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■26536 / inTopicNo.13)  みのりさんへ
  
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2022/09/20(Tue) 18:27:06)
    みのりさん、こんばんは。
    レスありがとうございます。
    横レス歓迎でございます(笑)

    No26526に返信(みのりさんの記事)
    > ↑ でいいんですよね。
    > なんだか気になりだしたら気になるので。
    > pipitさん、ふくろうさん、割り込みしてすみません。
    >
    >
    > 超越論的主観(読み)ちょうえつろんてきしゅかん
    > 世界大百科事典内の超越論的主観の言及
    > 【認識論】より
    > …しかし当時の数学やニュートン力学の根底になっている原理的な知識とその諸条件を析出し,それらによって〈可能なる経験〉の基本構造を再構成することを理論的作業の中心とした点では,カントは近世合理主義の継承者でもあった。 カント認識論の立場は超越論的観念論あるいは超越論的主観主義と呼ばれている。彼の考えかたでは,科学的認識の対象である自然の基本構造は主観の形式によって,すなわち感性や悟性の形式(時間・空間,カテゴリーなど)によって決定されているが,この主観は個人的・経験的な意識主体ではなく,経験的自我の根底に向かう哲学的反省によってはじめて明らかになる意識の本質構造であり,意識一般とも呼ぶべき超越論的主観transzendentales Subjektである。…
    >
    >
    > さすがに、ここでの「私」=「神」はないだろうと思い、私の投稿一つ削除させていただきますね。
    > 夜中に目覚めてふとスマホで見て、ここでの「私」は「え? 神?」と思ったのですけど・・

    >超越論的主観=超越論的自我

    で、いいです。さらに
    =純粋自我=意識一般(一般的意識)
    でもいいですし、
    『論考』で言えば、
    =哲学的自我=独我論的私
    ってことになります。
    ただ、これがカントとウィトゲンシュタインでは、ビミョーかつ重要なところで違うからややこしいんですよ。

    なので、=神ではありません^^


引用返信/返信 削除キー/
■26535 / inTopicNo.14)  Re[46]: 日記
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2022/09/20(Tue) 18:17:26)
    pipitさん、こんばんは。
    説明が下手で、ご苦労をおかけしてますm(__)m

    No26525に返信(pipitさんの記事)
    > No26520
    >>言語の形式にそって、世界が現れる。
    >
    > 私の知覚と、ふくろうさんの知覚が別個でも、現れる世界は同じ、ということなのかなぁ<
    >
    >
    > No26521
    >>こう言うと申し訳ないんですが、pipitさんは、経験的自我と超越論的自我の区別がいまひとつつけられていないように思います。<
    >
    > --------------------------------
    >
    >
    > ( 言語の形式にそって、世界が現れる)=超越論的主観
    >
    > (私の知覚と、ふくろうさんの知覚が別個でも、)=経験
    >
    >
    > (現れる世界は同じ、ということなのかなぁ)=超越論的主観に立ち現れる世界?

    pipitさん、
    今回は申し訳ないですが、確認のための質問をさせてください。

    私は『論考』における言語の論理学的考察の類比としてよくユークリッド幾何学を用いています。
    それはユークリッド幾何学がそれ自体としては現実世界(物理的世界)とは独立で、その幾何学的法則(ピタゴラスの定理etc.)はあくまでユークリッドの公理系(ユークリッド宇宙)で成り立つものであって、それ自体では物理的世界の真理を意味するものではないからです。
    この幾何学のとらえ方は非ユークリッド幾何学の成立以降に生まれたもので、カントの考えと異なるものですが、この点について、pipitさんは理解・納得してらっしゃいますか?

    このことを理解・共有していなければ、超越論的考察の説明もたぶん理解するのが難しいと思うんですが、私は勝手に理解してらっしゃるだろうと思いこんで、それを前提にして説明に喩えとして利用してました。でも、これが納得できていなかったら、喩えもわかりませんよね。
    なので、改めての確認です。いかがでしょうか。

引用返信/返信 削除キー/
■26533 / inTopicNo.15)  みのりさん、ふくろうさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/09/20(Tue) 12:23:07)
    お二人さま、こんにちは!
    一旦、ふくろうさんとpipitとの会話は終わってるので、ややこしくなると申し訳ないので、もしよければ、お二人の会話の続きは、みのりさんのトピでしてくださってもpipitは大丈夫でーす
    (^ ^)v

    No26526に返信(みのりさんの記事)
    > ↑ でいいんですよね。
    > なんだか気になりだしたら気になるので。
    > pipitさん、ふくろうさん、割り込みしてすみません。
    >
    >
    > 超越論的主観(読み)ちょうえつろんてきしゅかん
    > 世界大百科事典内の超越論的主観の言及
    > 【認識論】より
    > …しかし当時の数学やニュートン力学の根底になっている原理的な知識とその諸条件を析出し,それらによって〈可能なる経験〉の基本構造を再構成することを理論的作業の中心とした点では,カントは近世合理主義の継承者でもあった。 カント認識論の立場は超越論的観念論あるいは超越論的主観主義と呼ばれている。彼の考えかたでは,科学的認識の対象である自然の基本構造は主観の形式によって,すなわち感性や悟性の形式(時間・空間,カテゴリーなど)によって決定されているが,この主観は個人的・経験的な意識主体ではなく,経験的自我の根底に向かう哲学的反省によってはじめて明らかになる意識の本質構造であり,意識一般とも呼ぶべき超越論的主観transzendentales Subjektである。…
    >
    >
    > さすがに、ここでの「私」=「神」はないだろうと思い、私の投稿一つ削除させていただきますね。
    > 夜中に目覚めてふとスマホで見て、ここでの「私」は「え? 神?」と思ったのですけど・・
引用返信/返信 削除キー/
■26526 / inTopicNo.16)  超越論的主観=超越論的自我
□投稿者/ みのり -(2022/09/20(Tue) 07:57:51)
    ↑ でいいんですよね。
    なんだか気になりだしたら気になるので。
    pipitさん、ふくろうさん、割り込みしてすみません。


    超越論的主観(読み)ちょうえつろんてきしゅかん
    世界大百科事典内の超越論的主観の言及
    【認識論】より
    …しかし当時の数学やニュートン力学の根底になっている原理的な知識とその諸条件を析出し,それらによって〈可能なる経験〉の基本構造を再構成することを理論的作業の中心とした点では,カントは近世合理主義の継承者でもあった。 カント認識論の立場は超越論的観念論あるいは超越論的主観主義と呼ばれている。彼の考えかたでは,科学的認識の対象である自然の基本構造は主観の形式によって,すなわち感性や悟性の形式(時間・空間,カテゴリーなど)によって決定されているが,この主観は個人的・経験的な意識主体ではなく,経験的自我の根底に向かう哲学的反省によってはじめて明らかになる意識の本質構造であり,意識一般とも呼ぶべき超越論的主観transzendentales Subjektである。…


    さすがに、ここでの「私」=「神」はないだろうと思い、私の投稿一つ削除させていただきますね。
    夜中に目覚めてふとスマホで見て、ここでの「私」は「え? 神?」と思ったのですけど・・
引用返信/返信 削除キー/
■26525 / inTopicNo.17)  日記
□投稿者/ pipit -(2022/09/20(Tue) 05:02:05)
    No26520
    > 言語の形式にそって、世界が現れる。

    私の知覚と、ふくろうさんの知覚が別個でも、現れる世界は同じ、ということなのかなぁ<


    No26521
    > こう言うと申し訳ないんですが、pipitさんは、経験的自我と超越論的自我の区別がいまひとつつけられていないように思います。<

    --------------------------------


    ( 言語の形式にそって、世界が現れる)=超越論的主観

    (私の知覚と、ふくろうさんの知覚が別個でも、)=経験


    (現れる世界は同じ、ということなのかなぁ)=超越論的主観に立ち現れる世界?
引用返信/返信 削除キー/
■26523 / inTopicNo.18)  まさかのですが。
□投稿者/ みのり -(2022/09/20(Tue) 02:01:35)
    ここでの私とはもしやの 神?
    下からずっと辿り来てそういうこと?と。
    神以外誰もいない?
    そういう解釈なのかな。
    あ、横失礼しました。
引用返信/返信 削除キー/
■26522 / inTopicNo.19)  (削除)
□投稿者/ -(2022/09/20(Tue) 00:24:52)
    この記事は(投稿者)削除されました
引用返信/返信 削除キー/
■26521 / inTopicNo.20)  pipitさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2022/09/19(Mon) 23:59:30)
    pipitさん
    レスをどうも。

    No26519に返信(pipitさんの記事)
    > ふくろうさん、返信ありがとうございます。
    >
    > No26517
    > >「現象」を「今あるもの」と置き換えるのは、違和感がありますね。
    > 学術用語的には、現象主義における「現象」、もしくはフッサール現象学における「現象」の概念がどちらかと言うと近いかな。
    > わたし的には、次のような感じです
    > 【現象】
    > 私(への/における)立ち現れ=直接(知覚)経験の事実<
    >
    > 今あるもの、と、今あるもの以外、に分けるなら、
    > 現象は、今あるもの、とpipitは思いましたが、
    > その前提(今あるもの、と、今あるもの以外)が違うのかもしれませんね。
    >
    > >現象(の総体)=世界=私<
    >
    > 総体、って今ふくろうさんに見えないものも含まれる?
    > 過去現在未来も含まれる?
    > 知覚してる以外のものも含まれる?
    > それなら、今あるもの、以外のものも現象に含まれるのかもしれないですね。
    >
    > >ん?
    > これ、「言葉」も「私」も経験的言語、経験的自我をイメージしていませんか?
    > だとしたら違いますね。<
    > >「私の言語」というとき、それは言語一般であり、私=超越論的主観です。
    > ユークリッド幾何学が唯一であるように、
    > 同様に、「私の言語」は唯一であり、このことが世界の唯一性を担保します。
    > まあ、ちょっとこのへん、難しいと思いますし、『論考』じゃなく『純理』の場なので、このあたりにしましょうか。
    > おつきあいありがとうございました。<
    >
    > 一般的な表現だと、
    > 『主体の思考の形式により、体験している物事を言語で表現する。』になるのかな、と、思うけど、
    >
    > ふくろうさんは、
    > No26505で、
    > >論理=言語の形式=思考の形式=世界の形式<
    > とおっしゃってて、
    >
    > 独我論なのかなぁ、と思って質問させていただきました。
    >
    > ふくろうさんの考えられてる世界に他人はいるのかなぁ、他人は生きてるのかなぁ。
    >
    > わからないままですが、どうもありがとうございました
    > m(_ _)m
    >
    > タンチョウさんのこと、教えてくださって嬉しかったです。
    > ありがとうございます!(*^▽^*)
    >
    >

    pipitさん、何か尻切れトンボみたいになってすみませんね。
    気持ち悪いと思います。申し訳ありません。

    簡単に。
    『論考』は独我論なんですが、超越論的独我論で、経験的自我の独我論ではありません。
    なので、ふくろうの世界は関係ないんです。これは経験的世界ですから。

    《私》もいわば意識一般であり、それに代入される「ふくろう」「pipit」などの名が指す経験的自我の独我論ではないんですよ。
    ふくろうだけが存在する
    みたいなね。
    まあ『論考』の独我論を、こういう独我論と解釈する人もいますけどね。

    こう言うと申し訳ないんですが、pipitさんは、経験的自我と超越論的自我の区別がいまひとつつけられていないように思います。

    それにしても、以上、あくまで私の解釈なので、わかんなくてもあんまり気にしないでくださいね。





引用返信/返信 削除キー/
■26520 / inTopicNo.21)  日記
□投稿者/ pipit -(2022/09/19(Mon) 23:27:39)
    >一般的な表現だと、
    『主体の思考の形式により、体験している物事を言語で表現する。』になるのかな、と、思うけど、

    ふくろうさんは、
    No26505で、
    >論理=言語の形式=思考の形式=世界の形式<
    とおっしゃってて、<

    言語の形式にそって、世界が現れる。

    私の知覚と、ふくろうさんの知覚が別個でも、現れる世界は同じ、ということなのかなぁ
引用返信/返信 削除キー/
■26519 / inTopicNo.22)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/09/19(Mon) 23:19:55)
    ふくろうさん、返信ありがとうございます。

    No26517
    >「現象」を「今あるもの」と置き換えるのは、違和感がありますね。
    学術用語的には、現象主義における「現象」、もしくはフッサール現象学における「現象」の概念がどちらかと言うと近いかな。
    わたし的には、次のような感じです
    【現象】
    私(への/における)立ち現れ=直接(知覚)経験の事実<

    今あるもの、と、今あるもの以外、に分けるなら、
    現象は、今あるもの、とpipitは思いましたが、
    その前提(今あるもの、と、今あるもの以外)が違うのかもしれませんね。

    >現象(の総体)=世界=私<

    総体、って今ふくろうさんに見えないものも含まれる?
    過去現在未来も含まれる?
    知覚してる以外のものも含まれる?
    それなら、今あるもの、以外のものも現象に含まれるのかもしれないですね。

    >ん?
    これ、「言葉」も「私」も経験的言語、経験的自我をイメージしていませんか?
    だとしたら違いますね。<
    >「私の言語」というとき、それは言語一般であり、私=超越論的主観です。
    ユークリッド幾何学が唯一であるように、
    同様に、「私の言語」は唯一であり、このことが世界の唯一性を担保します。
    まあ、ちょっとこのへん、難しいと思いますし、『論考』じゃなく『純理』の場なので、このあたりにしましょうか。
    おつきあいありがとうございました。<

    一般的な表現だと、
    『主体の思考の形式により、体験している物事を言語で表現する。』になるのかな、と、思うけど、

    ふくろうさんは、
    No26505で、
    >論理=言語の形式=思考の形式=世界の形式<
    とおっしゃってて、

    独我論なのかなぁ、と思って質問させていただきました。

    ふくろうさんの考えられてる世界に他人はいるのかなぁ、他人は生きてるのかなぁ。

    わからないままですが、どうもありがとうございました
    m(_ _)m

    タンチョウさんのこと、教えてくださって嬉しかったです。
    ありがとうございます!(*^▽^*)




引用返信/返信 削除キー/
■26517 / inTopicNo.23)  pipitさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2022/09/19(Mon) 22:47:16)
    pipitさん、こんばんは。
    雨音を聞きながらレスを書いています。

    No26509に返信(pipitさんの記事)
    > ふくろうさん、返信ありがとうございます(^ ^)
    >
    > ■No26508
    >>うーんと、
    >>世界の限界=知識の限界という意味では、世界はイコール認識(表象)世界だし、世界はイコール私の世界なんだけど、「主観の認識世界」って言うと、なんかビミョーに違和感があるんですよね。
    >>『論考』の超越論的主観は、『純理』の主観とは違って、世界を構成する主観ではないんですよ。
    >>主観は世界のアプリオリな形式ではありますが、存在論的に言うと、私=世界なんですよ。<
    >
    > なるほど、主観が世界を構成してるのではなく、
    > 今あるものが世界という意味ですか?
    >

    「現象」を「今あるもの」と置き換えるのは、違和感がありますね。
    学術用語的には、現象主義における「現象」、もしくはフッサール現象学における「現象」の概念がどちらかと言うと近いかな。
    わたし的には、次のような感じです
    【現象】
    私(への/における)立ち現れ=直接(知覚)経験の事実



    >>ちょっとうましかさんとこに書いた文章も参考にしてもらいたいんですが、
    >>ウィトゲンシュタインの場合、現象とは「基体としての我の立ち現れ」ではなく、
    >>現象=我なんです。<
    >
    > 今あるもの=私=世界、ということですか?
    >
    >

    上の定義のもとで、

    現象(の総体)=世界=私

    です。

    >>前にも書いたことがあるんですが、時空は表象世界の形式だけど、存在論的に別ものではなく、時空の存在=表象世界の存在、というのが類比的だと思います。
    >>あえて言えば、現象が立ち現れる空間の形式、むしろ西田幾多郎の「場としての自己」に近いイメージだと私は考えています。
    >>
    >>言うまでもないと思いますが、以上はふくろうの解釈なので、鵜呑みになどなさらないよう、ご注意ください。<
    >
    > 言葉を使うのは、私だけということですか?


    ん?
    これ、「言葉」も「私」も経験的言語、経験的自我をイメージしていませんか?
    だとしたら違いますね。

    「私の言語」というとき、それは言語一般であり、私=超越論的主観です。
    ユークリッド幾何学が唯一であるように、
    同様に、「私の言語」は唯一であり、このことが世界の唯一性を担保します。

    まあ、ちょっとこのへん、難しいと思いますし、『論考』じゃなく『純理』の場なので、このあたりにしましょうか。

    おつきあいありがとうございました。

引用返信/返信 削除キー/
■26509 / inTopicNo.24)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/09/19(Mon) 20:58:55)
    ふくろうさん、返信ありがとうございます(^ ^)

    No26508
    > うーんと、
    > 世界の限界=知識の限界という意味では、世界はイコール認識(表象)世界だし、世界はイコール私の世界なんだけど、「主観の認識世界」って言うと、なんかビミョーに違和感があるんですよね。
    > 『論考』の超越論的主観は、『純理』の主観とは違って、世界を構成する主観ではないんですよ。
    > 主観は世界のアプリオリな形式ではありますが、存在論的に言うと、私=世界なんですよ。<

    なるほど、主観が世界を構成してるのではなく、
    今あるものが世界という意味ですか?


    > ちょっとうましかさんとこに書いた文章も参考にしてもらいたいんですが、
    > ウィトゲンシュタインの場合、現象とは「基体としての我の立ち現れ」ではなく、
    > 現象=我なんです。<

    今あるもの=私=世界、ということですか?


    > 前にも書いたことがあるんですが、時空は表象世界の形式だけど、存在論的に別ものではなく、時空の存在=表象世界の存在、というのが類比的だと思います。
    > あえて言えば、現象が立ち現れる空間の形式、むしろ西田幾多郎の「場としての自己」に近いイメージだと私は考えています。
    >
    > 言うまでもないと思いますが、以上はふくろうの解釈なので、鵜呑みになどなさらないよう、ご注意ください。<

    言葉を使うのは、私だけということですか?
引用返信/返信 削除キー/

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