| 2022/12/30(Fri) 23:43:45 編集(投稿者)
大谷弘『入門講義 ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』』のp.44〜「4.『論理哲学論考』は全体として何をやっているのか」がおもしろい。
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『論考』の序文には「…したがって限界は言語において引かれうる。そして限界の向こう側は、ただナンセンスなのである。」という言葉がある。(大谷,p.34〜p.35参照)
また、『論考』の最後から二番目の6.54には、「私を理解する人は、私の命題を通り抜け−その上に立ち−それを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気づく。… 私の諸命題を葬りさること。そのとき世界を正しく見るだろう。」とある。(同,p.43参照)
大谷は、これらにある「ナンセンス」を手がかりに『論考』が全体として何をやっているのかという先行研究をまとめる。
まとめに先立ち、大谷は『論考』に登場する二つの哲学を提示する。 一つは『論考』自体の哲学、もう一つは『論考』がターゲットにする哲学である。後者は「形而上学」と呼ばれる。
ではこれら両者の関係はどのようなものなのか?大谷によれば、これらは両者ともに「ナンセンス」と言われる。(同,p.44〜p.45参照)
大谷は両者の関係への問いを次のように表現する。
「『論考』のナンセンスにより形而上学的ナンセンスを終わらせるとは、結局のところ、何をやることなのでしょうか。」(同,p.45)
この問いに対する答え(解釈)が、形而上学的解釈であり、これは伝統的な解釈である。この解釈によれば『論考』もまた形而上学であり、『論考』とは、形而上学にピリオドを打つ形而上学なのである。(同,p.45参照)
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