| なんか話がとんでるけど、pipitさまのところから〜の。 カントの「物自体」、「現象学事典」のなかから探したのを書き写して見ます。
************* 観念論/実在論 [(独)Idealismus/Rwalismus] 近代以降に生じた認識論上の対立的立場。(中世哲学では、イデアを真の実在とみなすidealism〔イデア主義〕はむしろ、普遍的な類や種の実在を主張するrealism〔実念論〕と結びつき、普遍は名前にすぎないとするnomialism〔唯名論〕と対立した。)事物が意識から独立してそれ自体で実在すると説くのが実在論。これに対して客観や外界が何らかの形で認識主観に依存しており、外界の事物は意識の現象や所産だと主張するのが観念論である。実在論の最も単純な形態は、知覚内容そのものが実在すると考える素朴実在論であって、この場合認識は鏡のように実在を反映するとされる。しかし、感覚のすべてが真に実在するわけでの反省から、知覚内容を主観的な性質(第二性質)と客観的な性質(第一性質)に区別し客観的性質のみが実在それ自体(延長)を反映していると説くロックのような立場が登場した。しかし第一性質と第二性質の区別の不可能性を洞察したバークリーは、「在るということは知覚されてあることだ」とする観念論に向かった。彼の立場は、外界の実在や規定個人的主観・心理的自我に依存すると説く主観的(質料的・経験的)観念論に近いといえよう。これに対してカントは、外的事物(物理的世界)が個別的自我から独立に実在することは認める(経験的実在論)が、経験世界の認識全体が意識一般(論理的主観)や超越論的主観の必然的形式に制約されると考える批判的・超越論的観念論の立場に立つ。このように経験世界(時間空間的世界)の現象性(観念性)を説くカントは、現象の背後に物自体が実存することをも認めたが、このような物自体はわれわれには知りえないとする不可知論の立場に立って認識を現象界に限定した。カントの超越論的観念論は、ドイツ観念論の展開のなかで物自体の克服という形で次第に形而上学的に解されていき、シェリングの客観的観念論やヘーゲルの絶対的観念論が生じた。フッサールの現象学は実在論というよりは、むしろ超越論的観念論の系譜に属する。意識を超えた超越論的存在者を「あり」と断定するいわゆる「自然的態度」を現象学的に還元して、存在者を意識の志向的意味とみなすのが、その方法的出発点のだからである。ただし現象学的観念論は『論理学研究』のフッサールの言葉によれば、「形而上学説を意味するのではなく、イデア的なものを客観的認識一般の可能性の条件として承認し、心理学主義的に解釈し去らない認識論の形式」[LUU/1 108]である。その点では彼の立場は、同時に実念論=イデア(形相)主義に近いといえよう。 *************
************* 主観/客観 [(独)Subjekt/Obuject (仏)subjet/objet] カントに始まる認識論上の対概念。「主観」(subject)という言葉は、ギリシア語のhypokeimenon(下に置かれたもの)のラテン語訳subjectum(下に投げられたもの)からきている。近代以前ではsubjectumは、この原意義通り、さまざまな性質の底にあってそれらを支える〈基体〉という存在論的な意味を(そして、命題中でさまざまな性質によって述語づけされる「主語」という論理的な意味をも)もっていた。このsubjectumは今日の意味とは正反対に、精神や意識から独立に存在する実体、意識の外にそれ自体で存在するものを指しており、今日の〈客観的なもの〉にむしろ近い。これに対して。「客観」の語源であるラテン語のbjectumの原義は、「〜に向かって投げかけられてあること」であって、外的事物が心に対して投げかけられて表象されている状態、つまり今日の意味での「主観的なもの」を意味していた。両者の意味が決定的に逆転するのは、カントにおいてである。近代初期にはまだ、両概念の原義に近い用法が認められる。たとえばデカルトは、realitas objectivaを「観念として表象されているかぎりでの事象内容」という意味で使っている。さらにホッブズやライプニッツは、魂をsubjectumと呼んでいるが、これは感覚をになう基体という程度の意味である。ところがカントのコペルニクス的転回とともに、用語の意味の逆転は決定的となる。すでにデカルトはこの知の絶対確実な基礎を、思惟する自我ののうちに見いだしていた。身体から切り離された純粋な精神としての自我が明晰判明に認識するものだけが、真の意味で世界のうちに存在するものとされていたのである。自我はその理性的な認識によっていわば世界を支えており、その意味で精神や意識があらゆる存在者の根底にある〈基体〉だということになる。こうして認識を行うかぎりでの自我や意識が、subjectの意味を独占する。デカルトの準備したこの認識論的体制を自覚的に完成しSubjekt=主観を述語的に定着させたのがカントである。カントの場合世界を構成し支えているのは、決して個人的経験的な自我ではなく、超越論的な「主観」である。このsubjectumの意味変化同時にobjectumのほうも、この「超越論的主観」によって構成され、そのかぎりで存在を保証されるもの、いわゆる「客観」という意味に変えられる。カントによれば、主観が感覚与件を己れのアプリオリな形式によって、整理し秩序づけることによって、初めて、「客観」が成り立つ。つまり客観は、あくまでも超越論的主観によって前に立てれた対象である。主観に相対的な対象としての「客観」のほかに、カントは、意識から独立で不可知な物自体の存在をも認めているが、ドイツ観念論の哲学者たちは、物自体の存在を否定しいっさいの存在者が形式的にも内容的にも絶対主観によって生み出されると説き、近代主観主義を完成する。いずれにしても近代においては、主観の客観に対する優位は動かしがたい。フッサールは、この対概念から形而上学的背景を取りのぞき、これを意識の志向性と志向対象(意味)に読みかえて、みずからの現象学の方法概念として利用しているが、こうした読みかえには、主観と客観のどちらかを何らかの意味で実体とこれまでの二項対立を乗り越える可能性が秘められている。 *************
ここんところ、いろいろなのが浮かんできてるんだけど、長くなるから今日は書き写しだけにしときます。
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