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■26654 / inTopicNo.85)  Re[13]: 「現象」御子柴先生の
  
□投稿者/ pipit -(2022/09/23(Fri) 18:08:02)
    2022/09/23(Fri) 18:09:20 編集(投稿者)

    悪魔ちゃん、こんばんは!

    >No26581、にお礼の。<

    こちらこそ、ありがとう
    悪魔ちゃんのいろんな問いかけのおかげで、中山先生訳本7巻を、いつのまにか一応全冊開いてみたことはあるみたい
    (*^^*) 開いただけやけど。。。

    No26618
    > 「現象」という語にがぎらず、哲学者によって、使う用語の“意味が異なってる”場合がある気がしてる。
    だからややこしくなっちゃう。
    >現象学における意味での「現象」で、カントの「現象」を見たり、カントにおける意味での「現象」で、現象学の「現象」を見ちゃうと意味が分かんなくなっちゃう。
    >もともと[Erscheinung]、[ Phanomen]、って語が異なるんだから、日本語でも異なる語にすればいいのにね。
    >日本語で「現象」という語が出てきたら、
    a.“現れ”という意味として。
    b.「おのれをしめす当のもの」という意味といて。もっともこれは現象学を見るときの意味としてしか通用しないかも。<

    pipitにはまだ「おのれをしめす当のもの」がどんな意味かわからないけど、悪魔ちゃんと会話したりで少しずつでもわかってくるかもだね
    (^_^)


    No26618
    > どういう意味で「現象」というのが使われているのか、だいたいこの三つに大きく分けて見ることになった。
    これでだいぶ簡単になって、わたしにわかりやくすなった気がする。<

    それぞれ納得するものは個性で?違うのかもだけど(それとも普遍なのかなぁ、そこらへんはまだわからないなぁ)、
    考えて納得できて、自分の世界がすっきり思える時、わたしは好きだなぁ。


    いろいろありがとね!

引用返信/返信 削除キー/
■26615 / inTopicNo.86)  Re[12]: 「現象」御子柴先生の
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/09/23(Fri) 09:03:30)
    pipitさま、お邪魔しま〜す
    話しの流れとは別ことでごめんね。

    No26581、にお礼の。

    「現象」って日訳されてるもの、

    カントのに出てくるのは、ドイツ語で[Erscheinung]。

    >カントの文章(御子柴善之先生訳)
    >『ある対象が表象能力に及ぼす影響が、私たちが対象によって触発される限り、感覚である。感覚によって対象に関係するような直観を、経験的という。経験的直観の未規定な対象を現象という。(A19f./B34)』
    >『カント純粋理性批判』御子柴善之先生著、角川選書、p88より引用

    カントにおける[Erscheinung]−「現象」の意味、なんとなくわかりました。
    pipitさま、ありがとうございま〜す。

    現象学における「現象」って日訳されてるのと、カントにおける「現象」って日訳されてるのと意味がちがうのかな〜、って思って聞いて見ました。
    この点について、わたしのなかで整理しようと思ってるので、これは「つれづれ」のところで後で書こうと思ってます。

引用返信/返信 削除キー/
■26614 / inTopicNo.87)  日記
□投稿者/ pipit -(2022/09/23(Fri) 07:23:43)
引用返信/返信 削除キー/
■26610 / inTopicNo.88)  自己レス☆彡二律背反!B
□投稿者/ pipit -(2022/09/23(Fri) 00:09:34)
    2022/09/23(Fri) 06:22:23 編集(投稿者)

    みなさま、こんばんは!
    引用続きです。

    No26599
    > 『カント 信じるための哲学 「わたし」から「世界」を考える』石川輝吉先生、NHKブックス、p71-
    > から引用します。

    p85より引用です。
    『 カントに言わせれば、正命題も反対命題も共に誤っている。なぜそう言えるのだろうか。
    カントの答えは「それは理性の本性そのものからして」という、とてもシンプルなものだった。
    カントは理性の本性をつぎのように言う。


     理性がこのことを要求するのは、条件づけられたものが与えられているときには、諸条件の総計も、したがって端的に無条件的なものも与えられており、この端的に無条件なものによってのみ条件づけられたものは可能であったのであるという原則にしたがってである。
         --------カント 『純粋理性批判』

     理性には、条件から条件へと推論し、「条件の総計」、つまり世界全体を思い描く本性がある。しかし、この世界全体を把握しようとする本性が、じつはそもそもの問題なのだ。』

    もう少し引用したかったけど、今日はもう寝ます(><)

    pipitにとっては、とてもおもしろい説明なので、また続きを引用したいと思います。

    みなさまおやすみなさい!☆彡
引用返信/返信 削除キー/
■26600 / inTopicNo.89)  ザビビのふくろうさんへC
□投稿者/ pipit -(2022/09/22(Thu) 18:09:34)
    2022/09/22(Thu) 18:10:28 編集(投稿者)

    ふくろうさんの投稿
    No26567-26568へのpipitからの返信です。
    --------------------------------
    ふくろうさん、こんばんはー(*^^*)

    pipitの過去投稿
    No26578をふくろうさんへ@
    No26579を、ふくろうさんへA
    No26584を、ふくろうさんへB
    この投稿をC
    次の投稿をD...として、返信させていただきますね。

    pipitのいい加減な自己流概念でふくろうさんに迷惑をおかけしてすみませんでした。
    m(_ _)m

    とりあえずこの部分を、

    >まず、二律背反が「二つの異なる体系」を前提の話っていうのはちょっと確認しないと私もわかりませんが、それだと二律背反になるのか疑問です。<

    pipitが間違えてました。すみません。今勉強してます。
    間違えてましたので、とりあえず以下は前提が崩れてたとして、答えるの無しにさせていただきますね。

    >仮にそうだとした場合、例えば
    「三角形の内角の和は180度である」
    という命題は、ユークリッド幾何学の体系では真、非ユークリッド幾何学の体系では偽、となりますね。
    これ、pipitさんの考えでは、二律背反です。
    だったら、神の存在と同じで、この判断は断定できないんでしょうか?<
    あるいは、仮にユークリッド幾何学は直観的に物理的世界において真だけど、
    非ユークリッド幾何学は直観的には成り立たないから偽、なんでしょうか?
    でも、それはアインシュタインが間違いを証明しましたよね
    この場合、ふつうに受け入れやすい考えとしては、ユークリッド幾何学も非ユークリッド幾何学も形式的体系としては成り立つけど、それが物理的世界に適応可能かどうかは、物理学的問題として解決されるべきであると、そういうものではないでしょうか。<


    もしふくろうさんが、また別の問いとしてpipitに質問してくださるなら、お好きな形でお好きなように質問を書き込んでくださいね(^ ^)

    ほんとー勉強になります!
    きっかけをありがとうございます(o^^o)

    続きを全文見ていきたい、返信していきたい、と思っています。(もちろん見てもらえなくてもかまいませんからねm(_ _)m)

    ちょっと今、アンチノミーの箇所の自主勉強させてもらいますね
    (^人^)



引用返信/返信 削除キー/
■26599 / inTopicNo.90)   自己レス☆彡二律背反!A
□投稿者/ pipit -(2022/09/22(Thu) 17:39:37)
    みなさま、こんにちはー( ^ω^ )
    No26598
    >この後pipit的理解を踏まえて、石川輝吉先生の二律背反の説明を再読してみます。<

    『カント 信じるための哲学 「わたし」から「世界」を考える』石川輝吉先生、NHKブックス、p71-
    から引用します。


    『(略)カントは、ここで紹介した、理性が立てる世界の限界、世界の最小単位、自由、必然的なものという四つの「無条件者」を批判することになるのだが、この「無条件者」はそれが「ある」と答える側と、それが「ない」と答える側の争い=アンチノミーという構成をとる。
    (略)
    「第一アンチノミー」のなかには、「純粋理性批のアンチノミー」の意味が凝縮されたかたちであらわれている。
     世界とはなにか。この問いに対して、理性は、推論の果てにあるあらゆるものの究極的な条件(それ自体はもう根拠をたどれない究極的なもの、無条件なもの)を見つけるか、推論が無限に続くことを理解する(この推論の系列自体を無条件なものとする)しかない、とカントは言う。その結果生まれるふたつの命題こそが「第一アンチノミー」だ。ここにもう一度それを示しておこう。

     正命題 世界は時間的なはじまりをもち、空間的にも限界をもつ。世界は時間的・空間的に有限である。

     反対命題 世界は時間的なはじまりをもたず、また空間的にも限界をもたない。世界は時間的・空間的に無限である。

     このふたつは、世界の起源をめぐっていると考えるとわかりやすい。正命題は世界のはじまりは「ある」と答え、反対命題は世界のはじまりは「ない」と答えている。
    (略)
    このふたつの表象の対立をどう整理したらいいだろうか。アンチノミーに関連づければ、つぎのようになるだろう。

     正命題 世界全体は言葉で把握できるものとしてある。
     反対命題 世界全体は言葉で把握できないものとしてある。

     このように整理すればわかるのだが、じつは、正命題(有限性の表象)の側も 反対命題(無限性の表象)も、世界全体を言い当てようとしてることにはかわりないのだ。
     正命題が世界を全体的に言い当てようとしていることはわかるが、反対命題はどうしてそう言えるのか、という疑問はあるかもしれない。しかし、じっさいは、反対命題は表面的には世界全体を言い当てられないというのだが、そういう把握できないものとして(多様なもの、無限なもの、差異として)、やはり世界全体を言い当てようとしているのにはかわりないのだ。
     カントは、「世界とはなにか」という問いに人間の理性が答えることは不可能だと言う。
    だが、それは、正命題の有限としても、反対命題の無限としてさえも不可能、ということを意味しているのだ。では、なぜそういう意味で不可能なのか。その理由は、わたしたちの理性の本性そのものにあるとカントは言う。』

    とりあえずここまでを投稿します。
    続きは、『理性の本性』p85からです。
引用返信/返信 削除キー/
■26598 / inTopicNo.91)  自己レス☆彡二律背反!
□投稿者/ pipit -(2022/09/22(Thu) 12:36:25)
    2022/09/22(Thu) 16:49:25 編集(投稿者)
    2022/09/22(Thu) 16:47:18 編集(投稿者)

    みなさま、こんにちは!
    『二律背反』への自己レスです。またすごく勘違いしてるかもですが、現在のpipitの能力で勉強してみます!

    No26584より宇都宮芳明先生の解説から抜粋引用。
    (略)
    > そこで宇宙論的理念にかんして言うと、理性はそれぞれの系列においてもはや条件づけられていない「絶対的に無条件的なもの」を目指すが、この無条件的なものが「全系列においてのみ成立する」と見るか、それとも「系列の一部分」にすぎないと見るかによって、二律背反が生ずる。
    前者のように見れば、系列のすべての項は条件づけられたものとなり、そうした項の全体だけが無条件と考えられる。したがって遡っていく系列は無限に続くのである。
    これに対して、後者の場合は、系列はもはや無限ではなく、系列を開始する端緒の項が存在することになる。<
    (略)
    > そこでカントは、この後者の考えを「定立」、前者の考えを「反定立」として、四つの二律背反を次のように示している。<

    ------------------------

    ここ読んでなるほどー、と。
    前に石川輝吉先生の解説文章の意味がわからなかったのですが、今なら前よりはわかるかも、と、見直して見たいという気持ちが起きましたのでチャレンジしてみます。

    まず上記のpipit的理解は、理性には、物事の原因、そのまた原因、そのまたまた原因、、、と最初の根本原因がわかるまで推理したい欲望が備わってるが、
    ※訂正します。その後本を読んで、根本原因を知りたいというより究極を知りたい、の方が適切なのかなと思い直しました。
    原因なら究極としての根本原因、分割なら究極としての最小単位、みたいなかんじで、その究極的なものが『絶対的に無条件なもの』と表現されてるのかなと今は思いました。

    > > 理性はそれぞれの系列においてもはや条件づけられていない「絶対的に無条件的なもの」を目指すが、<<


    >>この無条件的なものが「全系列においてのみ成立する」と見るか、それとも「系列の一部分」にすぎないと見るかによって、二律背反が生ずる。<<

    @(全系列)の「絶対的に無条件的なもの」を求めてみる理性。

    A(系列の一部分)(一部分)(一部分)((一部分・の「絶対的に無条件的なもの」)を求めてみる理性。

    求める対象を@と見るかAと見るかによって、対象に関しての二律背反が生じる。

    @は、「反定立」
    > 前者のように見れば、系列のすべての項は条件づけられたものとなり、そうした項の全体だけが無条件と考えられる。したがって遡っていく系列は無限に続くのである。<
    > 前者の考えを「反定立」<

    Aは、「定立」
    > 後者の場合は、系列はもはや無限ではなく、系列を開始する端緒の項が存在することになる。<
    > 後者の考えを「定立」<

    --------------------------------
    この後pipit的理解を踏まえて、石川輝吉先生の二律背反の説明を再読してみます。

    とりあえずここまでを投稿します!

引用返信/返信 削除キー/
■26584 / inTopicNo.92)  Re[7]: ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/09/22(Thu) 00:06:19)
    No26579に返信(pipitさんの記事)
    > すごく少しずつになるので、Noとかツリーのこととか気にせず、日記みたいに返信していこうと思っていますが、ツリーを考えた返信してほしいとかNoつけてほしいとかご要望あれば遠慮なくおっしゃってください(^ ^)
    >
    >>まず、二律背反が「二つの異なる体系」を前提の話っていうのはちょっと確認しないと私もわかりませんが、それだと二律背反になるのか疑問です。<
    >
    > すみません、二律背反は中山元先生訳本では、、、ぎゃー今見たら第5巻で出てくるみたいです。pipitは今2巻…
    >
    > なので、pipitの言説はpipitの間違いとして、改めて解説本(カント本文では理解できないので。。。)からpipitにもわかるものを探してきて引用したいと思います。
    >
    > 用事とかもあるので、とりあえずここで失礼しますm(_ _)m
    >

    宇都宮芳明先生の監訳の最後に、宇都宮先生による用語集みたいなのが載ってるので、
    『四つの二律背反』、、、

    うぅぅぅ、6ページあります、、、

    とりあえずさっと見たら、pipitの
    > 二律背反が「二つの異なる体系」を前提の話<
    というのはpipitの完全な間違いで(すみませんm(__)m)、、
    説明冒頭には、
    『「二律背反」はドイツ語ではアンチノミーで、これは二つの互いに矛盾する命題(定立と反定立)が、それぞれ証明可能で真であると主張して対立しあっている、そうした理性の状態である。』
    『純粋理性批判 下』カント、宇都宮芳明先生監訳、以文社、p935.936
    とあり、
    例えば
    『そこで宇宙論的理念にかんして言うと、理性はそれぞれの系列においてもはや条件づけられていない「絶対的に無条件的なもの」を目指すが、この無条件的なものが「全系列においてのみ成立する」と見るか、それとも「系列の一部分」にすぎないと見るかによって、二律背反が生ずる。
    前者のように見れば、系列のすべての項は条件づけられたものとなり、そうした項の全体だけが無条件と考えられる。したがって遡っていく系列は無限に続くのである。
    これに対して、後者の場合は、系列はもはや無限ではなく、系列を開始する端緒の項が存在することになる。
    これは時間にかんしては「世界のはじまり」であり、空間にかんしては「世界の限界」であり、全体の分割にかんしては「単純者」であり、原因・結果の系列にかんしては「絶対的自己活動(自由)」であり、変移する物の現存にかんしては「絶対的自然必然性である。
    そこでカントは、この後者の考えを「定立」、前者の考えを「反定立」として、四つの二律背反を次のように示している。』

    ひー、つかれた、、、と、あるページを思い出しました。

    #41】現代宇宙論と素粒子論で哲学者カントに挑戦

    郡 和範さん

    https://www.kek.jp/ja/essay/20210325/

    宇都宮先生の解説には、きちんと四つの二律背反の定立と反定立が載ってるけど、、とりあえず、郡先生のエッセイのご紹介で、はやくもお茶を濁すpipit……

    あ!でも、後で返信したいと思ってる、カントの『理性の「統制的原理」』に関連して、このエッセイもまたセットで書き込むかも。

    ということで、二律背反のpipitの理解は間違えてました、すみませんm(_ _)m
    で、その間違いもふまえながら、また返信の続きを書いていきたいです。

    それでは失礼します。
引用返信/返信 削除キー/
■26581 / inTopicNo.93)  悪魔ちゃんへ・御子柴先生の
□投稿者/ pipit -(2022/09/21(Wed) 22:03:10)
    悪魔ちゃん、いつもありがと!

    No26452-26453
    (悪魔ちゃん)
    >> 御子柴善之大先生の「現象」の意味はどういうのかしら?<<
    (pipit)
    > 違うかもだから、また、後で(大分後日になったらごめん!)この、ジュニア用新書から、現象に注目して引用してみるね!<

    ごめん、ジュニア新書をまとめるのpipitには難しくて、
    過去投稿でジュニア新書とは別の本での、御子柴善之先生の現象についての記述を引用してたので、そちらを再投稿させてもらうね。ジュニア新書からでなくてごめんね。すぐ下↓が過去投稿からの抜粋引用で、一番下は過去投稿の全文です。


    =============
    御子柴善之先生の解説※ドイツ語の記号は引用できていません。
    『こころには、個別的表象(この書物の直観)も一般的表象(書物一般の概念)も意識されます。
    その点で、前の引用で「こころ」と呼ばれたものが、この引用では「表象能力」と呼ばれています。
    この表象能力に対して触発によって引き起こされる結果が「感覚(Empfindung)」です。
    眼前の書物が大きければ、広がりの大きさが感覚され、それが鮮やかな赤色であれば、その色が強く感覚されます。
    このような感覚によって対象に関係するとき、その直観は経験的(empirisch)です。
    このような、経験的直観によって与えられる対象が「現象(Erscheinung)」です。
    私たちは年じゅうさまざまな自然現象に見舞われます。
    日照りや台風、地震や火山の噴火など。
    それらはつねに感覚を介して直観されます。
    もっとも、私たちは、そうした自然現象を、これは台風であり、あれは地震であると概念を用いて認識します。
    そうした概念によって規定されていない対象が「現象」なのです。
    仮に適切な概念が見当たらない自然現象に遭遇した場合、私たちはまさに「現象」がそれとして与えられていることを意識することになります。』
    同本p88.89より引用

    ===============
    No11071pipitの過去投稿全文

    みなさまこんばんは。
    まずはじめに、超越論的感性論の中に出てくる、カントの現象の定義と、御子柴善之先生の解説を引用します。

    ただ、カントの認識論は、感じたもの(超越論的感性論にて考察)を考える(超越論的論理学にて考察)、という手順みたいなので、この定義は、超越論的論理学にいたって変化していくかもしれません。
    実は悟性が感性にちょっかい出してた、という、どんでん返しの可能性もないではありませんしね。
    感性論の次は、論理学内での記述を見ていこうと思っています。

    とにかくカントは、わかりにくくてわかりやすくてわかりにくくてわかりにくい、不思議な感触です。

    現象の超越論的感性論での定義を引用します。

    カントの文章(御子柴善之先生訳)
    『ある対象が表象能力に及ぼす影響が、私たちが対象によって触発される限り、感覚である。
    感覚によって対象に関係するような直観を、経験的という。
    経験的直観の未規定な対象を現象という。
    (A19f./B34)』
    『カント純粋理性批判』御子柴善之先生著、角川選書、p88より引用

    御子柴善之先生の解説※ドイツ語の記号は引用できていません。
    『こころには、個別的表象(この書物の直観)も一般的表象(書物一般の概念)も意識されます。
    その点で、前の引用で「こころ」と呼ばれたものが、この引用では「表象能力」と呼ばれています。
    この表象能力に対して触発によって引き起こされる結果が「感覚(Empfindung)」です。
    眼前の書物が大きければ、広がりの大きさが感覚され、それが鮮やかな赤色であれば、その色が強く感覚されます。
    このような感覚によって対象に関係するとき、その直観は経験的(empirisch)です。
    このような、経験的直観によって与えられる対象が「現象(Erscheinung)」です。
    私たちは年じゅうさまざまな自然現象に見舞われます。
    日照りや台風、地震や火山の噴火など。
    それらはつねに感覚を介して直観されます。
    もっとも、私たちは、そうした自然現象を、これは台風であり、あれは地震であると概念を用いて認識します。
    そうした概念によって規定されていない対象が「現象」なのです。
    仮に適切な概念が見当たらない自然現象に遭遇した場合、私たちはまさに「現象」がそれとして与えられていることを意識することになります。』
    同本p88.89より引用

    以上は感性論での現象の記述について、ですが、次に論理学での現象についての記述を見ていこうと思っています。
    (過去投稿終了)




引用返信/返信 削除キー/
■26579 / inTopicNo.94)  Re[6]: ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/09/21(Wed) 21:43:24)
    すごく少しずつになるので、Noとかツリーのこととか気にせず、日記みたいに返信していこうと思っていますが、ツリーを考えた返信してほしいとかNoつけてほしいとかご要望あれば遠慮なくおっしゃってください(^ ^)

    > まず、二律背反が「二つの異なる体系」を前提の話っていうのはちょっと確認しないと私もわかりませんが、それだと二律背反になるのか疑問です。<

    すみません、二律背反は中山元先生訳本では、、、ぎゃー今見たら第5巻で出てくるみたいです。pipitは今2巻…

    なので、pipitの言説はpipitの間違いとして、改めて解説本(カント本文では理解できないので。。。)からpipitにもわかるものを探してきて引用したいと思います。

    用事とかもあるので、とりあえずここで失礼しますm(_ _)m

引用返信/返信 削除キー/
■26578 / inTopicNo.95)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/09/21(Wed) 21:32:43)
    ふくろうさん、こんばんはー(^ ^)
    No26567
    > > あの、断っておきますが、今議論のようになっていますが、
    > しんどくなったらいつでも切り上げてくださいね。
    > 私は議論好きなので、どうしてもしつこくなっちゃいますので、
    > pipitさんが、楽しんでできる範囲、有意義と思える範囲で全然構いませんのでご遠慮なく。<

    ありがとうございます!
    私も最初のお断りなのですが、
    お恥ずかしいのですが、、、
    中山元先生訳の『純粋理性批判』が1ー7巻で発刊されてて、
    pipitはまだ第2巻の前半くらいまでしか読んでないのです。
    (T . T)
    悪魔ちゃんがいろいろ質問してくれたりで、それに答えるために4.5.6.7巻とかパラパラ見ていろいろ発見できたりはしてるのですが、読書としてはまだ2巻で、そのような者なのですが、
    ふくろうさんの書き込みを読んで、答えてみたいなと今思っています。

    でも知らないことだらけなので、調べながら少しずつのものすごくすこしずつのスローペースな返信になるかもで、

    pipitもふくろうさんには、

    > しんどくなったらいつでも切り上げてくださいね。<

    ふくろうさんのお気持ちでpipitの返信を見なくなってもいいですからね(><)

    ふくろうさんが、
    >楽しんでできる範囲、有意義と思える範囲で全然構いませんのでご遠慮なく。<

    と思っています。

    どうなるかわかりませんが、もしかしたら一ヶ月単位の返信になるかも(^◇^;)

    見なくなっても大丈夫ですからね、書き込みありがとうございます!


引用返信/返信 削除キー/
■26568 / inTopicNo.96)  Re[5]: pipitさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2022/09/21(Wed) 17:48:31)
    pipitさん、こんにちは。
    『論考』から離れて少しカントに戻るともいえるので、
    柄谷行人の文章についての感想を、少し補足させてください。
    私も正確な知識があるわけではないので、ラフな議論になります。

    柄谷が述べている「分析的判断―綜合的判断」のラッセルとカントの考えについてですが、おわかりかもしれませんが、ラッセルとカントでは、この概念の理解がそもそも異なっていると思います。
    これ、完全にカントにリスクがあって、ラッセルはカントを批判していますが、同じ土俵じゃないんです。
    というのも、フレーゲが創始し、ラッセル自身その構築・発展に多大な貢献をした現代論理学が生まれたのは19世紀後半で、カントは知りません。
    カントが知っている論理学は基本的にアリストテレス論理学で、これは数学的証明に用いられる論理的演繹を扱うには全く不十分なんです。
    つまり、数学的真理の確実性を論理学的に根拠づけることは、カントの時代には全くできなかったわけです。
    だから、カントの言う分析判断は狭すぎて、これで数学的判断を捉えることができないのは、ほとんど自明なんですよ。

    逆に、ラッセルの言う分析的判断というのは、カントのそれよりはるかに広大で、しかもラッセルの言う論理学というのは現代的観点からはむしろ一階述語論理学+集合論と同等であって、これで全数学を展開できるというのは、正しいんです(当時、まだ「論理学とは何か」ということの合意がありませんでした)。
    なので、数学を論理学に還元しようとした論理主義的目論見は失敗したというのが少なくとも20世紀前半での評価だろうと思いますが、分析的命題を公理から論理学的演繹により証明可能な命題とみなせば、その限り数学的命題を分析的命題とみなすことができ、実際、論理実証主義者はそのようにみなしました。
    ただし、この分析的命題(判断)の定義として、これが妥当かどうかはたぶん異論があるのでしょうし、それなりに私もわかります。
    「数学的証明の本性」とは何か、という問題になりますし、ウィトゲンシュタインも論じている問題で、興味深いものだと思います。

    ただ、柄谷のように、ラッセルの言うのは間違っていた、「綜合的判断」とするカントがむしろ正しかった、と言うのは、さすがにどうかと思います。
    だって、カントはそもそも論理的演繹について、全く何もわかっていなかったんですから、結果的に正解だったとしても、ある意味たまたまというか、少なくとも数学的命題(判断)の本性をよく理解して言ったことではないように思います。
    それに、数学史的には、数学の哲学としては基本、ヒルベルトの立場で現代数学は進んだと言えるだろうと思います。
    その限り、数学はゲームとしてとらえることができる。
    だけど、むろん、ただのゲームじゃない。
    それこそがまさに人間理性の可能性を示すものと言える気もします。
    思い付きですけど(笑)
    私なんか、すんごいな、数学者!!って、思いますもん(笑)

    以上です。

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