| 2022/09/12(Mon) 23:28:47 編集(投稿者)
沼日記です。。。
素朴実在論に立つにしても、「(私が)直知してるこの映像X(感性像)は対象Xの現れとしての像」と、思考するなら、直接の知覚現象から、対象Xを措定している構造と思考していることとなる。
自分の見ているものを【現象】とみなすなら、現象ではないものを思考は措定する。 (自分の見ているものを【現象】と捉えないなら、また別の思考が立ち現れるのかな、と、思いました。)
カントは五感により生じたものを【現象】と捉えた、ということかなぁと思いました。。。
============
↓過去投稿よりコピペしたものです。
御子柴善之先生著の『カント哲学の核心 『プロレゴーメナ』から読み解く』NHKブックスに載ってた、カントの文章(『プロレゴーメナ』の中の文を御子柴先生が訳したもの)を引用します。 p160より引用 『実際、私たちが感官の対象を、正当にも、たんなる現象と見なすとき、私たちはそれによって同時に次のことを告白する。 現象には根拠として物それ自体が存する、と。 もっとも、私たちは物それ自体について、それがそれ自体としてどのような性質をしているかを知らず、私たちが知っているのは、その現象だけであり、私たちの感官がこの未知の何ものかによって触発されているそのあり方だけなのである。 したがって、悟性は、まさに現象を〔それとして〕認めることによって、物それ自体の現存在をも容認する。 そして、その限りで、私たちは次のように言うことができる。 諸現象の根拠として存するような何らかのものの表象、したがって、たんなる悟性体の表象は、たんに認められるのみならず不可避である、と。 (Ak314-315、中公102-103、岩波134-135)』 引用終了
===========
沼……… (T ^ T)
こうなると、なんで不可知に限定すんねん、ともなるような、、、 知覚から措定する対象X(含思考物)とX自体が=、か、≠か、、、不可知か、、、、
御子柴善之先生のジュニア用新書を開くと、 p68に解説があったので、また引用するつもりしてます。御子柴先生の解釈ということになるのかもしれませんね。
泥沼だよー_| ̄|○ (個人的感想)
、、、今思ったpipit私見 認識に対象が従う、を試してる時、 制限として物自体は必要とされる。 光あれ、と認識して光が生じるのではなく、受容性を残すことによって人間の越権が防止されている。 欲のからんだ越権に結びつかないように……
カント先生、、、
そんなに深く考えてないヲ (≧∀≦)
なんて万一考えてたら、みんなプンプンですヲヲ !
|