| 2022/10/15(Sat) 00:36:09 編集(投稿者)
哲学書を読むとき我々は解釈をする。 とりわけ古典と言われるような哲学書は理解が困難で、そのまま読んで理解できるものはほぼないから、あーでもない、こーでもないと読むことになる。 で、これはある意味必然とも言えるかもしれないが、解釈する際に我々がやりがちなのは、理解の困難な箇所、術語、概念、命題etc.の意味を理解するために、自分にとって既知の表現に置き換えて、理解しようとすることである。 簡単に言うと、未知の表現を既知の表現に落とし込んで理解することだ。
しかしながら、哲学の術語(概念)の使用をマスターすることは、これまで自分の全く知らなかった世界の新しい観方(認識方法)をマスターし、新しい世界像を得ることでもある。 すなわち、哲学により既知の自己/世界を否定・解体し、未知の自己/世界へと超出すること。 これは哲学を学ぶことの最重要な意義のひとつと言ってもよいことのはずである。 いわゆる「パラダイムチェンジ」の「パラダイム」の習得すること。 カントの言う、「コペルニクス的転換」などはその際たるものだろう。
であるにもかかわらず、哲学書を理解するために、未知の概念を既知の概念(自分の馴染みの表現)に置き換えて理解しようとすることは、この術語(概念)の本来の可能性・意義を殺してしまう本末転倒の危険性があるわけだ。
未知の概念の理解 @ 既知の概念の意味に落とし込んで理解する。未知を既知へと還元すること。理解=納得。 A 既知の概念の使用をマスターし、新たな世界の観方を習得する。既知から未知への超出。理解=発見。
そういう意味では、その哲学書の語法を模倣することも、ある程度必要な演習かもしれない。 いわゆる「まなぶ」は「まねぶ」の実践だ。 哲学を行為(実技)として捉える場合、それもありかも。 もちろん、ハイデガーの語り口やいわゆるポストモダン思想家の語り口の模倣ばっかりやっているとイタイので、このような方法は諸刃の剣だが、修行中は解釈の方法として有用なのではないだろうか。 (ふと思ったが、AIがこういう学習をしているんじゃなかったっけ?)
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