| ■No25801に返信(悪魔ちゃんさんの記事) おはようございます。説明と引用ありがとう!
> 「問いかけと直観」のなかに次のようなのがあります。 > > 滝沢静雄/木田元共訳(TK) > ******* > 本質についても事実についても、最も望ましいのは、論じようとする存在を外から眺める代わりに、その中に身を置くことであり、あるいは同じことであるが、存在をわれわれの生活の織物の中に置き直し、私の身体の裂開にも似た存在の裂開(dehiscence)−―それが存在を存在自身に開かしめ、またわれわれを存在に開かしめるのであり、そして本質が問題になる場合には、それは、語りまた考えることの裂開となるのだ――に立ち会うことである。 > (dehiscenceの最初のeの上には ‘ がついてます) > ******* > 山中元訳(Y) > ******* > 事実につても本質についても、重要なのは、問題としている存在を外部から眺めるのではなく、その内側に身を置くことであり、結局は同じことだが、その存在をわたしたちの生の織り目のうちに置き直し、その〈開け〉に内側から立ち会うことである。これはわたしたちの身体の〈開け〉に似たものであり、存在を自らに開き、わたしたちを存在に開くものである。本質にかかわりながら、存在を自らに開き、わたしたちを存在に開くものである。本質にかかわりながら、話すことと思考することの〈開け〉なのである。 > *******
ありがとう。自分がちゃんと消化するには時間かかりそうやけど、「裂開」の雰囲気は分かりそう。
> (ここにある【存在を外部から眺めるのではなく、その中に身を置くこと】、これ、現象学的手法で、キモだとわたし見てる。) > > わたし最初「裂開」っていうのどういうのかな〜って思ってたんだけど、山中さんので「開け」って訳されててなんか分かった感じ。あとTKのなかには「開示性」とも訳されてるみたい。 > > > ここでちょっと現象学のを。 > ハイデガーの『存在と時間』のなかに書いてあったんだけど、 > > 現象学でいう「ファイノメノン」⇒「現象」は、「おのれを示す当のもの」。 > > 「現象学」は、「おのれを示す当のものを、そのものがおのれをおのれ自身のほうから示すとおりに、おのれ自身の方から見えるようにさせるということ」。 > > のようです。
なるほど。 > 「おのれ自身の方から見えるようにさせる」これを「開示」(裂開、開け)、ってわたし見てる。 > あ、これ、わたしの勝手な結びつけだからね。 > > で、おたずねの、 > > <「白鳥(A)は白い(B)」、これは「開け」じゃななくて> > については、主語の「白鳥」の意味のなかにはすでに「白い」が含まれてるよね、だから述語は新たなことは言ってない、って見て、「開けじゃない」、主語の「白鳥」を開示してない、って思ったのかも。
「しらとり」と読めば「羽毛の白い鳥のこと」と辞書にあるから、人間が決めた命名・定義として主語の中に「白い」が確実に含まれる。
> 他方、 > <「三角形(A)の内角の和は二直角(B)」、これが「開け」っていうこと> > あ、これも間違ってた、ごめん。主語は「三角形の内角の和」でした。 > 主語の「三角形」「内角」「内角の和」のどこを見ても「二直角」という術語は出てきてないよね(もっとも、「三角形の内角の和は二直角である」ということを“すでに知ってる“人にとってはこういうふうに見るのは変に思われるかもしれないけど)。こういうふうに、主語にまったく新しい意味が付け加えられてるのを「開け」っていうのかな〜ってわたし思ったのかも。
三角形の性質は人間が決めたものではなく、もともとあるもので、調べていくと(内角の和は)二直角と発見される、と見ると、「開け」という気はする。
ちなみに、述語で述べること(白い)がすべて主語に含まれているのを「分析的」、主語に無い新しい意味が述語で付け加えられるのを「総合的(綜合的)」と言ったりする。この区別には、なんと! カントの純粋理性批判が重要な役割を果たした(らしい)。 三角形の二直角はふつうは分析的かもしれないが、カントは総合的だと主張していると思います。 「アプリオリな総合判断」はカントトピで時々出る話題! (けれど分析的と総合的は、ちなみに書いたまでで、そのような区別は無いとする現代の哲学者もいる) > あ、あと、 > > 分けてはならぬ---この禁則を鉄の掟とするパルメニデスは、…‥「間」は呪わしき無限の泥海なのだ。< > っていうの、この「間」、わたしのから見ると〈と〉の方のような気がする。 > > わたし、メルポンは「間」(関係性)を見えるようにしようとしている気がしてる。
上にあった『そのものがおのれをおのれ自身のほうから示すとおりに、おのれ自身の方から見えるようにさせる』方法でかな。 たぶん言語とか科学理論とかで無理に間を開けて見るのではなく、ってことかな。 パルメニデスとか石川求さんが否定的に見ている亀裂ではなく、他の方法で(裂開?)見えるようにする ってことかな。
思いつくままに書いているので、違うと思ったら、遠慮なく言ってください。
> ちなみに、「〈ある〉か〈ない〉かのどちらかである」これを論理学(導出学)では「排中律」っていうみたい。そしてこれを認めてる。 > 間違っていたら、ごめんだけど。
合ってます。(排中律を認めない論理学もあるけれど、ふつうは認める) 前に「A」の否定は『「A」と主張したら間違いになるもの全て』。というような話を引用してたでしょう。 それが言えるのは「排中律」が成立するから。近辺に「排中律」が説明されているのでは?
「A」か「Aでない」かどちらかしかないので、「Aでない」は「Aだ」が間違いになるもの全て。 もし「A」「Aでない」以外に「Aむにゃ」もあり得るとしたら、「Aでない」は「Aだ」が間違いになるもの全て、とは言えない。
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