| シリーズ世界の思想『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』古田徹也 著 を読む、を本当に久しぶりに。 本を開くのが久しぶりです。 続きのところから少し読みました。 p60〜p73です。
像と写像形式についてのところ。 ここ、以前にももしかしたら投稿で触れたのかな。。 まぁ、それはそれとして。。
このあたりとても興味深い、そして理解しやすい記述となっていてありがたいです。
メモ書き、覚書のような感じで以下、自分なりにまとめます。
像 というのは、命題 のこと。 像は現実を写し取る模型とも言える。
像の要素と事態の要素との間で一致する形式が、「像の写像形式」。
像が、写し取る現実と共有していなければならない何かの総称が「論理形式」。
写像形式一般の本質とは何か、像一般の本質とは何か、ということが『論考』の関心事。
写像形式は、語りえず示される。 像とそれが写し取る現実との間で何を共有しているかを語ることは不可能。 しかし、語りえなくても、像が像として働いていることは、対応する現実との間で何らかの写像形式が共有されていることを示している。
ここだけ具体例を。
今、実際のところ、私(みのり)は裸足でいて足が冷たいです。(笑) 靴下はこう〜、この後。
・・・ 10月だというのに、みのりは裸足でいるので足が冷たい。 後で靴下をはこう。 ・・・ という命題があり。
10月、みのり、裸足、足、冷たい、靴下、はこう。 こんな形式(単語)が命題の中にちりばめられていて・・ みのりというのは誰か人の名前らしいということも含めて、その他の単語もすべて現実にあるものを写し取っているので間違いないです。
しかし、10月、みのり、裸足、冷たい、靴下、はこう、と言った形式(単語)がちりばめられた命題と 現実 との間で何を共有しているのかについて語ることは不可能だということ。
つまり、写像形式は語りえず示される。
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