象学事典の
    (資料11)どこに書いてあったか不明の
    こういうんからメルポンの(Y)へ、
    っていう予定。

引用返信/返信 削除キー/
■27721 / inTopicNo.31)  Re[69]: 分ける
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/11/30(Wed) 17:57:59)
    ■27712 、田秋さん、ありがとございま〜す。

    わたしの好きかっての、でもなさそうでよかった〜
引用返信/返信 削除キー/
■27712 / inTopicNo.32)  Re[68]: 分ける
□投稿者/ 田秋 -(2022/11/29(Tue) 20:48:02)
    こんばんは、悪魔ちゃん

    >「分ける」ことって、「分かる」ことなのかも。
    正しい認識です。

    「分ける」と「分かる」は親子の様に濃い関係です。
    たくさんモノがあって混沌としていた所から一つ分けて取り出す、そうするとそれが何であるか「分かる」(=判る)、というのが「わかる」の語源です。
引用返信/返信 削除キー/
■27710 / inTopicNo.33)  Re[67]: 分ける
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/11/29(Tue) 19:52:27)
    「分ける」ことって、「分かる」ことなのかも。
引用返信/返信 削除キー/
■27691 / inTopicNo.34)  Re[66]: 世界における(への)存在
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/11/27(Sun) 18:29:56)
    わたし、メルポンのから教わって、倣ってるひとつに、

    「なにのうちで」

    っていうのある。
引用返信/返信 削除キー/
■27688 / inTopicNo.35)  Re[65]: 世界における(への)存在
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/11/27(Sun) 15:00:15)
    メルポンの『知覚の現象学』の訳注に、
    [etre au monde]([etre]の[e]の上の[^]は省略してます。)の翻訳について、次のように書かれたあります。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・
    I’homme est au monde.本書の基本概念「世界における(への)存在」(etre au monde)を先取りするものであるが、この基本概念はハイデガーの「世界内存在」(In-der-Welt-Sein)、サルトルのetre -dans-le-mondeに対応してる。問題はmondeの前の前置詞auの訳し方だが、独訳(Rudolf Boehem,1966)ではzu、英訳(Colin Smith,1961)ではinとなっている。つまりetre-au-mondeを独訳者はZu-Welt-Sein、英訳者はBeing in the worldと訳す。但し英訳では文脈によってはbeing to the worldとも訳している。要するにetre au mondeとは世界に属しつつ世界に臨む人間のあり方を表す言葉で、翻訳書では述語的に使われていると思われるところでは、カギ括弧でくくり、更に「世界における存在」と「世界への存在」を共に示すため「世界における(への)存在とした。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・

    〔世界に属しつつ世界に臨む人間のあり方を表す言葉〕っていう意味で、「世界における(への)存在」っていうことになるのかな。
    No27573でわたしが見たように、
    生活世界のなかで経験的に、世界と素朴に触れあう私、これを「素朴的経験的私」ってしたんだけど、このような「私」において、〈世界における(への)私〉とも見てる。

    [etre]は「存在」って訳されてる。「ある」って言ってもいいかな。
    No25556にあるように、メルポンの哲学的問いかけ、
    「あるということはどういうことか?」
    において、「私」は、
    「世界における(への)存在」というふうにして「私」はある。
    みたいな?

引用返信/返信 削除キー/
■27665 / inTopicNo.36)  Re[64]: 心にうつりゆくよしなしごと
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/11/26(Sat) 15:30:53)
    このごろ、わたしの頭のなかで、いろんなものが駆け巡ってる。なんか収拾がつかなくなってる、っていう感じ。

    「語ること」←見えるようにさせること→見えるようにされたもの
    ってしたんね。
    「語ること」は「表現」って言ってもいいよね。そして、「表現」にもいろいろある。

    徒然草の冒頭

    原文
    つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

    現代語訳(口語訳)
    することもなく手持ちぶさたなのにまかせて、一日中、硯に向かって、心の中に浮かんでは消えていくとりとめもないことを、あてもなく書きつけていると、(思わず熱中して)異常なほど、狂ったような気持ちになるものだ。

    このごろわたし、つれづれじゃないけど、
    「心にうつりゆく」、「心の中に浮かんでは消えてゆく」なのよね。
    わたしの心の中に思われたものは浮かんでは消えていく。だからそれを書き留めとかないと、消えちゃうのね。
    わたしのばあい、「硯に向かって」じゃなくて、パソコンに向かってだけど。
    だから、
    No27469にあるように、
    わたしに〈思われたもの〉は、「表現する」ことによって、「表現されたもの」とすることによって、成し遂げられる(願いがかなう)。
    っていうことなんだと思う。

    いろんなことを考えて、収拾がつかなくなってくると、狂ったような気持ちになっちゃうこともあるかも。

    沈黙は思考中。

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