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■26316 / inTopicNo.73)  Re[12]: おくたがわさんへ(;´・ω・)
  
□投稿者/ おくたがわ -(2022/09/12(Mon) 21:10:11)
    2022/09/12(Mon) 21:25:57 編集(投稿者)

    No26308に返信(うましかさんの記事)
    > No.26296
    >
    > >こんにちは。よろしくお願いします。
    >
    > こちらこそ。いつも声をかけてくださってありがとうございますm(__)m
    >
    > *******
    >
    > >私個人は、人間にとってまったくの不可知と思われる物自体が、ともかく存在はするとカントが前提しているようなのはなぜか。あるかどうかも知りえないのでは? と思っていた(おくたがわさん)
    >
    >
    > そうですね! (・ω・)ノ
    >
    > カントが実際そのような前提をしているのかどうか、私自身はまだ確認できておりません。

    感性論の範囲で物自体の存在を前提とする記述はなかったっけ?と考えはじめて…
    検索等した結果
    何かによる触発で感性が表象をもたらしていると考えるならば、その何かの存在を仮定せざるを得ない。あるいはその存在が要請される。という見なしならば、不可知であるということと矛盾はしないのかも。
    どうもありがとうございます。


引用返信/返信 削除キー/
■26311 / inTopicNo.74)  黒崎カントのDing an sich(;´・ω・)メモ
□投稿者/ うましか -(2022/09/12(Mon) 20:22:37)
    2022/09/12(Mon) 21:01:59 編集(投稿者)

    ◇ 黒崎政男『カント『純粋理性批判』入門』、講談社選書メチエ、p.51


    >物自体(Ding an sich)とは、"もの"そのもののことであり、それが何かによって認識されようとしたり、知覚されようとすることとは〈無関係〉に、つまり、他とは関係なく、それ自身で(an sich = itself)存在しているような状態のものである。<


    ・他とは関係なく、それ自身で存在しているような状態のものを、Ding an sich と呼んでいるということ。

    *******

    こう考えてみる。

    たとえば私の視界内にあるもの総ては、私に認識、知覚されているという意味で、或いは、私と紐付けられているという意味で、たんなるDingであり、Ding an sich とは呼べない。


    Ding,Ding,Ding
    (/・ω・)/ Ding沼

引用返信/返信 削除キー/
■26308 / inTopicNo.75)  おくたがわさんへ(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2022/09/12(Mon) 19:56:15)
    No.26296

    >こんにちは。よろしくお願いします。

    こちらこそ。いつも声をかけてくださってありがとうございますm(__)m

    *******

    >私個人は、人間にとってまったくの不可知と思われる物自体が、ともかく存在はするとカントが前提しているようなのはなぜか。あるかどうかも知りえないのでは? と思っていた(おくたがわさん)


    そうですね! (・ω・)ノ

    カントが実際そのような前提をしているのかどうか、私自身はまだ確認できておりません。

    ですが、もし「人間にとってまったくの不可知と思われる物自体が、ともかく存在はする」と主張する人がいるとしたら、

    私もおくたがわさん同様、

    全く知り得ないのなら、そもそも「あるかどうかも知りえない」ではないか!

    だいたい「ともかく存在」ってなんだソリャ! とか

    ようは、中途半端に知っているってことじゃないの〜?! とか、

    ツッコミをいれるとおもいます、、、、、、、(;´・ω・)







    いや、やっぱり(゜-゜)めんどくさいからツッコまない


    では(/・ω・)/









引用返信/返信 削除キー/
■26296 / inTopicNo.76)  Re[10]: でぃんぐあんじっひ沼
□投稿者/ おくたがわ -(2022/09/12(Mon) 15:32:04)
    2022/09/12(Mon) 19:38:03 編集(投稿者)

    No26282に返信(うましかさんの記事)
    こんにちは。よろしくお願いします。

    > ◇千葉清史『「物自体は存在するか」という伝統的な問題の解決によせて』
    >
    >  https://yamagata.repo.nii.ac.jp/
    https://www-hs.yamagata-u.ac.jp/wp-content/uploads/2017/10/kiyou12_02.pdf

    紹介ありがとうございます。読みました。
    カントの物自体ってどんなもの?と思っている人にとってイメージできる良い案内になっているのではないでしょうか。それがテーマではないものの。
    私個人は、人間にとってまったくの不可知と思われる物自体が、ともかく存在はするとカントが前提しているようなのはなぜか。あるかどうかも知りえないのでは? と思っていたのですが、
    この論文はそれについての一つの回答を与えていました。

    認識することもカテゴリー適用もできないなら存在主張が不可能になるのではないかという批判に対し、可能であるという擁護を展開するとともに、存在することを示唆する積極的主張もなされています。
    ただしその場合、

    (以下の引用中の[議論 T]というのは、『経験的認識の受容性から、触発する物自体の存在を導く』既成の議論の欠点を修正した著者のバージョンです)

    『とはいえ,議論 T は,「物自体 Dinge an sich」についての通常の理解の変更を迫る,ということは強調に値する。
    議論 T は,触発する物自体が,個体としてイメージされるようないわゆる「物」とは根本的に異なるものであるかもしれない,という可能性を排除しない。
    例えば,「物自体」とは,「我々の心のうちに(自発性から独立に)感覚が生じる」という過程,あるいはその際の単なる秩序のようなものであるのかもしれないし,あるいはそれどころか,およそ我々にとって端的に理解不可能なものでさえあるのかもしれないのだ12。(それがともかくも我々の認識から独立に存立するものである,ということだけは理解されるが。)
    しかし,このような可能性は,カント哲学において「物自体」という語を用いることの障害になるとは考え難い。
    というのも,物自体とは,すでにカント自身の理解において,そのあり方が全く認識不可能なもの,通常の時空的事物とは全く異種なものであるはずだからだ。
    従って,議論 T が,「物自体」や「触発」のあり方を未規定のままに残す,ということは,カントによる物自体の不可知性テーゼに照らして,よりふさわしいことである,とすら言えよう』

    ここに書かれた「物自体」には私はとても共感できます。
引用返信/返信 削除キー/
■26282 / inTopicNo.77)  でぃんぐあんじっひ沼
□投稿者/ うましか -(2022/09/11(Sun) 23:55:42)
    ◇千葉清史『「物自体は存在するか」という伝統的な問題の解決によせて』

     https://yamagata.repo.nii.ac.jp/



    ◇滝沢正之『カントの認識論における判断とその対象』

    ◇冨田恭彦『拙著『カント哲学の奇妙な歪み』補遺 −〈胚芽生得説〉は所期の目的を達成したか−』

     japanische-kant-gesellschaft.org/japanische_kant_studien_20.html


    (;´・ω・)沼そのもの自体。。。?
引用返信/返信 削除キー/
■26259 / inTopicNo.78)  Re[8]: みとりいぬ(´-`).。oO
□投稿者/ パニチェ -(2022/09/11(Sun) 09:23:50)
    昨日見逃してしまったので、再放送15日午前0時に録画予約しますた。
引用返信/返信 削除キー/
■26231 / inTopicNo.79)  みとりいぬ(´-`).。oO
□投稿者/ うましか -(2022/09/11(Sun) 06:36:21)
    2022/09/11(Sun) 06:38:28 編集(投稿者)

    ◇“看取り犬(みとりいぬ)”とワンダフルライフ

    https://www.nhk.jp/p/etv21c/ts/M2ZWLQ6RQP/episode/te/G9Y5364PZ2/

    >不思議な犬がいる。名前は、文福。神奈川県にある特別養護老人ホームで暮らしている。文福はお年寄りに死期が迫ると、顔をなめたり、体をこすりつけたりする。施設ではその姿から文福を“看取り犬(みとりいぬ)”と呼ぶ。実は施設に暮らす犬は文福だけでない。ここでは愛犬を連れて入所が可能。長い人生を生きてきたお年寄りたちに、そっと寄り添う。

    *******

    死に逝く老人がいる。

    その部屋の外で、犬がよこたわりジッとしている。

    犬の目、物言わぬ口元をみて、私はふとおもいだす

    >「なぜ一体、存在者があるのか、そしてむしろ無があるのではないか?」(*1)

    私にとっての「無」とは、さしあたり、不在を意味するのかもしれない。

    *******

    *1 マルティン・ハイデッガー『形而上学入門』、川原栄峰 訳、平凡社ライブラリー、p.11

    https://archive.org/details/HeideggerEinfuehrungInDieMetaphysik

    >この問いは、すべての存在者を、すなわち最も広いで現在目の前に既にあるもの〔Vorhandene〕のみならず、かつて存在したものおよび将来存在するはずのものをも包括する。

    この問いの領域の限界〔Grenze〕をなすのは、端的にいかなる場合にも決して存在しないもの、つまり無〔Nichts〕だけである。

    無でないものはすべてこの問いに含みこまれる。しまいには無そのものさえ含みこまれる。ただしそれは、われわれは無について話すのだから、無もまた或るものであり、一つの存在者であるという理由からではなく、無は無で「ある〔≫ist≪〕」からである。

    われわれのこの問いが及ぶ領域は、いつまでたってもわれわれがそれを追い越すことができないほど、それほど広範である。
    われわれはあれやこれやに問いかけているのでもなく、次々と順序を追って、すべての存在者に問いかけているのでもない。

    われわれは初めから全存在者に問いかけているのであり、後ほどその理由を詳しく論究するとして、とにかくわれわれは全体としての存在者そのものに問いかけているのである。<

    〔上掲書、p.13〜p.14 / 段落分けは引用者によるもの〕





引用返信/返信 削除キー/
■26226 / inTopicNo.80)  うましかメモ(´-`).。oO
□投稿者/ うましか -(2022/09/10(Sat) 20:15:16)
    No.26077

    >あと、これはナイショな話しですが、昨夜ディルタイの『体験と創作』をみつけて、チラ見しているところです(;´・ω・)

    https://archive.org/details/daserlebnisunddi00diltuoft/mode/2up

    特に↑のp.196〜p.201、"Erlebnis und Dichtung"

    ディルタイ『体験と創作』(上)、柴田治三郎 訳、岩波文庫、p.229〜p.235

    *******

    段ボールから引っ張り出してみたけれど、、、よく分からない(;´・ω・)

    とりあえず書き留めておいて、ねかせておこう(´-`).。oO
引用返信/返信 削除キー/
■26184 / inTopicNo.81)  追記(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2022/09/06(Tue) 23:12:19)
    No.26150

    >例えばカントの著作の和訳を読んだ場合、訳者によって明らかに意味が違うということはありますか? (田秋さんの問い)


    たまにあります!

    ただし、明らかに意味が違うと感じた場合、まずはオノレを疑います、というのがうましかの答えであります。

    *******


    ある翻訳が、それに先行する翻訳と違う訳語をあてている場合に、

    訳注により、なぜそうしたのか説明があるとたすかりますね(;´・ω・)

引用返信/返信 削除キー/
■26182 / inTopicNo.82)  田秋さんへ
□投稿者/ うましか -(2022/09/06(Tue) 22:32:07)
    2022/09/06(Tue) 22:33:42 編集(投稿者)

    こんばんはー(・ω・)ノ

    とても読みごたえのある投稿をありがとうございました。

    こころのこもった美味しい手料理をいただいた気分になりました。

    私は書くのが好きでも得意でもないので投稿には向かない人間ですが、人の投稿、とくに、よく考え調べたりしたことを背景に書かれたとおもわれる文章を読むのが好きです(・∀・)

    *******

    では手短に。

    >哲学はどうなのでしょうか?ある哲学者が言わんとしたことに対して、万人が共通の理解をしているか?という問題があるように思います。

    哲学文献を読解、解釈する際には、先行研究をさしあたりの基準にしているのではないかとおもいます。

    >ある単語が負っている意味の汲み取りが大変重要になり、書かれた時代や地域、原著者の思い入れなども手伝って、翻訳というのは困難極まる作業ではないかと思うのです(用いる日本語についても同じ事が言えます)。

    翻訳とは原著者が意図し書いたことよりつねに過多であるか過少であるかなのかもしれません。もちろん読者に的外れ、トンチンカンと感じさせてはだめで、ストライクゾーンのような(解釈の)幅を自在に攻めることができるには相当な力量が必要のような気がします。とはいえ翻訳者は最終的に自らの翻訳語を選び決めなければならず、私は、翻訳者に対しこの決断にこそ、もっとも敬意を払いたいとおもいます。

    >うましかさんが《沼》と表現されていることもひょっとするとその類いのことなのでは?と想像しています。

    おもに書いてある文章が難解過ぎて途方に暮れていますという意味で使っているのですが、それがすべてでは、、、ないかもですね(*ノωノ)



    では(/・ω・)/


引用返信/返信 削除キー/
■26163 / inTopicNo.83)  Re[6]: 田秋さんへ(;´・ω・)
□投稿者/ 田秋 -(2022/09/06(Tue) 07:49:50)
    2022/09/06(Tue) 09:12:55 編集(投稿者)

    おはようございます、うましかさん

    返信ありがとうございました。

    楽譜なら演奏者の解釈によって色々な仕上がりがあるのは謂わば当然で、例えば曲の冒頭に[f:フォルテ、強く]とあってもそれがどのくらい強いのかわかりませんし、Moderato(モデラート;中庸に)と書いてあっても、ある1点を指定するというのではなく許容範囲を示すものです。「あなたが感じるモデラートで」、ということが作曲家と演奏者の間の暗黙の了解になっています。

    数学や科学になると話は殆ど真逆で、誰が読んでも同じ結論に到達するように表現されます。確率なども、たとえそれが外れても、無限回繰り返せばそのようになるという合意があります。また量子力学の不確定の範囲も時間と位置の相対関係で定められています。

    哲学はどうなのでしょうか?ある哲学者が言わんとしたことに対して、万人が共通の理解をしているか?という問題があるように思います。

    一つには昔の哲人、例えばアリストテレスなどは沢山書き物が残っていますが、それが彼が講義するための下書きであったりして(他人に説明するためのものではない)、解読が難しいとか、パルメニデスのように詩で表わしたものだと解釈が難解などがあります。

    もう一つは、(近代以降)言っていること自体が難解で、直感的によくわからない、わかったつもりになっても一晩寝るとわからなくなるということがあります。ヘラクレイトスのように箴言だけが残っていると、ヘラクレイトスの真の意図は何何?などはこの例に当てはまると思います。

    うましかさんが《沼》と表現されていることもひょっとするとその類いのことなのでは?と想像しています。

    そういう難解なものを和訳するとなると、ある単語が負っている意味の汲み取りが大変重要になり、書かれた時代や地域、原著者の思い入れなども手伝って、翻訳というのは困難極まる作業ではないかと思うのです(用いる日本語についても同じ事が言えます)。

    ま、カントが100%解明されたのなら、pipitさんのスレもここに存在していないかもです。

    長々と書いてしまいました。これからも宜しくお願いします。

引用返信/返信 削除キー/
■26150 / inTopicNo.84)  田秋さんへ(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2022/09/05(Mon) 21:13:15)
    田秋さん、こんばんはー(・ω・)ノ

    No.26144

    >例えばカントの著作の和訳を読んだ場合、訳者によって明らかに意味が違うということはありますか?

    なかなか答えるのが難しい質問ですね(;´・ω・)


    そもそも私には「訳者によって明らかに意味が違う」と感じ取れるほどの力量がないので…( ノД`)シクシク…

    でもね、ちょうど先ほどそう感じる一例があったかもしれません!

    これですね↓

    "Ueber eine Entdeckung, nach der alle neue Kritik der reinen Vernunft durch eine aeltere entbehrlich gemacht werden soll"

    先に紹介したカントの著作のタイトルが、

    ・冨田恭彦 訳:『純粋理性の新たな批判がすべての古い批判によって無用になるという発見について』

    ・福谷 茂 訳:『純粋理性のすべての新しい批判は、古い批判によって無用とされるべきであるという発見について』





    ところがです! (;´・ω・)

    もう一度、冨田本をジーッとみてみると、

    ・冨田恭彦 訳:『純粋理性の新たな批判がすべて古い批判によって無用となるという発見について』

    だったことに気づいたわけです、、、(;'∀')私の誤記だった。。。


    というわけで、田秋さんの質問にもう一度もどりますと、

    >例えばカントの著作の和訳を読んだ場合、訳者によって明らかに意味が違うということはありますか?

    たまにあります!

    ただし、明らかに意味が違うと感じた場合、まずはオノレを疑います、というのがうましかの答えであります。


    m(__)m ありがとうございました。






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