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■27889 / inTopicNo.13)  (削除)
  
□投稿者/ -(2022/12/12(Mon) 19:39:41)
    この記事は(管理者)削除されました
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■27875 / inTopicNo.14)  Re[86]: :「意味」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/12/11(Sun) 18:40:28)
    あ、
    No27871のp297、「意味」っていう語が出てきてるから載せたんだけど、
    わたしに思われたの書いとくの忘れた。

    実践の生活世界のなかでの、文脈のなかでの、ある全体のなかでの、単語とその意味。
    ん〜ん、なんとなく分る気がするな〜。字典である単語の意味を調べて見てもわたしにはよく分かんない気がするのはそのせいかな。字典での解説は「意味」じゃないのかも?って。

    たとえば、「赤色」の見本がが提示されて、これなあに?って聞かれてもね〜、って。それには意味をもってないのかも?赤色の意味は、たとえば、赤いブラウスの赤、国旗の赤、イチゴの赤、…・みたいに、○○のうちの赤っていうふうに知覚され判断されてるんじゃないかしらね。だから「赤色」だけを取り出したところでなんの意味はないのかもしれない。

    「スタイル」
    身振りの(身体的)スタイルがあるように、文章的スタイルっていうのもあるかも。あ、あと口調っていうスタイルあるかも。
    『スタイルはその意味の最初の粗描』、これ、「意味」の最初の粗描はスタイル、ってわたし見たよ。
    ん〜ん、見た目?確かにあるのよね〜。
    見た目に騙されちゃいけない、っていうけど、騙す人は見た目(身なり、いでたち)を作ることから始めてるんじゃないかしら?ま、もっとも、騙すつもりはなかった、っていう場合もあるけどね。

    「意味」に関して、
    (科)学者が作り出した「テスト問題」は、意味を問うことではないのかもしれない。って、ふと。
    ん〜ん、意味は問題ではない、といいうことを意味するのかな?

    だいたいこんな感じかな、p297のところからわたしに思われのは。

引用返信/返信 削除キー/
■27871 / inTopicNo.15)  Re[85]: :「意味」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/12/11(Sun) 16:59:55)
    No27865で、「意味」のイミージの輪郭ぼやけながらもできてきたところで、メルポンの、きょうはもうちょっと進めとく。

    つぎに、〔言語は意味をもっている〕を見て見ます。ここのところは短いから全部ね。

    ********
    ところが実は、経験主義的もしくは機械的心理学と、主知主義的心理学との間の、血縁関係の存在に、今再び注目しなくてはならないのである。前者の主張から後者の反論に移ったからとて、言語の問題は解決するものではない。先ほどは語の発生、語心像の復活ということが本質的であった。今やそれらは、真の呼称と内的な作用としての本来の発言の、外被以上のものではない。とはいえ、この二つの考え方は、いずれにとっても語が意義をもっていないという点で、一致している。

    第一の考え方においてこの点は明白である。というのは、それによれば語の喚起はいかなる概念によっても媒介されず、与えられた刺激もしくは「意識の諸状態」が神経機構の法則もしくは連合の法則に従って語を呼び起こすことになり、したがって語はその意味も内的な能力ももつことなく、客観的な因果の戯れによって呼びさまされる、心的、生理的、いや物理的とさえいえるひとつの現象、他の諸現象と並ぶ一つの現象にすぎないからである。呼称に範疇的作用を重ねたからといって、事情は変わらない。語は依然としてそれ固有の効力を奪われている。なぜなら、このたびは語は内的な再認の外的な記号にすぎないし、この内的な再認は語が伴わなくても成立することが可能であり、したがって語はそれに何の貢献もしていないからである。語の背後に範疇的作用があるのだから、それは意味を剥奪されてはいない。しかしそれは意味をもってはいない。所有してはいないのだ。意味をもっているのは思惟だけであり、語は依然として空虚な外被にすぎない。それは単なる調音的・音声的現象にすぎないか、あるいはこの現象の意識にすぎない。しかしいずれにせよ言語は思惟の外的付随物以上のものではない。

    第一の考え方は有意味なものものとしての語の手前にとどまっている。第二の考え方はその向こう側に立つ。前者には語るひとというものがなく、後者には、なるほど主体はあるが、これは語る主体ではなく考える主体である。言葉そのものに関しては主知主義は経験主義と殆ど変わらない。そしてこれと同様、自動現象による説明ないしですますことはできない。範疇作用がいったんおこなわれても、それをしめくくる語の発言ということが、依然として説明されねばならない。語は生気のない単なる外被だから、この説明は再び生理的、もしくは心的メカニズムによることになる。それゆえ、語は意味をもつという単純な注意によって、経験主義と同じように主知主義も超えられる。
    ********

    「意義」っていうのが出てきてるから、またネットで調べたよ。
    【意義】
    @ 言葉などの表現によってあらわされる意味、内容。
    A 言葉、事柄、行為などが現実にもつ価値。ねうち。多く、重要なものをいうのに用いる。
    (精選版 日本国語大辞典)
    →ここから「意義」を「意味」と「価値」の両方が含まれてる語としとく。

    ここのを簡単にして見ると、

    「経験主義・機械的心理学」
    →有意味なものものとしての語の手前にとどまっている
    →語る主体(ひと)が存在しない
    「主知主義的心理学」
    →有意味なものものとしての語の向こう側に立つ
    →主体はあるが、これは「語る主体」ではなく「考える主体」である
    そして、
    『いずれにとっても語が意義をもっていないという点で、一致している。』
    『語は意味をもつという単純な注意によって、経験主義と同じように主知主義も超えられる。』

    って、メルポンは見てるんかな?ここらへん、わたし経験主義とか主知主義、詳しくないからなんともいえない。

    ここのところから私に思われたのは、

    素朴的経験的わたしの生活世界では、「話す主体(ひと)が存在する」っていうのふつうよね。
    ふつうに、だから忘れがちになるんかもしれないけど、これ忘れないようにしとこって。
    そして、「話すひと−それを聞くひと−会話」、この関係性のうちで、言葉、意味が問題となってくるのかもしれない、って。

    『語の背後に範疇的作用がある』、
    「範疇作用」っていうのを「概念作用」ってして見た。
    No27822の(最新 心理学事典「概念」の解説)にあるような、
    (4)多様な経験をなんらかの基準により抽象化して類別し整序する機能を概念作用conceptionとよぶ
    の意味でね。
    わたしのでいえば、
    語の背後に「分類する・類」作用がある、っていうことになるのかな。
    No27832や、
    No27848で、
    見てきたように。

    『語は意味をもっている』、『語は意味をもつ』って、なんかあたりまえじゃん、って思うよね。
    メルポンのいう「もつ」っていう用語の使い方はけっこう難しそうなんね。そこんとこは書かないけど、わたしの勝手な見方では、『語は意味をもっている』の『いる』を「ある」、いいかえると「存在する」みたいなんでわたし見るのね。「語は意味をもってある(存在する)」みたいに。あと、『もつ』もおなじように見て、「語は意味をある(存在する)」、なんかヘンだけど、こういうふうに。
    「語」と「意味」の関係性についてのメルポンの見方・考え方なんだとわたし見てるんだけど、
    他のところに、
    『言葉(パロール)は思惟の記号ではない。言葉と思惟とがいずれも主題的に与えられている場合にのみ両者の間にこのような外的関係が成り立つであろうが、実は両者は相互に他方のなかに含まれているのであって、意味は言葉のなかに嵌め込まれ、言葉は意味の外的実存なのである。』
    っていうのあって、「意味は言葉のなかにはめこまれている」とか、あとほかのところに「意味が語に住まう」みたいな表現もある。
    わたし、メルポンのこういうのに倣ってるんだけど、でも、ちょっと違えて、わたしのは、〈意味に語が住んでいる〉っていうふうにいまのところ見てる。

    『範疇作用がいったんおこなわれても、それをしめくくる語の発言ということが、依然として説明されねばならない。』ってあるけど、じつはこの次にあるのが
    No27469、〔言語は思惟を予想するのではなく、それを成就する〕
    になるんね。
    ついでだから、ここにあるのをまた一部書き写しておく。
    *********
    p297そして異国において単語の意味を私が理解し始めるのは行動の文脈におけるその位置からであり、また共同の生活に参与することによってであるように、同様にまだよく理解されていない哲学的文章でもすくなくともある「スタイル」――スピノザ的スタイルとは批判主義的、もしくは現象学的スタイルとか――を私に知らせるし、このスタイルはその意味の最初の粗描なのだから、私はこの思想の実存の仕方のなかに忍びこみ、哲学者の語調、アクセントをまねることによって、哲学者を理解し始めるのである。要するにいかなる言語もみずから自己を告げ知らせ、その意味を聴取者の精神のなかに注ぎ入れるのである。初めのうちは理解されなかった音楽や絵画も、もしほんとうにそれらが何ごとかを語っているならば、ついに理解する仲間をみずから創りだすようになる、つまりみずからその意味をにじみ出せるようになる。散文や詩の場合には、発言(パロール)の能力はこれほど明白ではない。というのも、自然的な知覚に現れるがままのパレット上の色彩だとか、楽器のなまの音などは、ある楽曲の音楽的意味やら一幅の絵の絵画的意味やらを形づくるに十分でないことが一目瞭然であるのに、どのような文章であれ、それを理解するのに必要なものを、ことごとく単語の普通の意味のうちにすでに所有しているかのような錯覚を、われわれはもつからである。しかしほんとうは文学作品の意味は単語の普通の意味から成り立つのではなく、むしろ作品の意味こそ単語の意味の変化に寄与しているのである。それゆえ、聴取者もしくは読者の側にも、語り手あるいは著述者の側にも、主知主義が思いも及ばぬ言葉(パロール)における思惟なるものがあることになる。
    *********

引用返信/返信 削除キー/
■27865 / inTopicNo.16)  Re[84]: :間奏
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/12/11(Sun) 10:33:47)
    おはようございます。

    No27832で、
    超簡単に、(dobe) (doce) (dode) (cafe) (cahe) (doie)、こんなのつくって
    No27848を考えて見たんだけど、
    じっさいはもっと多様複雑なのかも。

    「意味」について、わたしに見えるようにしようとしてるんだけど、このごろ「イメージ」っていう語に関心が湧いてきてる。

    ネットで調べたの、一部コピーしとく。

    【イメージ】(英)image
    ・・・・・・・・・・・・
    ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「イメージ」の解説

    ラテン語の imago (似像) に由来する。心像の意。
    (1) 普通は観念を知的表象としてイメージから分つが,観念の源泉を感覚に求めた D.ヒューム,Th.ホッブズら経験論者は両者を同一視する。その場合でもイメージを形成するのは経験であって,外界からの直接的刺激によって形成されるとするエピクロスのエイドラとは区別される。イメージは広義においては知覚心像を含み,普通は想像や想起によって形成される心像をいう。イメージを観念と同一視する経験論では,それは意味のにない手とされるが,G.バークリーはイメージは必ず個別的であって普遍観念のイメージは形成しえないことを主張した。 J. P.サルトルはさらにイメージの存在自体が意味作用や対象指示作用に依存していることを指摘し,この点で画像との類似を認めるが,イメージではある建物の柱の数を数えられないように,それは物ではなく,意識の作用である点,画像と区別されるとした。
    (2) イメージは物に対してのみならず,人間とその集団に対しても成立する。マス・メディアを中心とする通信技術の驚異的な発展は,膨大なメッセージを地球上にあふれさせ,現代人は何一つ体験することなしにあらゆる事象に対してイメージを形成しうるため,擬似イベントが事実を凌駕するという「幻影 (イメージ) の時代」に住むといわれる。国際政治の場では,豊富なメッセージは無知のカーテンを破って,より正確な対外イメージの形成を可能にするというプラスの側面と同時に,イデオロギーと結びついたイメージが硬直化し,国家間の相互理解を一層困難なものにするというマイナスの傾向も存在する。イメージの定着化という目標のためには,メッセージは可能なかぎり単純化され,シンボルという形に凝縮される。国際間の心理戦争におけるデマゴギー,企業宣伝のための商標,大衆運動におけるスローガンなどはその典型的な例であるといえる。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・

    〔エピクロスのエイドラ〕? ネットで調べて見た。
    ・・・・・・
    世界大百科事典内のエイドラの言及
    【エピクロス】より
    …彼はデモクリトスの説を継承して原子論の立場に立った。自然界の事物は原子から構成されている合成物であるが,合成物の表面からは絶えず〈エイドラeidōla〉が流出している。それは多くの原子からなるいわばフィルムのようなものであるが,それが感覚器官の内にあって同じく原子からなる魂を刺激することによって感覚が成立する。…
    ・・・・・・
    なんかよく分かんないけど、これ、ちょっと無視。

    ふと思ったんだけど、「イメージ」を「意味」ってしちゃおっかな〜、って。
    イメージを”言葉で“表現する、っていうのけっこう難しい気がしてる。でも、なにか”そのようなもの“っていうのあるよね。

    No27792のところはだいたいこれでおしまい。
    〔Y表現としての身体と言葉(パロール)〕のところ、まだつづけま〜す。

    なんかpipitさまの「純粋理性批判を読んでみる」みたいに、わたしのは「メルポンのを読んでみる」になってる。

引用返信/返信 削除キー/
■27848 / inTopicNo.17)  Re[83]: :「意味」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/12/10(Sat) 15:59:20)
    つづきです。
    No27832、こういうのから、

    『一つの対象の名を挙げるということは、それがもっている個性的なもの、それ独特のものから離れて、そこにひとつの本質、あるいはカテゴリーの代表を見ることだからである。患者が見本の名を挙げることができないのは、赤とか青とかという語の語心像を失ったからではなく、感覚的与件を一つのカテゴリーのもとに包摂する一般的能力を失ったからである。つまり、彼が範疇的態度から具体的態度に舞い戻ったからである。』------(a)

    を見ていって見るよ。

    わたしは個々の事物、(dobe) (doce) (dode) (cafe) (cahe)を経験するなかで、わたしのうちに、これらのなかから共通の性質、(do)と(ca)が抽象されて、〔(dobe) (doce) (dode)〕と〔(cafe) (cahe)〕に括られ、分けられて、それぞれ(do)類と(ca)類っていうのができて(分類する・類)、そして、たとえばそれぞれ「イヌ」「ネコ」っていう語がくっつく(分類する・類+語)。

    ってして見たのね。

    でね、
    わたしのうちにこういうの出来上がってるところに、

    ある日、わたしの目の前に(doie)があらわれるのね。そしてわたしはそれを「イヌ」って呼ぶの。

    『一つの対象の名を挙げるということ』っていうのはこういうことなんじゃないかしらってね。
    『一つの対象』が(doie)で、『名』が「イヌ」(分類語)ね。

    『それがもっている個性的なもの、それ独特のものから離れて』のところ、
    わたし(doie)の(i)を、(doie)に固有な性質(個性的なもの、それ独特のもの)として描いてるんだけど、
    →(doie)の(i)から離れて、ん〜ん、まだ(e)はあらわれてきてないこととして、(ie)ってする。
    →(doie)の(ie)から離れて、

    『そこにひとつの本質、あるいはカテゴリーの代表を見ることだからである』のところ、
    『本質的なもの』と見るかどうかは別として、『カテゴリー』を「類(分類されたもの)」ってして、
    →すでにわたしのうちには(do)類(分類語としては「イヌ」ね)っていうのがあって、その(doie) を見たとき、(doie)のなかから(do)が抽象され、(ie)が捨象されて、(doie)を(do)類として見る。
    →(doie)を(do)類の代表として見ている。

    こいうことなんじゃかいかって。

    『患者』のばあいを見て見るね。
    『赤とか青とかという語の語心像を失ったからではなく』のところは、
    『赤とか青とかという』語じゃなくて、この場合「イヌ」という語で見て見るね、
    →患者は「イヌ」という語の『語心像』(表象、観念、イメージ)を失ったからではなく、

    『患者が見本の名を挙げることができないのは』、
    →ある日、わたしの目の前にあらわれた(doie)の名を挙げることができない
    →わたしは(doie)を見て、それを「イヌ」って呼ぶことができない、
    のは、

    『感覚的与件を一つのカテゴリーのもとに包摂する一般的能力を失ったからである』、
    →わたしに見られた(doie)の感覚与件を、わたしのうちにすでにある一つの(do)類というもののうちに入れることができなくなったからである。

    『つまり、彼が範疇的態度から具体的態度に舞い戻ったからである』、
    →つまり、わたしは「分類する・類」(範疇的態度)という態度から、具体的態度に舞い戻ったからである。
    →わたしは、(doie)を見たとき、それを(do)類で見ることができなくなって、それを(doie)として見ることに舞い戻ったからである。

    『具体的態度』っていうのが、(doie)を(doie)で見る、っていうことなのかは、いまんとこ分かんない。
    【具体】
    1.全体をそなえていること。
    2.物事が、直接に知覚され認識されうる形や内容を備えていること。
    だった。
    「これはこれ」「それはそれ」として見る、っていうこと? 「それ」を「類」として見るんじゃなくて。

    (a)のところをこんなふうに見てきたなかで、わたしに見えてきたのは、
    人間には、一般的に、世界を「分類する・類+語」する能力があって、それによって、こんどは現前する個別的事物を分類語で呼ぶようになる。
    っていうの。

    でもね、わたし犬に置きかえて見てきたんだけど、健忘症の例では、例えば「赤」っていう色を見せて、っていうことみたいだから、現前するものには変わりないんだけど、「赤」と「犬」とは意味合いが違う感じがするから、ここらへんはよく分かんない。

    いずれにしても、世界を、〈分類する・類+語〉から〈現前する事物を分類語で呼ぶようになる〉っていうの、わたしあると思ってる。
    これって、一般的に、人間のアプリオリなんじゃないかしらって。

    フッサールの『デカルト的省察』のなかの
    『すでに物が見えている子供は、例えばハサミの使い方を初めて理解した後では、一目で直ちにハサミをハサミとして見るようになる。しかし、それはもちろん顕在的な再生産や比較によってでもなければ、或る推論を行うことによってでもない。とは言いながら、では、どのようにして統覚が生じるのか、さらに、どのようにして統覚はその意味と意味の地平を通じてそれ自身でその発生を志向的に遡って指示しているのか、については非常に多様である。対象的意味の段階形成には、統覚の段階形成が対応している。結局、私たちはいつも二種類の統覚の根本的な区別に戻ってくることになる。一つには、その発生からして純粋に原初的領分に属するような統覚と、もう一つには他我という意味とともに現れ、より高次の発生のおかげで、この意味のうえに新しい意味を積み重ねるような統覚、という二つの統覚の区別である。』
    っていうのを想いだしてる。

引用返信/返信 削除キー/
■27832 / inTopicNo.18)  Re[82]: :「意味」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/12/09(Fri) 19:51:38)
    No27822のつづきで〜す。

    No27792で、
    メルポンは、「色彩の名称に関する健忘症」の例を挙げて、健忘症のひとは、『眼の前に提示された色彩の名称を挙げることができない』ことについてNo27822 の(a)のように考えて見てるんだとわたし思ったのね。
    〔眼の前に提示された色見本〕(現前する物)―〔カテゴリー、範疇〕―〔赤とか青っていう色の名〕、との関係性について、
    ――わたし、〔カテゴリー〕〔範疇〕を「分類する・類」ってして、〔赤とか青〕っていう色の名を単に「語」ってして見て――
    簡単に言っちゃうと、現前するものを見てその名(語)を言う(発語できる)こと、と「分類する・類」との関係性について、考えてみたんね。
    でもね、
    健忘症の例は、赤色の何かを提示して、これは何色?って聞くと、そのひとはそれを「赤」っていう語を発することができない、っていうことなんだとわたし思ってるんだけど、これからわたしのお喋りはそれとは違うかも、っていうのをふまえといてね。

    ちなみにネットで調べたんだけど、
    【健忘症】:健忘症とは、記憶障害の一つです。わかりやすく言うと、「もの忘れ」が頻繁に起こることです。
    ってあった。「もの忘れ」、わたしもたまにある。認知症のも書いてあった。あ、また横道にそれちゃうから、これは横に置いといて、メルポンのを見てくことにする。

    で、
    「分類する・類」と「語」の関係性をわたしに見えるようにするために、ちょっと考えて見たよ。

    まず、次のような5つの具体的な現前する個々を考えて見たのね。
    (個々)――(dobe)、 (doce)、 (dode)、 (cafe)、 (cahe) ――って。
    括弧内のアルファベットは個々のもつ諸性質だとしてる。
    カッコ内のb、c、d、f、h、はそれぞれの個特有の性質としてる。
    こんなのつくったのは次のようなことを表現するためね。

    (dobe)、 (doce)、 (dode)、 (cafe)、 (cahe)、これらを共通する性質で分けるのね。
    @ 〔(dobe) (doce) (dode) 〕
    A 〔(cafe) (cahe)〕
    ってするね。この分け方は、@は(do)を、Aは(ca) を共通する性質として見て、それで括って分けたのね。これを(do)類と(ca)類に分類した、っていうことにするね。
    もう一つ、
    (e)はすべてに共通してる性質として見て、それで括ると、
    B 〔(dobe) (doce) (dode) (cafe) (cahe)〕
    これは(e)類っていうことにするね。

    超簡単に、こういうのが「分類する・類」っていうことだとして見たのね。

    ひとまずここではBは横に置いといて、@、Aという分類の仕方で見ていくことにするよ。
    ようするに、こういうこと、
    わたしが、個々の事物、(dobe) (doce) (dode) (cafe) (cahe)を経験するなかで、わたしのうちに、これらかのなかから共通の性質、(do)と(ca)が抽象されて、〔(dobe) (doce) (dode)〕と〔(cafe) (cahe)〕に括られ、分けられて、それぞれ(do)類と(ca)類っていうのがわたしのうちにできていく。

    こういうので、「概念」を見て見る。
    「概念」
    (1)本質的特徴により区別された事物の類,また類別する思考様式。
    (4)多様な経験をなんらかの基準により抽象化して類別し整序する機能を概念作用conceptionとよぶ。
    ってしたとき、なんか「分類する・類」に似てるよね。
    抽象された(do)と(ca)(類)を「概念」ってしてもいい?「意味」と「概念」が同義だとしたとき、(do)と(ca)が「意味」っていうことになる?ん〜ん、ここらへんはまだわたしのなかでは未確定。
    ただ、「概念」については、〔思考様式〕ってあるから、あくまでも“思考の領域における”「分類する・類」ということにしとく。

    あと、このときなにが起こってるかっていうと、(dobe) (doce) (dode) (cafe) (cahe)のなかから、共通する性質を抽象する、っていうことは、(be) (ce) (de) (fe) (he)が捨象されている、っていうことになるよね。正確には(b) (c) (d) (f) (h)が捨象されてるんだろうけど、いま見てるのは@、Aの分類の仕方だけで見てるからね。だからこのばあい(e)という共通性質で分類することがまだ隠されてるっていうことにしたよ。
    わたしに見えてきたのは、「分類する・類」は抽象と捨象が同時におこなわれている、っていうこと。
    ちなみに、フッサールは『捨象エポケー』みたいなこと言ってるけど。

    で、次に、ん〜ん、っていうか、ほぼ同時的にかな?
    (do)類、(ca)類に、それぞれに名(語)が付けられるのね。たとえば@に「イヌ」、Aに「ネコ」っていう名をつけるね。
    類に語がくっつくのね。こういう語をわたし〈類に付けられた語(名)〉ってう意味で「類語」って呼ぶことにしようと思ったんだけど、この語とその意味、既成のがあった。
    【類語】:意義の似通った語。類義語。
    って。
    わたしの意味はこういうんじゃないから、「分類語」ってすることにした。
    「イヌ」とか「ネコ」っていうのは分類語っていうこと。

    【普通名詞】
    1〘名〙 (common noun の訳語) 名詞の下位分類の一つ。固有名詞に対して、ある類に属する個物のすべてに通じて適用される名称を表わす語。日本語では、固有名詞との間に、文法上の差異はない。(精選版日本国語大辞典)
    2名詞の一。同じ種類に属する事物を広くさすことのできる名詞。→固有名詞 (デジタル大辞泉)
    【固有名詞】
    名詞の一。同じ種類に属する事物から一つの事物を区別するために、それのみに与えられた名称を表す語。人名・地名・国名・書名・建造物・年号などの類。(デジタル大辞泉)

    っていうみたいだから、わたしの言う「分類語」っていうのは「普通名詞」のことになるのかな。
    でもこの解説では、「個」と「類」の関係で、「類」から「個」へ、っていうニュアンスが感じられる。素朴的経験的わたしにおいてはその逆、「個々」から「類」へ、っていうイメージ。あ、これ、ふと思っただけ。

    こういうふうなんから、「分類する・類」と「語」との関係性について、わたしに見えたのをまとめると、
    「分類する・類」の「類」に「語」がくっついて、「分類する・類+語」っていうことがわたしのうちでは起こってる、っていうことかな。


    犬飼ってる人はその犬に名前をつけてると思う。たとえば名前を「モモ」ってしたとき、その犬を呼ぶとき、「モモちゃん」って呼ぶんで、「イヌ」とは呼ばないと思う。この時点でその犬は「イヌ」じゃなくなって「モモちゃん」になるのね。ん〜ん、類から個へ、っていうことになるのかな。こういう感覚ってあるんじゃないかしら?「モモちゃん」は「イヌ」なんだけど、「モモちゃん」の意味と「イヌ」の意味は違ってくる、みたいな。

    こういうんで次にNo27822の(a)を見ていくことにしま〜す。

引用返信/返信 削除キー/
■27822 / inTopicNo.19)  Re[81]: :「意味」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/12/08(Thu) 18:43:22)
    No27792でわたしがいちばん気になったのは、p292の、

    〔一つの対象の名を挙げるということは、それがもっている個性的なもの、それ独特のものから離れて、そこにひとつの本質、あるいはカテゴリーの代表を見ることだからである。患者が見本の名を挙げることができないのは、赤とか青とかという語の語心像を失ったからではなく、感覚的与件を一つのカテゴリーのもとに包摂する一般的能力を失ったからである。つまり、彼が範疇的態度から具体的態度に舞い戻ったからである。〕------(a)

    っていうところ。
    ここんとこを見ていくことにする。

    わたし「心像」を、「表象」「観念」「イメージ」ってしといた。
    だから「語心像」っていうのは、「語の表象」「語の観念」「語のイメージ」っていうことになるのかな。

    「範疇」は、
    (1)同じような性質のものが含まれる範囲。カテゴリー。
    (2)哲学で、あらゆる事象をそれ以上に分類できないところで包括する一般的な基本概念
    ってあった。
    わたしのばあい、(1)の方にしとく。
    あと、
    (2)に「概念」っていうのあるけど、ネットで調べたたらいっぱいあったけど、簡単に、

    【概念】(英)concept (仏)concept(独)Begriff
    (最新 心理学事典「概念」の解説)
    (1)本質的特徴により区別された事物の類,また類別する思考様式。
    (2)本質的特徴とその連関を概念の内包connotation,intension,内包を共有する事物の集合を概念の外延denotationとよぶ。たとえば「少年」は,「年少」(おおむね5〜6歳から11〜12歳),「男性」という内包をもち,その外延は隣接する概念,「青年」などとを区切る境界をなす。
    (3)概念は判断・推理と並ぶ古典論理学の基本機能であり,思考作用はこの階層をなす三次元に沿って進行するとされたため,思考心理学でも基本概念となった(矢田部達郎『思考心理学1概念と意味,2関係と推理』1948〜49)。
    (4)多様な経験をなんらかの基準により抽象化して類別し整序する機能を概念作用conceptionとよぶ。

    あと、ネットで調べたのは、
    【具体】
    1.全体をそなえていること。
    2.物事が、直接に知覚され認識されうる形や内容を備えていること。
    これに関連して、
    【抽象】
    1.与えられた対象全体から、特定の性質や共通の徴表を分離し、抜き出す精神作用をいう。
    2.経験されたもののなかのある特性に注目してこれを取出し,ほかを捨てること。
    3.〈具体〉に対し,世界の中からある特性だけを引き離して思考の対象とする知性の働き。
    【捨象】
    物事の表象から、一つまたはいくつかの特徴を分けて取り出す抽象を行なう場合に、それ以外の特徴を捨て去ること。また、概念について抽象する場合、抽象すべき特性以外の特性を捨て去ること。抽象作用の否定的側面。
    だいたいこんなの。

    だいたいこんなところで(a)に出てくる語の下調べはいいかな。

    「分類」=事物を共通な性質に基づいて種類に分けること。
    ってして、
    けっきょく、「範疇」「カテゴリー」「抽象」「概念」っていうのは「分類すること→分類されたもの」にかかわってる感じ。
    「分類されたもの」を「類」ってして、「分類する・類」って簡単にしとく。

    No27763に、
    意味は、〔言語を中心とする、広義の記号の機能、用法、内容をいう。したがって、概念、命題(文)、命題が形成する文脈などはすべて意味をもつ。意味は人類の知的な範疇のなかで基本的なものの一つ〕
    ってあった。
    簡単に、
    「意味」は、言語を中心とする、人類の知的な範疇のなかで基本的なものの一つ。
    ってして見たんだけど、まだわたしにはよく分かんない。

    こんなこと考えながら、(a)のところについて、いろいろ考えてて、こんな感じかな?っていうのが見え隠れしてるんだけど、まだそれを上手に言葉で表現できないでいる。
    No27469にあるような、
    『言葉は発語する人にあって、既成の思想をいい表すのではなく、思想を完成(成就)するのである。』
    みたいなのかな。

    つづく

引用返信/返信 削除キー/
■27800 / inTopicNo.20)  Re[80]: :
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/12/06(Tue) 19:38:45)
    わたしは、見えているものを描いている?
引用返信/返信 削除キー/
■27798 / inTopicNo.21)  Re[79]:「 世界」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/12/05(Mon) 20:35:04)
    ふと、こころにうつりゆくこと、書きとめとく。

    ここでは外人さん(外国で暮らす日本人?も同類)には理解できないこと。

    「世界」っていう語。
引用返信/返信 削除キー/
■27792 / inTopicNo.22)  Re[78]: 「意味」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/12/04(Sun) 17:57:37)
    〔失語症における経験主義と主知主義、いずれも説明としては十分ではない〕
    の一部を写して見ます。

    ************
    p290語の調音の障害たる構語不能不全(anarthrie)から、知能障害を必ず伴う真正の失語症が確認され、――事実上第三人称的な運動現象にすぎない自動的言語のほかに、大多数の失語症において問題となる唯一の機能たる意図的言語が見分けるようになったとき、失語症ならびに言語の理論は完全に一変したかと思われた。「語心像」の個体性は事実解体した。患者が喪失した正常人が所有しているものは、語の一定の貯蔵ではなく、それを使用する一定の仕方である。

    自動的言語の平面においては患者の思うがままになる同じ語が、動機なく自由にしゃべる言葉(langage gratuity)の平面においては彼から逃れる。――例えば医師の質問を拒むためには、すなわち現実に体験された否定を意味するときには、「否」という語を造作なく見いだす同じ患者が、感情的な生活的な興味のない言語行使においてはそれを発音することができないのだ。したがって語の背後に一つの態度が、つまり語を条件づける発語(パロール)の機能が発見されたのである。行動の道具としての語と、欲得を離れた単なる呼称の手段としての語とが区別された。「具体的な」言語は依然として第三人称的な過程であったが、動機のない自由な言語(langage gratuit)、本来の呼称は、思惟の現象となったのである。そして若干の失語症の起源は、ほかならぬ思惟の障害のなかに求められなければならないとされた。

    p291例えば色彩の名称に関する健忘症は、患者の全体的な行動のなかに戻してみると、いっそう一般的な障害の特殊な現れとして見えてくるのであった。眼の前に提示された色彩の名称を挙げることができない患者は、またこれらの色彩を与えられた命令に従って分類することも、同様にできないのだ。例えば色の見本を基調となる色あいに従って分類することを求められると、彼らは正常なひとよりゆっくりと細心にやることが、まず観察される。彼らはひと目で「和合する」色を捉えるのではなくて、比較すべき見本をいちいち互いに近づけてみる。そのうえ、多数の青いリボンを正しく集めたあげくに、彼らは不可解な誤謬をおかすのである。例えば最後の青いリボンがうすい色調のものであれば、彼らはこれに続いて「青」の集まりにうす紫やうすばら色を加える。−―あたかも、指定された分類原理を維持し、終始一定の観点から見本を観察することができないかのようである。それゆえ感覚の与件を一つのカテゴリーのもとに包摂し、いくつかの見本を青という形相の事例としてまとめて見ることが、彼らには不可能になったのだ。実験の初め彼らが正しい処置をしているときでさえ、彼らを導いていたのはいくつかの見本が一つの理念にあずかっているということではなくて、直接の類似の経験である。彼らが見本を互いに近かよせて比較した後に初めて分類できるというのは、このためである。

    p292分類の実験は患者におけるある根本的な障害の存在を示しているのであって、色の名称に関する健忘症は、そのもう一つの現れにすぎないであろう。なぜなら一つの対象の名を挙げるということは、それがもっている個性的なもの、それ独特のものから離れて、そこにひとつの本質、あるいはカテゴリーの代表を見ることだからである。患者が見本の名を挙げることができないのは、赤とか青とかという語の語心像を失ったからではなく、感覚的与件を一つのカテゴリーのもとに包摂する一般的能力を失ったからである。つまり、彼が範疇的態度から具体的態度に舞い戻ったからである。これらの分析、その他の同様な分析は、一見、語心像の説の正反対にわれわれを導くように見える。というのも、言語は今や思惟によって条件づけられたものとして現れるからである。
    ************

    いろいろ分かんない語があるけど、
    いくつか調べて見たよ。

    【経験主義】
    @ 哲学で、あらゆる認識の源泉は経験にあり、経験的事実だけが真理の基準であると考える立場。
    経験論。⇔合理主義。
    A 物事を理論より経験に基づいて考えようとする態度。
    (精選版 日本国語大辞典精選版)

    【主知主義】
    @ 一般に知性を重んじる立場。主知説。
    (イ) 認識論で、感覚主義や経験主義に対し、真理は理性によって得られると説く合理主義の立場。プラトン、アリストテレス、デカルト、カントの立場。
    (ロ) 感情、意欲、行動よりも思惟と認識をより優位に置く立場。プラトン、スピノザのたぐい。
    ※学生と読書(1938)〈河合栄治郎編〉読書の意義〈河合栄治郎〉六「学問の為の学問といふ立場は、〈略〉学問の価値が唯一にして最高だとすることが多い、而して此の立場が所謂主知主義(Intellectualism)と称せられるものである」
    (ハ) 倫理学で、知性や理性によってすべての行動を導こうとする主張。ソクラテス、カントのたぐい。
    (ニ) 心理学で、知性が精神生活の第一義的なもので、他の精神作用はこれに基づくとする説。スピノザのたぐい。
    A @の哲学的根拠に基づいて、知性的表現に重点をおく文学、またはその運動。特に、イギリスの、一九世紀後半のビクトリア王朝時代にあらわれた女流作家ジョージ=エリオットの作品に代表される。
    (精選版 日本国語大辞典精選版)

    【心像】image
    (1) 一般的には,外界の刺激対象なしに,つまり感覚器官に刺激作用が与えられることなしに再現された感覚的体験ないしは映像のこと。この意味では表象とほぼ同義。種々の感覚様相に応じて視覚心像,聴覚心像,触覚心像がある。一般に,現前した刺激対象に基づいて生じる知覚体験より具体性に欠けて不鮮明かつ不安定であるが,幻覚の場合のように知覚像と区別しえないこともある。 (2) より抽象的には,思考作用の過程で再現された,ないしはその過程を支持している具体的意識内容を意味し,象徴機能の一つの側面を示す。観念とほぼ同義。
    (3) 事物,事象に対して人のもつ包括的な概念,判断,嗜好,態度などの印象の全体をさす。この場合特にイメージという用語が多く用いられる。

    【包摂】
    一つの事柄をより大きな範囲の中に包みいれること。

    【範疇】(英)category (独)Kategorie
    1 《「書経」洪範の「天乃ち禹に洪範九疇を錫たまう」から》同じような性質のものが含まれる範囲。カテゴリー。
    2 哲学で、あらゆる事象をそれ以上に分類できないところで包括する一般的な基本概念。
    ㋐アリストテレスで、あらゆる存在者がその下に包摂される最高類概念。実体・量・質・関係・場所・時間・位置・状態・能動・受動の10項目。
    ㋑カントで、純粋理性概念(理念)から区別された純粋悟性概念。思惟能力としての悟性の先天的形式で、これによって悟性は対象を認識へと構成する。量(単一性、数多性、総体性)、質(実在性、否定性、制限性)、関係(付属性‐自存性、原因性‐依存性、相互性)、様相(可能性‐不可能性、現存在‐非存在、必然性‐偶然性)の4項12目。
    [類語]ジャンル・種類・種・品種・類・たぐい
    (デジタル大辞泉)

    「意味」を問題としてるから、わたしに分かんない語をネットで調べてそれをコピーしといた。

    語の意味を知ろうとするとき、辞典を見るんだけど、そこにはある語の解説として、やはり語で書かれてる。
    語の意味が語で書かれてる、っていうことね。そして解説のなかにまた分からない語が出てくるとまたそれを調べる。そしてまた…・。こういうふうに限りなく続く場合もあるかも。
    あと、語の意味にはいろんなのがあるみたい。どの意味を採用するかは人によって異なっていることもあるかも。っていうか、既成の語、そしてその意味で、っていうんじゃなくて、素朴的経験的私の意味、っていうのもあるんじゃないかな〜、って。なにも既成の意味に従わなくてはならない、っていうことでもない気がする。
    No27553でメルポンが言ってるように、
    『われわれは言葉が制定されている世界のなかに生きている。』なんだけどね。

    ちょっと長くなっちゃんで、
    ここんところからわたしに見えてきたものは後で。

引用返信/返信 削除キー/
■27789 / inTopicNo.23)  Re[77]: 間奏
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/12/04(Sun) 15:27:33)
    「失語症」の例をメルポンは見てるようなんだけど、わたしその実際のを知らないし、しかも『知覚の現象学』は1945年の本だし、いまの失語症の説明とは異なるのかもしれないし、そこらへんはよく分かんない。

    ふつうに言葉を喋ったり、聞いたり、読んだり、書いたりすることがあたりまえ(自明なこと)にできてること、から、そうではない状態(このばあい、失語症)を見ることによって、逆にあたりまえになっていることが見えてくるのかもしれない。

    No27573、 
    フッサールの『デカルト的省察』の訳注に、
    〔フッサールは『論理学研究』においてもこう述べていた。「哲学者はまさに《自明なこと》の背後に最も困難な諸問題が隠れていることをも当然承知していなければなるまい。逆説的ではあるが、しかし深い意味をこめて、哲学とは平凡な事柄についての学であるとさえ言えるほどである」と。〕

    っていうのを想いだした。

引用返信/返信 削除キー/
■27788 / inTopicNo.24)  Re[76]: 「意味」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/12/04(Sun) 15:18:22)
    「意味」に焦点を当てて、
    メルポンのを見てくことにしま〜す。

    (Y)「表現としての身体と言葉(パロール)」のとこの見出しは、

    (1)〔失語症における経験主義と主知主義、いずれも説明としては十分ではない〕
    (2)〔言語は意味をもっている〕
    (3)〔言語は思惟を予想するのではなく、それを成就する〕
    (4)〔言葉における思惟〕
    (5)〔思惟は表現である〕
    (6)〔身振りの了解〕
    (7)〔言語的身振り、自然的な記号も、また純粋に約束的な記号も存在しない〕
    (8)〔言語における超越性〕
    (9)〔失語症における現代理論による確証〕
    (10)〔言語と世界とにおける表現の奇蹟〕

    です。

    No27469は、(3)の一部を、
    No27553は、(5)の一部を、
    を書き写したのね。

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