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■26866 / inTopicNo.49)  pipitさんへ
  
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2022/10/05(Wed) 20:58:45)
    pipitさん、こんばんは。

    ご迷惑かけてすみません。

    >□投稿者/ pipit -(2022/10/05(Wed) 09:21:36)
    ね? カントの文章、疲れません?

    >疲れないならすごいです ( ̄O ̄;)

    疲れますが、面白くなってきました(笑)

    今みたいに、あーでもない、こーでもないと考えるの、好きなんです^^

    で、目下、見直しているんですが、根本的にはもっときちんと読まないと正確なところは言えないでしょうが、
    さしあたり、暫定的にでも結論を出しておかないと、なんか気持ち悪いんで、なるべく早くまとめたいと思っています。
    今日書けるかはわかりませんが。

    ざっくり言うと、大筋としては、やはりあまり考えは変わりません。
    しかし、高坂先生から借用の「対象(的)論理学」という表現は、意図はともかくミス・リーディングかなと思っていたりします。

    詳しくは、改めてのレスで。




引用返信/返信 削除キー/
■26864 / inTopicNo.50)  Re[13]: 取り下げの要請
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/10/05(Wed) 20:35:08)
    わたし、「論理学」にはあんまし関心ないけど、
    ザビビのふくろうさんの言ってる
    >対象認識を可能にする論理学として、超越論的な論理学、ということです。<
    っていうのは、けっこう的をえてる気がする。







引用返信/返信 削除キー/
■26862 / inTopicNo.51)  Re[12]: 取り下げの要請
□投稿者/ pipit -(2022/10/05(Wed) 15:52:04)
    ザビビのふくろうさん、こんにちは!

    No26861
    了解いたしました。

    一連の記事を投稿してくださったこと、ふくろうさんの記事の内容、教えていただいた事柄、わたしにはとても有意義で本当に感謝しています。
    いつでもご自由に投稿してくださればうれしいです。
    m(_ _)m

    この先考察されるか否かはもちろんご自由に、なのですが、
    先程読んでいてわかりやすく感じた、田村一郎先生の簡易な解説を引用します。

    宇都宮芳明先生監訳『純粋理性批判 上』カント、以文社、
    p124の田村一郎先生の注解より抜粋引用

    『「U 超越論的論理学について」では、なによりも「一般論理学」と「超越論的論理学」の相違が強調される。
    両者は、ア・プリオリな原理を扱うという点では同じである。

    しかし前者が、内容あるいは対象とのかかわりを一切捨像するのに対して、

    後者では、ア・プリオリな原理がどのような対象に当てはまるかの検討が中心に置かれる。

    いわば、純粋な認識がどのようにして可能になるかが主題となるのである。

    カントが「超越論的」と呼ぶのは、このような吟味のことである。
    (略)』
    引用終了

    >pipitさんへ
    どうもラフに書き過ぎて、混乱させているかもしれません。すみません。<

    ふくろうさんの説明など、勉強していないpipitにもとてもわかりやすくて助かります
    m(_ _)m
    ありがとうございます!

引用返信/返信 削除キー/
■26861 / inTopicNo.52)  取り下げの要請
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2022/10/05(Wed) 14:41:35)
    pipitさん、おくたがわさん、こんにちは。

    pipitさんが、細かい点にこだわってくださったおかげで、読み直しているうちに、
    超越論的論理学についての私自身の理解が、どうも怪しい気がしてきました。
    まだ、はっきり認識できたわけではありませんので、きちんと訂正ができないのですが、
    とりあえず、No26847の、特に、「根拠2」に対する批判については取り下げます。
    他にも取り下げるべきところがあるかもしれませんが、見直してまた改めてレスさせてもらいます。
    おくたがわさん、申し訳ありませんでした。

    この箇所について、ふつうに読めばわかるだろう、みたいにエラそうに言った手前、恥ずかしすぎなんですが、これ以上、お二人を悩ませても申し訳ないので、取り急ぎレスしました。
    ご迷惑をおかけして申し訳ありません。

    ただ、もちろん全部が間違っているとも思ってはいないんですが、見直してみないとどこをどう修正すればいいかもわからないし、それがいつできるかも今のところわからないので、今度いつレスできるかはわかりません。

    *************************
    pipitさんへ
    どうもラフに書き過ぎて、混乱させているかもしれません。すみません。
    一点気づいたところを修正しておきます。
    No26838
    >一般論理学は経験内容に関わることができないいわば無内容な論理だけど、
    >超越論的論理学は、アプリオリではあるけれども、経験内容にかかわる対象論理学であり、
    >対象認識を可能にする論理学として、超越論的な論理学、ということです。

    上記の次の部分を修正。
    >経験内容にかかわる対象論理学
     ↓
    〇経験にかかわる対象的論理学

    実は「内容ある対象的論理学」という表現が、高坂正顕『哲学史』にあって拝借したんですが、ミスリーディングでした。
    **************************
    おくたがわさんへ
    重ね重ね、不快な思いをさせて申し訳ありません。
    レスは不要です。

引用返信/返信 削除キー/
■26858 / inTopicNo.53)  ひとりごと日記
□投稿者/ pipit -(2022/10/05(Wed) 09:21:36)
    ね? カントの文章、疲れません?

    疲れないならすごいです ( ̄O ̄;)
引用返信/返信 削除キー/
■26857 / inTopicNo.54)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/10/05(Wed) 08:57:46)
    2022/10/05(Wed) 09:04:44 編集(投稿者)

    ザビビのふくろうさん、こんにちは!
    過去投稿話題に関してのpipit私見を述べさせていただきます。
    -------------------
    @過去投稿
    No26838

    pipit 「まあ、一般論理学の思考の形式が経験的内容なのかなんなのか、んー、んー?」

    ふくろうさん 「 ↑ ここへ混乱してます。」
    ------------------------
    Aふくろうさんの以下のご説明(No26831 )で、上記@のpipitの混乱が、pipitが一般論理学の仕組みを理解していなかったことに起因していたのがわかったのですが、

    ※以下
    No26831 にてのふくろうさんの説明
    > 一般論理学とは、アリストテレス-ライプニッツによる論理学であり、カントはこの原理を同一律・矛盾律に代表させており、
    経験的内容にかかわらない形式論理学であり、また逆に、思惟一般の条件ゆえの普遍性をもつ。

     (例)黄金の山は黄金の山である 
       黄金の山は黄金の山ならざるものではない

    形式化(抽象化)
      A=A(同一律)   A≠非A(矛盾律)

    このとき、“黄金の山”という経験的内容が捨象され、“A=A” “A≠非A”という論理形式だけが抽象された。

    (補足)pipitさんのレスを見ると、抽象化と捨象の表裏関係をきちんと把握されているかどうかが少し心配になりました。
    あくまで、
    「論理形式を抽象する」⇔「経験的内容を捨象する」
    だということが重要です。<
    引用終了
    --------------------------------
    Bふくろうさんのご説明
    > 経験的内容にかかわらない形式論理学であり、また逆に、思惟一般の条件ゆえの普遍性をもつ。<
    は、受け入れつつも、

    それでもまだ、
    > pipit 「まあ、一般論理学の思考の形式が経験的内容なのかなんなのか、んー、んー?」<
    の、経験的内容を(経験的ななにかか否か?)と変えれば、迷う余地はあってもいいのではないか、と、思える中山元先生の解説を読みました。
    もちろん、それは問わない、のが前提なのが一般論理学なのでしょうけど、前提を外れたところでちょっと疑問に思っちゃう余地です。

    とりあえず、今、ふくろうさんにお伝えしたい箇所を抜粋引用します。

    『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、光文社古典新訳文庫、p261、262より抜粋引用。
    (中山元先生の解説文章)
    『(略)
    純粋論理学は、思考の法則について、すでに表現されたさまざまな思考を所与としてうけとった後に、「どのような源泉から生まれたかは問題とせずに」(同)、そこにアプリオリな思考の規則をみつけようとする。
    規則を作りだすための素材がすでに存在していて、そこに知性の正しい思考の法則を考察しようとするのであり、その素材がアプリオリに存在しているか、経験的に与えられたかは問題としない。
    (略)
    要するに、純粋論理学がアプリオリな分析判断を範例として作られるとすると、超越論的な論理学は、アプリオリな総合判断を範例として作られるのである。
    伝統的な純粋論理学は、たとえば因果関係が判断においてどのように生まれたかを問うことなく、これを所与として利用する。
    (略)』
    引用終了。

    > 純粋論理学は、思考の法則について、すでに表現されたさまざまな思考を所与としてうけとった後に、<

    > 規則を作りだすための素材がすでに存在していて、<

    その中から、アプリオリな分析判断を抽出したものが、一般論理学とすると、
    ふくろうさんのご説明は受け入れるのですが、その上で、少し考える余地は残していてもいいのではないか、と、今の時点でのpipitは思いました。

    ------------------------

    Cこの中山先生の解説箇所、内容(経験的な内容と認識の内容の区別)についても整理するヒントになるかもと感じたので、前後も合わせて引用させていただきます。

    『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、光文社古典新訳文庫、p261、262より抜粋引用。
    (中山元先生の解説文章)

    『一般論理学と超越論的な論理学
     しかしカントがここで知性を孤立させて考察しようとするときに考えている論理学は、経験的な内容を含まない論理学である。
    これはこうした伝統的な論理学において、同じく経験的な内容を含まない論理学、すなわちカノンとしての純粋論理学とは異なる身分をもつ超越論的な論理学である。

     この超越論的な論理学と純粋論理学の違いは次の二点にある。
    第一に、伝統的な純粋論理学は、「経験的な原理はまったく含まない」(085)のであり、アプリオリに確実なことだけを考察する。正しい三段論法は、どのような対象に適用されようと、アプリオリに正しいのである。

     ところが超越論的な論理学は推論の内容を完全に排除することはない。「認識のすべての内容を切り捨てない論理学」(087)なのである。
    ただし超越論的な論理学は、応用論理学のように経験的な内容を対象とするのではなく、超越論的な内容を対象とする。
    これが論理学であるのは、その対象とするものがアプリオリなものだからである。

     超越論的な論理学が純粋論理学と異なる第二の点は、このアプリオリなものの性格にかかわる。
    純粋論理学は、思考の法則について、すでに表現されたさまざまな思考を所与としてうけとった後に、「どのような源泉から生まれたかは問題とせずに」(同)、そこにアプリオリな思考の規則をみつけようとする。
    規則を作りだすための素材がすでに存在していて、そこに知性の正しい思考の法則を考察しようとするのであり、その素材がアプリオリに存在しているか、経験的に与えられたかは問題としない。
    これにたいして超越論的な論理学は、思考の素材がアプリオリに存在していたものか、それとも経験的に与えられたものかを区別するのであり、その起源を問うのである。

     要するに、純粋論理学がアプリオリな分析判断を範例として作られるとすると、超越論的な論理学は、アプリオリな総合判断を範例として作られるのである。
    伝統的な純粋論理学は、たとえば因果関係が判断においてどのように生まれたかを問うことなく、これを所与として利用する。
    しかし超越論的な論理学は、このような判断は、経験的なものなのか、アプリオリなものなのかを問い、因果関係がアプリオリなものであることを認めたうえで、それが「経験の対象とアプリオリにかかわることができるという可能性」(088)を考察するのである。
    (略)』
    引用終了。

    > カントがここで知性を孤立させて考察しようとするときに考えている論理学は、経験的な内容を含まない論理学である。<

    > 伝統的な論理学において、同じく経験的な内容を含まない論理学、すなわちカノンとしての純粋論理学<

    > 伝統的な純粋論理学は、「経験的な原理はまったく含まない」<

    >超越論的な論理学は推論の内容を完全に排除することはない。「認識のすべての内容を切り捨てない論理学」<

    この解説では、
    経験的内容と
    認識のすべての内容は、違うものとして扱ってるのかなと、pipitは思いました。

    この投稿は以上です(*^ω^*)みなさまに感謝!


引用返信/返信 削除キー/
■26855 / inTopicNo.55)  黒ちゃん先生より先に御子ちゃん先生の
□投稿者/ pipit -(2022/10/04(Tue) 23:23:26)
    みなさま、こんばんは

    『カント事典』にのってる[超越論的論理学](黒崎政男先生執筆)のところを抜粋引用しようと思ってましたが、それより少し短い、御子柴善之先生の解説を先に引用します。

    『カント 純粋理性批判』御子柴善之先生著、p112、113より抜粋引用
    『一般論理学は形式論理学と呼ばれることもあるように、一切の内容を捨像します。
    したがって、なんらかの客観にかかわることはありません。
    論理学がSやPといった記号を用いて展開できるのはそのためです。
    しかし、私たちが考えるとき、多くの場合、私たちはなにかについて考えるのではないでしょうか。
    たとえば、学校の敷地内で動物を見かけたとき、「あれはタヌキかハクビシンかどちらかだ」と考えるとき、この思考は客観にかかわっているはずです。
    このように対象にかかわる思考は、この例が示すように、しばしば経験的です。
    しかし、直観に純粋直観があるように、思考にも純粋思考があるかもしれません。
    超越論的論理学はそうした対象にかかわる純粋思考を論じる学問です。』
    引用終了。

    本日はおやすみします。みなさまおつかれさまです
    (^ ^)☆彡

引用返信/返信 削除キー/
■26854 / inTopicNo.56)  アプリオリな分析的真理
□投稿者/ pipit -(2022/10/04(Tue) 22:58:16)
    2022/10/05(Wed) 06:24:54 編集(投稿者)

    ふくろうさん、みなさま、こんばんは(^ ^)

    No26838
    > > >>この議論は、一般的論理が経験に全く関わらないいわばアプリオリな分析的真理であるのに対して、<
    >>
    >>あー、記号操作で全部真偽の判断が事足りる、みたいなかんじなのかなー
    >>
    > ここはもう少し、具体的に論理学の知識がほしいところですが…。
    > 解説があればいいんですが、参考書には載っていませんか?<

    【一般的論理が経験に全く関わらないいわばアプリオリな分析的真理である】についての説明が、pipit手持ちの解説本のうちに簡単にみつかると思っていたのですが、なかなかみつけられなくて(・・;)

    とりあえず『カント事典』弘文堂のp469『分析判断』のページから抜粋引用してみます。

    『(略)(1)によれば、いわゆる矛盾律「(AかつAでない)ことはない」のみならず、カントの『論理学講義』では同一律「AはAである」も、排中律「AまたはAでない」もこうした「論理的真理」である[IX53]。
    さらには伝統的に正当な推論、(大小、矛盾、反対)対当や対偶という直接推理、また(定言的、仮言的、選言的)三段論法、ディレンマや肯定式(modus ponens)という間接推理から得られる、前提の連言を前件に、結論を後件とする条件判断、たとえば「(AならばB)ならば(BでないならばAでない)」、「((AならばB)かつA)ならばB」もまた「恒真的で論理的に必然的な真理」を表す[IX52f]分析判断である。
    カントはまた「全体は部分より大である」のような幾何学中の共通概念も分析的と認める(ただし、それは前提ではなく方法上の束縛(Kette)だという)[Prol.W 269]。
    (略)』(野本和幸先生執筆)

    この解説でも、
    >一般的論理が経験に全く関わらないいわばアプリオリな分析的真理である<
    の解説としてOKでしょうか?

    すみません、論理学のことわかりません
    (・・;)

引用返信/返信 削除キー/
■26848 / inTopicNo.57)  Re[8]: ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/10/04(Tue) 12:48:50)
    2022/10/04(Tue) 16:00:14 編集(投稿者)

    ザビビのふくろうさん、返信ありがとうございます♪

    No26838
    > 一般論理学は経験内容に関わることができないいわば無内容な論理だけど、
    > 超越論的論理学は、アプリオリではあるけれども、経験内容にかかわる対象論理学であり、
    > 対象認識を可能にする論理学として、超越論的な論理学、ということです。<

    一般論理学も超越論的論理学も同じく思考の規則を扱ったものであるが、超越論的論理学は【対象論理学】であり、しかも対象(認識)の条件となる論理学、ということでしょうか?

    超越論的論理学を【対象論理学】と呼ぶとき、もし一般論理学を比較的に表現するとしたら、ふくろうさんはどのように表現されるか(またはされないか)参考にしたいのでお聞きしていいですか?

    > >>この議論は、一般的論理が経験に全く関わらないいわばアプリオリな分析的真理であるのに対して、<
    >>
    >>あー、記号操作で全部真偽の判断が事足りる、みたいなかんじなのかなー
    >>
    > ここはもう少し、具体的に論理学の知識がほしいところですが…。
    > 解説があればいいんですが、参考書には載っていませんか?<

    解説本などにきっと載ってるのではと思うので、後で探してみます!

    手元のスマホに入ってる純理の日訳と英訳(Meiklejohnさん訳)で、一般論理学のことについて述べてると思う箇所を見つけました。

    It is a demonstrated doctrine, and everything in it must be certain completely a priori.
    (英訳をDeepL日訳↓)
    それは実証された教義であり、その中のすべてが完全にアプリオリに確かなものでなければならない。)

    話題箇所の少し前の箇所ですが、これがカントの一般論理学に対する考え方なのかなーと今の段階のpipitは思いました。


    いろいろご指摘助かります!

    ※※※※※※※

    と、投稿しようと思ったら、新たなふくろうさん記事
    No26847が!

    読みたいけど、もうすぐお昼休憩終わるので、またゆっくり読ませていただきまーす

    感謝です(^人^) さぁお仕事後半がんばろー
引用返信/返信 削除キー/
■26847 / inTopicNo.58)  一般論理学と超越論的論理学
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2022/10/04(Tue) 12:33:05)
    おくたがわさん、pipitさん、こんにちは。
    今回は、おくたがわさんのトピで出された疑問について、私なりに答えてみようと思います。。

    No26839
    >一般論理学が「経験的かアプリオリかを問わずすべての認識の内容を捨象して、認識どおしの関係(形式)のみを扱う」旨を前後で強調するカントが、『一般論理学が経験的な内容からなるすべての認識を排除する』と書く理由がわからない

    【同一性判断(認識)】
    (1) 全能の神は全能の神である
    (2) 角をもたない円は角をもたない円である
    (3) 赤いりんごは赤いりんごである

    これらはそれぞれ対象のタイプは異なるものの、いずれも認識内容を有する同一性判断(認識)です。
    一般論理学は、これらの認識内容を捨象し、認識形式のみを取り出します。すなわち、
    【同一性判断(認識)の形式】
    A=A (同一律)
    という論理形式を抽象し、これのみに関わるわけです。
    つまり、一般論理学は「認識のアプリオリな形式」にのみ関わり、
    内容を含む認識(すなわち(1)〜(3)のような)は排除します。

    なので、
    >「一般論理学が「経験的かアプリオリかを問わずすべての認識の内容を捨象して、認識どおしの関係(形式)のみを扱う」旨を前後で強調するカントが、『一般論理学が経験的な内容からなるすべての認識を排除する』と書く理由」

    は、これらが同じ事柄だから、ということです。
    次の根拠1についても同様。

    >根拠1:一般論理学で捨象されるのは「すべての認識の内容」であって、「経験的な内容からなるすべての認識」ではない。

    要は、一般論理学が認識内容を捨象するということは、すなわち具体的認識((1)〜(3)etc.)を扱わない(排除する)で、内容空虚な認識形式だけを扱うということ。

    >根拠2(No26744)
    >『直観に、純粋な直観と経験的な直観の区別があるように』として
    >思考にも『対象についての純粋な思考と経験的な思考の区別があることになろう』
    >と導いて、新たな論理学(超越論的論理学)を提示している。
    >そこでの「純粋」の方に対応するのがアプリオリであったり超越論的だろう。
    >続く文脈での、「対象の純粋な思考の規則だけを含み、経験的な内容からなるすべての認識を排除する論理学』が「一般論理学」を指す、とは考えにくのではないか。

    の中の、次、
    >「そこでの「純粋」の方に対応するのがアプリオリであったり超越論的だろう。」

    というのは無理があると思われます。
    ある意味これは論点先取りになりますが、カントの意図からしても、超越論的論理学というのは、アプリオリであり、かつ経験に関わる論理(認識を可能にする形式(因果律等))だからです。

      純粋な直観 : 経験的な直観 
    ∽ 純粋な思考の形式 : 経験的な思考の形式
    ∽ 一般論理学 : 超越論的論理学

    だからこそ、超越論的論理学が数学や自然科学におけるアプリオリな綜合的判断の根拠となるわけですしね。
    これまでここで挙げられた翻訳、および私が参照した翻訳や解説書では、大筋ではいずれもこの理解として解釈がなされているように思います。
    なので、細かい点では、私の書いたところにも間違いや不適切な表現があるかもしれませんが、大筋ではこんなものかと思います。
    とりあえず以上です。

引用返信/返信 削除キー/
■26844 / inTopicNo.59)  Re[8]: ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ おくたがわ -(2022/10/04(Tue) 07:14:33)
    No26838に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    おはようございます。
    今回のカントの件について質問等したい部分はあるのですが、
    その前に、あなたに考えていただきたいことがあります。
    完全にトピずれゆえ、こちらに投稿しました。■No26843
    が、別なトピがよければ、返信の場所はあなたにおまかせします。
    なお、そこで問題にしている案件が生じたのは「つぶやきトピ」であったはずなので、そちらでもいいかも。

    (私は常に継続的に投稿できるわけではないので同時進行でカントの件でもレスをするか、それとも上記の件を先にかたずけてからにするか、まずはあなたの返事を待ってから決めたく思っています)

    よろしくお願いします。
引用返信/返信 削除キー/
■26838 / inTopicNo.60)  Re[7]: ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2022/10/03(Mon) 23:51:44)
    pipitさん、こんばんは。
    レスをありがとうございます。
    時間があまりないんで、少しだけ。

    No26835に返信(pipitさんの記事)
    > ザビビのふくろうさん、こんばんは
    > 投稿感謝です!(^○^)
    >
    > ■No26831
    >>私の解釈の基本的スタンスを提示します。
    >>
    >>@ 一般論理学とは、アリストテレス-ライプニッツによる論理学であり、カントはこの原理を同一律・矛盾律に代表させており、
    >>経験的内容にかかわらない形式論理学であり、また逆に、思惟一般の条件ゆえの普遍性をもつ。
    >>
    >> (例)黄金の山は黄金の山である 
    >>   黄金の山は黄金の山ならざるものではない
    >>
    >>形式化(抽象化)
    >>  A=A(同一律)   A≠非A(矛盾律)
    >>
    >>このとき、“黄金の山”という経験的内容が捨象され、“A=A” “A≠非A”という論理形式だけが抽象された。
    >>
    >>(補足)pipitさんのレスを見ると、抽象化と捨象の表裏関係をきちんと把握されているかどうかが少し心配になりました。
    >>あくまで、
    >>「論理形式を抽象する」⇔「経験的内容を捨象する」
    >>だということが重要です。<
    >
    > おぉ、ふくろうさんの説明ではじめて?きちんと把握できた気しますΣ(・□・;)
    > なるほどー、
    >
    >>このとき、“黄金の山”という経験的内容が捨象され、“A=A” “A≠非A”という論理形式だけが抽象された。<
    >
    > が抽象と捨像の関係で、この一連の操作で一般論理学が作られる。
    >
    >
    >>26784の@とAの文は、日本語として変なんです。
    >>「一般論理は、認識のすべての内容から抽象する。」
    >>には目的語の「論理的形式」がありませんから。<
    >
    > すみません、わかってなかったです。論理的形式を抽象する、ですね。
    >
    >
    >>A 超越論的論理学とは、「知識の内容をすべて抽象化しない論理」であり、
    >>具体的には、「第一部門 超越論的分析論」で展開されるカテゴリーの超越論的演繹論として捉えればわかりやすいと思います。

    ここ、すみません。
    超越論的論理学とは、「知識の内容をすべて抽象化しない論理」
    の「抽象化しない」は、だから適切ではなく、「
    「捨象しない論理」あるいは、pipitさんが引用されている「認識のすべての内容を捨て去るわけではないような一つの論理学」のほうが正しいです。

    >>ここに因果律の成立根拠も含まれますよね。<
    >
    > 超越論的論理学は、知識の内容からの何かの抽象ではなく、内容の根拠に関する論理学ということですか??
    >

    一般論理学は経験内容に関わることができないいわば無内容な論理だけど、
    超越論的論理学は、アプリオリではあるけれども、経験内容にかかわる対象論理学であり、
    対象認識を可能にする論理学として、超越論的な論理学、ということです。


    >
    >>この議論は、一般的論理が経験に全く関わらないいわばアプリオリな分析的真理であるのに対して、<
    >
    > あー、記号操作で全部真偽の判断が事足りる、みたいなかんじなのかなー
    >
    ここはもう少し、具体的に論理学の知識がほしいところですが…。
    解説があればいいんですが、参考書には載っていませんか?


    >>いかにしてアプリオリな綜合的真理が成り立つかを解明するもので、『純理』でももっとも難解と言われているようですね。<
    >>(おくたがわさんの見解に対するコメント)
    >> 「一般の論理学が「経験的な内容からなるすべての認識を排除する」わけがない、それをやるのは超越論的論理学」(26744)
    >>
    >> 上記の私見によれば、これは誤解であると思われます。<
    >
    > pipitの私見のべさせていただければ、
    > ふくろうさんの説明で納得できたと自分では思ってるのですが、
    >
    > おくたがわさんが
    >> 「一般の論理学が「経験的な内容からなるすべての認識を排除する」わけがない、それをやるのは超越論的論理学」(26744)<
    >
    > と述べる感想も理解できる気がするのです。(おくたがわさんの考えてることとpipitの考えてることは全く別かもですが)
    > 例えば、『因果関係』の出自を一般論理学は問わないけども、超越論的論理学は『因果関係』の出自を悟性として、経験的概念ではないとしてますよね。

    だから、因果律は、認識を可能にするアプリオリな形式であると同時に、
    経験内容に関わっているので、超越論的論理学が扱うわけです。

    > まあ、一般論理学の思考の形式が経験的内容なのかなんなのか、んー、んー?
    >  ↑
    ここへ混乱してます。

    > ふくろうさんに説明いただいた現在では、やっぱり中山先生は間違えてないのかも、とも思いますけど(もう一度該当箇所を見たりしますね!とりあえずお返事書いてみようと今、書き込みしてますm(_ _)m)、
    > やっぱりわかりにくい文章書くカントのせいやーと思うpipitです。

    えーと、おくたがわさんには申し訳ないんですが、ここ、翻訳や解説書を見る限り、
    内容的には中山先生と同じ解釈だと思います。
    つまり、比較的すなおに読めば、そうなるだろうということで、カントのせいにするのはどうかと…。
    ただ、こういう厳密な解釈をしていると、なんか違うと思う点が出てくるのはよくあることだし、そこをないがしろにせず、自分の考えを明確にされているので、
    有意義だと思いますし、大事だと思います。

    >
    > 大変勉強になります。ありがとうございます。
    > またいろいろな本などを読み直して書き込みしようと思いますし、ふくろうさんも何かあればご自由になんでも
    投稿してくださいませ。
    > よろしくお願いします!

    おくたがわさんが、突っ込んで解釈してらしたので、便乗して、おかげで私も大変勉強になりました。
    お二人ともありがとうございます。


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