| pipitさん、おはようございます。 レスをありがとうございます。
■No26460に返信(pipitさんの記事) > ザビビのふくろうさん、こんばんは!お久しぶりです、書き込みありがとうございます! > > ■No26444 >>少し遡ってレスを見てみたところ、どうも「意識一般」というものについて、今一つしっくりいっていない方が多いように見受けられます。 >>なので、カントに密着した形ではありませんが、私の理解する限りで、一般的な解説を試みたいと思います。 >>ということでまずは、引用文からいったん離れて説明します。 > >>私は四角い円を表象できない >> >>という命題を考えてください。 >>これは明らかに真な命題ですよね。 >>問題は、この命題の主張する「四角い円を表象できない」という表象不可能性がいかなる不可能性であるか、ということです。 >>この不可能性は、例えば、 >> ふくろうは四角い円を表象できない >> pipitは四角い円を表象できない >>といった、これら命題を言明する主体(個別意識)の経験的不可能性を表しているのでしょうか。 >>もちろん、実際に想像できないという意味ではそれも含意するにせよ、だからと言って、想像力の不足etc.による個人的意識の能力的不可能性を意味するものではないでしょう。 >> >>そこで、この事情をよりはっきり捉えるために、主語を、一般的主観を表す変項「S」に換えて表すことにします。 >>☆ Sは四角い円を表象できない >>ここで明らかに言えることは、この「S」に、「ふくろう」「pipit」「うましか」「あなた」「わたし」etc.いかなる名を代入しても、それが有意味である限り、その結果できる命題は真でしかありえないということです。 >>このことは >>※「任意の主観(S)について、四角い円を表象するということは不可能である」ということを意味します。 >>さらに言い換えると、 >>※「(それが誰の意識であろうとも)主観(意識)である限り、四角い円を表象することは不可能だ」 >>すなわち、 >>※「意識一般において、四角い円を表象するということは不可能である」 >>ということになります。 >>留意すべきは、この真理性が、経験的検証を必要とせずに成り立つということです。 >>つまり、この事実(=意識一般における不可能性)が、私=ふくろうの経験的事実に(権利上)先だって成り立っているわけです。 >>つまり、意識の一例であるふくろうの意識(個別意識)において四角い円が表象不可能なのは、そもそもふくろうの経験的不可能性に先立って、意識一般においてアプリオリに不可能であるからにほかなりません。逆ではないのです。 >>ゆえに、意識一般(純粋統覚)とは、この“S”のことである、ということになります。 >> >>この不可能性は、意識をOSに喩えた場合は、この「ソフトの仕様」である、ということになるでしょう。 >>あるいは少し変えて、ゲーム・ソフト『My Consciousness』にたとえた場合は、ゲームの仕様であり、つまりはそもそもゲームの構成的ルールで、プレイヤー(S)は四角い円を表象できないように定まっている、ということになるでしょう(だから、「アプリオリ」かつ、ルールでできない=権利がない)。 >> >>【まとめ】 >> ふくろうは四角い円を表象できない >>という経験判断に、 >> Sは四角い円を表象できない >>という一般的(超越論的)判断が先立つ。< > > おぉ、この【まとめ】の表現、pipitにはわかりやすいです。 > > >>語弊を恐れず言うと、ふくろうの意識(経験的自我)において表象不可能である以前に、意識一般(純粋自我S)においてアプリオリに不可能である、ということ。 >>ふくろうの意識において表象不可能なのは、そもそも意識一般において不可能だから。 >>***************************: >>以上で、一応「意識一般」についての解説を終えます。 >>以下簡単に、上記引用の御子柴先生の記述に戻って述べます。 >> >>ここで御子柴先生が述べている「客観的判断」というのは、ニュートン力学に代表される自然科学的認識や数学的認識のことだと思いますが、これはカントによれば「アプリオリかつ総合的判断」のことですよね?(違っていたらご指摘ください) >>一応そうだと仮定して述べますが、カントによれば、このような科学的真理、すなわちアプリオリかつ総合的真理は、アプリオリであるがゆえに経験に先立って成り立つ認識(真理)であり、つまりは先に述べたように、経験的自我、個別意識にのみ成立する認識(真理)ではなく、権利上それに先立って、意識一般(純粋自我)において成立する認識(真理)だということであると思います。 >>要は、アプリオリな判断とは、超越論的統覚における判断のことでしょう。 >> >>***************** >>うましかさんやpipitさんはかなり細かく正確に読んでらっしゃるので、こんなおおざっぱな説明ではあんまり役立たないかもしれませんが、「意識一般」が「ああ、そういうことか」と、とりあえず腑に落ちるための説明として、役立てばうれしいです。 >>もちろん、間違いがあればご指摘いただきたいと思います。 >> >>>pipitさん >>OSに類比するのは私も考えていたんですが、先を越されちゃいました(笑)。上から目線で申し訳ないですが、よく考えられているなと正直ほんとうに感心しました。 >>ちなみに、意識としての自己(心)と身体(脳)との関係を、ソフト(意思決定システムを含むプログラム)とハードウェアの関係に類比すれば、受動意識仮説の単に観察する自己とはまた違った捉え方が可能だと私は思います。AIって、実際そうなっていきつつあるんじゃないかと。< > > 意識としての自己(心)が、プログラムを組むことで→脳(ハードウェア)に影響を及ぼして、観察する自己を作成している > 、とふくろうさんは考えているということですか? > また別のお考えですか? >
うん、そうじゃなくて、もっとラフに言うと、心−身体、あるいは意識−脳の関係を、ソフトウェア−ハードウェアの関係に類比しているだけです。 私は主観あるいは主体をシステムだと思っていて、イメージで言うと、主観システムのベースに当たる本能がOSに相当するかなって感じです。 まあ、まだ漠然としたイメージに過ぎません。
>****************** >>【付録】デカルト的「我」への適用 >> 私は「私は今現在存在しない」と考えることはできませんが、この思考不可能性は、私=ふくろうの意識にとってのみ成り立つ不可能性ではなく、任意の私(S)、すなわち、意識一般における不可能性です。< > > はい。 > >>よって、「私は今現在存在する」はアプリオリに真な判断であり、それゆえこの判断は、経験的主観としての私ではなく、超越論的主観としての私(S)の判断(意識一般における真理)である。(注:それに対して、これがもし「ふくろうは今現在存在する」という意味の主張なら、偽でありうる)。< > > ちょっとここらへん、カントはややこしそうにpipitは思っています。
ああ、この付録はふくろうの自身の思いつきです。
> >>以上です。 >>何等かの参考になれば幸いです。< > > わかりやすく説明してくださり、ありがとうございます。 > とてもありがたいです(o^^o)♪
なんか、忙しそうなのに、お邪魔しましたm(_ _)m
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