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■26972 / inTopicNo.1)   哲学ってなあに?
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/10/11(Tue) 19:42:57)
    やっぱ、101は、メルポンのじゃなくちゃね。

    【自分がみいだそうとするものをすでに前提としているという批判が正しいとすれば、哲学は最初からすべてをやり直す必要がある。】

    みたい。

引用返信/返信 削除キー/
■26971 / inTopicNo.2)  Re[60]:  カントの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/10/11(Tue) 19:04:51)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    感覚のなかに働く思考
     それでは、純粋な思考の能力である悟性は、どういう形で感性(感覚を統一していく能力−感覚的直観−感覚をまとめ統一され知覚される)のなかにあらわれ、感性のなかで作用するのであろうか。言い換えるならば、悟性の思考様式としてのカテゴリーは、時間的・空間的にまとめあげられる感覚的表象の中で、すでにどういう姿で働いているのであろうか。(カントは、純粋なカテゴリーの、このような感覚化・具体化を図式と呼んだ。)
     すでにみてきたごとく、感覚的・直観的な多様は、時間的・空間的な形式によってまとめられていった。しかし、たとえば、心理学でいう心の作用は、たんに時間的な流れのようなものであるにすぎない。そうすると、すべての感覚的な現象が、その姿を空間的・場所的にあらわしうるとはかぎらないが、すべての感覚は、時間的な流れとしてみずからをあらわすことができる。悟性のカテゴリー(それは先天的で、すべての人間に共通した形式であった)が、あらゆる感覚の中に力を及ぼすためには、それは、時間の形式の中に姿をあらわし、時間の流れのなかに具体化されてこなければならない。
     思考する悟性は、まず、一つ、若干、すべて、というふうに、分量的にものを考える様式(量のカテゴリー)を有していた。この思考様式は、時間の流れそのものを、一つ、二つ、三つ、全体、というふうに、数的に捉えてゆこうとする。すなわち、量的にものを考えるという純粋のカテゴリーは、時の流れを数としてまとめるという姿で、感覚のなかに具体化されるのでる。
     つぎに、ある、ない、これこれではないものである、というふうに、性質的にものを考えていこうとうる思考様式(質のカテゴリー)は、時間の内容をなしている感覚を度として捉えてゆく。すなわち、感覚が充実されているか、空虚であるか、それともみたされていることから空虚へと度を漸減していくかどうか、というふうに、時間の内容をないしてる感覚を、度によって整理してゆくのである。
     第三に、「Aである」、「もしAならばBである」、「AかBかのいずれかである」、というふうに、関係的にものを考える思考の純粋な型(関係のカテゴリー)は、時間の順序を見る眼としてあらわれる。時間のなかで持続しているか、あるものがくるとそれに続いて必ず他のものがくる、という時間の前後がみられるか、また、一つのものがあると同じ時間に他のものがあるという共存が知覚されるか、というふうに、感覚的多様性を秩序づけていく。関係のカテゴリー(実体的に、因果的に、また相互的にものを考えるという枠)は、時間を、持続・前後・共存というふうに、順序的に見る眼として具体化・図式化されるのである。
     最後に第四として、様相的にものを考える思考様式(様相のカテゴリー)は、どう具体化、感性化、図式化されるであろうか。様相のカテゴリーは、「〜であるであろう」とか、「〜である」とか、「必ず〜でなければならない」といったふうに、可能的に、現実的に、また必然的にものを考える型であった。それは、いつか時が来ればある感覚が感じられるだろうとか、現にいま感覚されているか、いまだけではなくいつでつねに感じられるかどうか、というふうな姿(図式)をとって、感覚的な多様性をまとめあげていくのである。これは、形式的な時の経過と内容的な感覚と結びつけた図式なので、カントはこれを時間の総括と呼んでいる。

    根本原理
     われわれの思考様式である悟性の思考様式、すなわち、先天的ですべての人間に共通であるカテゴリー(大きくは4つ、細かくは12)は、時間の流れ、時間の内容、時間の順序、時間の総括、という姿をとって、感覚の中に割り込んだ。そして、感覚を、そういう枠で整理し、そういう図式によって、秩序づけようとした。つまり、まとまりのある感覚的表象ないし経験を作り上げるために働いていたのである。おれゆえ、われわれの知識(総合判断)のための対象も、こういう枠、こういうカテゴリーを中心にした経験的構成作用によって、構成されるのである。あらゆる総合判断の対象そのものが、すでに、上述のような先天的な構成作用によって成り立っていたのである。したがって、対象に関して、先天的総合判断を、またそれにもとづく経験的総合判断を、下すことができるのである。カントは、このことこそ大事な、「あらゆる総合判断の最高原則」だという。
     こうして感覚は、図式を媒介としたカテゴリーによってまとめられることによって次の根本的原則が成り立つのである。もしそうでないなら、それは、なともしようのない、混沌とした感覚であるにすぎない。そこでは、われわれの知覚や経験や知的把握(認識)は、成り立ちようがない。したがって数学も、自然科学も成り立ちえない。
     感覚が、図式を介して、カテゴリーによってまとめられることによって、次の根本の原則が成り立つのである。そして、それによって、数学や自然科学が成立することができるのである。
    第1 分量という点からのカテゴリーやその図式(時間の流れ。時間の系列)によってまとめられた、すべての感覚や経験的直観は数えることのできる量である。
    第2 性質や、その図式としての時間内容(度)という点からまとめられ構成されたすべての感覚は、強い・弱いという質的な度をもっている。
    第3 時間的順序という図式を介し、関係的に秩序づけられ、経験が成立するためには、感覚やまたそれの確認された知覚は、ばらばらであってはならない。それらは必ず相互に結びつき、実体とその属性とを考えることができる。時間上、先立つものを、必ずその後にくるものと前後的に結びつけて、原因・結果を考えることができる。また、一方から他方へ、他方から一方への順序を変えて結びつけても、いっこうにかまわない場合(たとえば、入り口を見て窓を見、窓を見てから入口を見ることができ、どちらを先にしてもかまわない場合)、両者を結び付け、関係づけて、共存を考えることができる。
    第4 様相的に、あるいは時間の総括という図式を通してまとめられる対象は、あるいは、いつか時が来れば、感覚的経験的対象として、あらわれてくることができるものである。あるいは、現にいま感覚的・経験的対象として感覚することができるものである。あるいは、感覚されることのできるものであり、いま現に感覚されており、そのうえ、いつでも感覚されるはずのものである。
    カントは、第1、2の原則を、数学を可能にする数学的原則と呼び、第3,4の原則を、自然科学を可能にする力学的原則と呼んだ。いま、われわれは、数学や自然科学のための根本原則を明らかにすることができたのである。数学や自然科学を基礎づけることができたのである。
    ・・・・・・・・・・・・・

    ひとまず、以上で〜す。

    これについてわたしに思われたのはつれづれのときに。

引用返信/返信 削除キー/
■26970 / inTopicNo.3)  Re[59]:  カントの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/10/11(Tue) 19:01:35)
    小牧治著「カント」については、その一部を、
    No26571
    No26695
    に書き写して見たんだけど、このさい、これについてのお話しにしちゃおっと。

    〔われわれの先天的な能力・形式によって、対象や経験が構成されると、カントはいう…・人間がつくるのは、先天的な形式・型、まさに人間としての先天的な能力による組み立てであり、構成であるにすぎない。・・・・人間は、人間に与えれてくれる材料をまとめあげる(総合する)働きをするのであり、それだけであって、それ以上ではない。…・自然科学的な真理は、経験の範囲を超えでることはできないのである。〕
    って、カントは考えて、

    このつぎに、(神に対して)人間の「先天的な能力・形式」について書かれてあるので書き写しておきます。
    字数の関係で2回に分けて。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    感覚をまとめていく形式
    では、経験や真理を可能にする人間の先天的な能力、先天的な形式とはいかなるものか。〈それ〉によってどのようにして対象や経験的世界を構成してゆくのであろうか。
    われわれ人間にとっては、われわれの外に、われわれから独立した対象は、考えられなかった。少なくとも、そういうものを認識すること(知的に把握すること)は、できなかった。しかしわれわれには、われわれが構成してゆく対象の素材が与えられたし、また与えられなくてはならなかった。人間は、そういう素材をも創造することはできなかった。この素材とは、人間の感覚器官を通して、私を触発するいろいろな刺激である。無数の、いわば混とんとした感覚が統一されてまとめられることによって知覚される。ところで、知覚された感覚は、かならず、いま、ここに、あるいは、いつか、どこかにあるものでなくてはならない。いつか、どこかにあるものでないような感覚といったものは、ありえない。この、いつか、どこかにあるもの、あるいはあったものとして知覚され統一されるということは、われわれのがわに、時間的・空間的にまとめていく働きないし形式があるからである。つまり、時間・空間とう形式、時間・空間というまとめかたの能力がそなわっている、ということになる。
    感覚をまとめていくのである以上、時間・空間という形式は、感覚そのものではない。感覚をまとめていくものとして、感覚を超えているものである。すなわち、先天的(ア=プリオリ)である。時・空は、こういう感覚的直観の形式なのである。時・空というわれわれの形式によって、感覚的直観は、まとめられ統一され、知覚されてゆくのである。われわれが感性(感覚的直観の能力)とよんでいるものは、こういうア=プリオリな時・空的形式によって、感覚を統一していく能力なのである。
    およそ人間が、感覚をまとめていくうえでは、どうしてもこの直観形式によらなければならない。時・空という形式は、人間にとって共通である。そうだとするならば、この形式によって構成された対象、すなわち現象としての対象は、すべての人間にとって客観的であるであろう。

    思考の枠組
    知覚されたものは、いまだ、明確には確認されたものではない。「これは机である」と明確に確認されるためには、思考の働きがなくてはならない。時空的にまとめられたものを、思考によって統一していくのでなくては、普遍的・必然的な対象、真実の対象となることはできない。カントは、こういう思考の働き方、思考の枠組み、すなわち思考の形式をカテゴリーと呼んだ。
    カテゴリーは、時空によってまとめられた感覚的直観、知覚された感覚の働きかけ、それを材料にして、真実の対象を構成してゆく形式である。感性によって与えられた直観的表象(すること)を材料にして、経験的対象を構成してゆくものとして、それ自身は、経験的なものではなく、経験を超えたものである。すなわち、先天的な形式である。
    では、思考の枠組み、カテゴリーとは、どういうものなのであろうか。カントは、こう考えた。そもそもわれわれが思考する場合、われわれは、「〜である」とか「〜ではなかろうか」とか「〜であろう」などという判断の形で思考している。思考した結果は、判断の形で公表する。そうだとしたならば、判断の型にはどういうものがあるかを検討してみるならば、思考の型(枠組、形式)、カテゴリーはわかるであろう。と。そこで大きく分けて4つ、細かく分けて12のカテゴリーを導き出した。
    1 すべてのA,若干のA,このA,というように、分量的にものごとを考えてゆく形式。
    2 AはBである、AはBではない、Aは非Aである、というように、性質的に考えてる枠。
    3 AはBである、もしAがBならばCはDである、AはBかCかのいずれかである、とうように関係的に考える考え方。
    4 AはBであろう、AはBである、Aは必ずBでなければならない、というように様相的に考えてゆく型。
    以上が人間の思考の型であり、思考能力としての悟性が活動していくうえでの様式なである。この形式は、人間が与えられた感覚的表象を思考していく場合、必ずのっとっていく型である。そのかぎり、すべての人間にとって共通であり、したがって、この形式によって思考された内容ないし経験的対象は、すべての人に対して客観的であるだろう。

    根源的自我による統一
    そこで、人間にとっての明確な対象、確かな知識、正しい認識は、感覚的直観と試行との、感性と悟性との共同の働きによって成立するのである。人間の知、人間の認識、人間の自発的創造は、いつでもこういう性格をもっている。神のごとく、思考がただちに内容を創造するというわけにはいかないのである。
    ところで、時・空形式がまとめあげたものにたして、はたして異質的なカテゴリーは、適用されるのだろうか。思考能力である悟性の働きが、感覚的に与えられた表象を、カテゴリー(思考の様式)によってまとめてゆくためには、感覚的表象はそれに応ずるようなものでなくてはならない。カテゴリーが、感覚を統一していく働きであるといても、肝心の素材としての感覚が、カテゴリーの手におえないようなものであっては、なんとしようもない。思考形式が、それとはまったく無関係に、時・空の形式によってまとめられた感覚素材にどうして適合するか。それが、カントをもっとも苦しめた問題であった。
    カントはこう考えた。じつは、感性の時間的・空間的形式によって、感覚が整理されてゆくさい、すでに悟性が働いていたのである。ともかく、時間的・空間的にわれわれに与えられる感覚的直観は、多様であった。われわれは。次々に与えられる瞬間的な印象を、いちいちしっかりと把握して総括していかなくてはならない。そうでないと、多様な直観はバラバラなものである。しかしそういう総括のためには、瞬間的に次々と消え去ってゆく印象を、心に保持し、それを再現してまとめあげてゆくのでなくてはならない。しかし、再現して総括するためには、再現された表象が以前のものと同じであることを再確認してまとめあげていうのでなければならない。ところで、こういう再確認の総括が成り立つということは、そういう働きをしている意識が同一でなくてはならない。意識が瞬間瞬間に別のものであったなら、こういう再確認は不可能である。こういう同一の意識があってこそはじめて、われわれは、次々に与えられる印象を、再確認し、再現し、しっかり把握してまとめげてゆくことができるのである。それゆえ意識の同一性こそは、対象が構成されるための根本的な条件であるといえよう。カントは、このような同一である意識を「先験的統覚」(経験的なものの根底にあって、経験をまとめてゆく統一的中心)、あるいは「根源的統覚」と呼んだ。それは意識し思考する「自意識」(自己意識)に他ならない。
    感覚的直観のみでは、まとまりは与えられない。感覚的直観の対象が与えられるためには、じつは、すでにそこに、根源的統覚がなくてはならず、自我の働きが存在しなければならなかった。この根源的な統覚こそ、思考の能力としての悟性にほかならないであろう。直観の多様性が総合れて、感覚的対象が成立するさい、時間・空間の形式だけでなく、すでに悟性の自然的な働きが、働いていたのである。悟性の自発的な働きは、当然、カテゴリーにもとづいているのであるから、カテゴリーは、直観の多様が総合統一されていくはじめから、通用して、総括的統一のための働きをしてたのである。とにかく、いっさいの総合統一の根底には、自発的な自己意識、自発的に総合統一していく自我の能力、すなわち悟性が、働いていたのである。感覚的な多様も、それがまとめられていくためには、悟性のものとに、すなわち悟性の機能であるカテゴリーのもとに、従属しなくてはならないのである。こうして、カテゴリーは、感覚的多様がまとめられていくさいに、すでに、みずからの作用をおよぼしているのである。
    もちろん、感覚的多様がまとめられるさいに作用してくるカテゴリーは、厳密な意味での作用ではない。ここでのカテゴリーの働きは、厳密な知的総括ではなくして、感覚的表象をまとめて、たとえば見ることのできる具体的な「家」という像をつくるための作用である。カントは、このように、形象を作り上げるために働く悟性能力を、厳密な意味での思考能力である悟性と区別して、「産出的構想力」と呼んでいる。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    「主観」「客観」の意味が分かんなくなってきた〜

    つづく

引用返信/返信 削除キー/
■26969 / inTopicNo.4)  Re[58]:  カントの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/10/11(Tue) 18:56:24)
    あ、ごめんなさい。
    No26968のTitle「ニーチェの」ってしちゃったけど、間違っちゃいました。
    「カントの」です。

    も〜、いまわたし、カントの、ニーチェの、メルポンの、ごちゃまぜになってる感じ〜。

引用返信/返信 削除キー/
■26968 / inTopicNo.5)  Re[57]:  ニーチェの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/10/11(Tue) 18:50:05)
    ここで、ちょっと、
    小牧治著「カント」の、

    V人間とは何であるのか――カント哲学が探究したもの

    って題してあって、この中の題は、

    批判哲学の課題
    人間は何を知りうるか――『純粋理性批判』――
    人間は何をなすべきか――『自薦理性批判』――
    道徳と自然との調和――『はんだ力批判』――
    人間は何を望んでよろしいか――『たんなる理性の限界内の宗教』――
    『永久平和のために』
    けっきょく、人間とは何であるか――『実用的見地における人間学(アントロポロギー)』――

    いまわたしが話題としてるのは、
    人間は何をしりうるか――『純粋理性批判』、のところ。
    ここんとこ、しばらく見ていくことにしようと思います。
    前にタイピングしたのがあるので、貼り付けるだけだから、きりのいいところまで、今日はいってみようと思いま〜す。

引用返信/返信 削除キー/
■26950 / inTopicNo.6)  Re[56]:  間奏
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/10/09(Sun) 18:31:38)
    思い出したの、ニーチェの。
    『善悪の彼岸』の中にこんなことが書いてあったよ。

    **********************
                                 11
    いまや至る所で、カントがドイツ哲学に及ぼした本来の影響から眼を逸し、殊に彼が自分自らに認めた価値を巧みに滑り超えようと努めているように私には思われる。カントは何よりもまず自分の範疇表を誇りとした。彼はこの表を手にして言った。「これこそはかつて形而上学のために企てらえた最も困難なものである。」――どうか、この「られえた」という言葉を理解してもらいたい!彼は人間のうちに一つの新しい能力、《先天的》綜合判断の能力を発見したことを誇りとした。彼がこの点で自ら誤っていたとしても、やはりドイツ哲学の発展と急激な開花は、この誇りに負うものであり、また、できうべくんば更により誇らしいものを――とにもかくにも「新しい能力」を発見しようというすべての後学の競争心に基づくのだ!しかしよく考えてみると、今がその時である。「いかにして《先天的》綜合判断は可能であるか」とカントは自問した。――そして彼は果たして何と答えたか。一つの能力によって、と。しかし残念ながら、この簡潔な言葉をもってではなく、むしろあんなに廻りくどく、勿体(もったい)らしく、かつドイツ語的な深意と虚飾癖とをもってしてしたので、そういう答えのうちに潜む愉(たの)しい《ドイツ語風の愚かさ》は聞き洩らされてしまった。そればかりか、この新しい能力のために我を忘れ、しかもカントが更になお加えて人間のうちにある道徳的能力をも発見したとき、歓呼の叫びは頂点に達した。――当時ドイツはなお道徳的であって、全然まだ「現実的・政治的」ではなかったからだ。――ドイツ哲学の蜜月が到来した。テュービンゲンの神学校の若い神学者たち(若いシェリングやヘーゲルを指す)はすべて直ちにその藪の中に入り込んだ。――皆の者が「能力」を探し求めた。そして見つけ出さぬものとてはなかった。――ドイツ精神のあの無邪気で、豊かで、なお若々しい時代においては、浪漫主義という意地の悪い妖精が当てもなく笛を吹いたり、歌いまくったりしていて、当時は「発見」と「発明」との分け隔てもまだつけられなかったのだ!なかんずく「超感性的なもの」に対する能力が発見された。シェリングはそれに知的直観という名で洗礼を施し、それによって根っから信心を求めてやまぬドイツ人の衷心からの欲情に迎合した。この全く思いあがり逆(のぼ)せあがった運動は、灰色の年寄じみた諸概念の衣で思い切った装いをしていたにもせよ青春であったのだから、これを真面目(まじめ)に受け取り、まして道徳的な憤激なんかで遇するのは、全くこの上もない不当の処遇と言わなければならない。それはとにかくとして、人々は老いた、――夢は飛び去った。額(ひたい)を撫でて考え込む時がやって来た。人々は今日といえどもなお額を撫でている。夢を見ていたのだ。それは誰よりもまず――老カントだった。「一つの能力によって」――とカントは言った。少なくともそう思った。しかし一体これは答えであるか。説明であるか。或いは、却って問いの繰り返しにすぎないのではないか。果たして阿片はいかにして眠らせるのか。「一つの能力によって」、すなわち《催眠力》によって、――とモリエール*の作中の医者は答える。 
       《そのゆえは、それに催眠の力ありて、
        その力に感官をまどろます性(さが)あれば。》
    しかしこのような答えは喜劇に属する。それで結局、「いかにして《先天的》綜合判断は可能であるのか」というカントの問いを、「何故にかのような判断に対する信仰が必要であるか」という他の問いによって補充すべき時である。――すなわち、われわれの如き種類の生物を保持する目的のためには、このような判断が真理として信じられなければならないことを理解すべき時である。それ故にこの判断はもとよりなお誤った判断であってもよいのだ!或いは、もっと判明に、粗(あら)っぽく、かつ徹底的に言えば、《先天的》綜合判断は全く「可能である」はずがない。われわれにはそんなものを立てる何の権利もなく、われわれの口からすれば、それは真赤(まっか)な嘘の判断である。ただし言うまでもなく、その真理性に対する信仰は必要であるが、それも生の配景的光学に属する一つの前景的信仰であり、外観である。――そこで最後になお「ドイツ哲学」――望むらくは、これが引用符を要求する権利をもつことを分かってもらえようか――が全ヨーロッパに及ぼした巨怪な影響を思えば、或る種の《催眠力》がそこに関与していたことを疑うわけには行くまい。あらゆる国々の高貴な有閑者・有徳者・神秘家・芸術家・四分の三のキリスト者および政治的非開花者たちの間では、ドイツ哲学のおかげで、前世紀から今世紀へ溢(あふ)れ込んだなお優力な感覚論に対する解毒剤、要するに――《感覚をまどろませるもの》を手に入れて、我を忘れて喜ばれたのであった…‥

    *1847−89、フランスの喜劇作家で俳優、ルイ14世の絶対王制下の貴族・僧侶の腐敗を批判した。

    **********************

    ここでも小牧さんと同じように【《先天的》綜合判断】って訳されてる。

    「一つの能力」って「理性」のことかな〜?

引用返信/返信 削除キー/
■26949 / inTopicNo.7)  Re[55]:  カントの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/10/09(Sun) 18:24:56)
    語の意味、ってなんかめんどくさい。特に外国語のが入ってくると。

    pipitさまやおくったががわさんのカントの原文のをドイツ語の訳を調べて来てたんだけど、超たいへんだった。

    (独)Vorstellungをネットで調べたら、
    イメージ/心像/想像/考え/観念/表象/上演

    カント原文を翻訳する人によって、
    「観念」「表象」ってなってるんだけど、

    「(日)観念」をドイツ語に翻訳すると、
    Vorstellung/Resigniaren/Resignieren/Konzept/Gefasstheit/・・・

    「(日)表象」をドイツ語に翻訳すると、
    Reprasentation/Darstellung/Symbol/sich vorstellen/Versinnbidichen/Idee/Emblem/Synbolisieren
    で、
    「観念(日)」を英語に翻訳すると、concept/idea/notion/sense/conception/ideology/resignation
    で今度はそれぞれの英語を日本語に翻訳すると、
    concept→構想/発想/コンセプト/考え/概念
    idea→考え/着想/アイデア/発想/思いつき/意見/知識/心当たり/意図/狙い/目的
    notion→意見/考え/見解/概念/観念/イメージ/思いつき/出来心
    sense→感覚(機能)/(漠然とした)感じ/気持ち/感じ/意識/(美・方向などに対する本能的な)センス/勘/判断能力/(知的、道徳的な)感覚/観念
    conception→概念/考え/概念作用/構想/着想/創案/考案/妊娠/受胎
    ideology→イデオロギー/観念形態/空理/空論
    resignation→辞職/辞任/辞表/あきらめ/忍従/観念
    で、
    「(日)観念」、「(日)表象」、「(日)概念」の意味を調べて〜・・・・・

    ってなったんだけど、
    もういいかな、って。
    カントの、原文からの意味を捉えるのはもうやることにした。

    わたし、カントの、にちょっと深入りしすぎちゃってるかも。
    カントのはpipitさまにおまかせするとして、ここでひとまず。

    「超越論的」=〈〔経験に由来しない〕(アプリオリ)かつ〔経験的ではない〕(純粋)にもかかわらず、経験を可能にする のはなぜか、という問い全体に関わること〉

    神に対して人間の認識において、経験に由来しない(アプリオリ)かつ経験的ではない(純粋)にもかかわらず、経験を可能にする のはなぜか、それは、理性だけから。

    ひとまず、こんな感じでわたしのまとめとしときましょ。

    ひとやすみ。

    ちょっとスケベおやじのを想い出した。
    前にタイピングしておいたのがあるから、つぎに貼ってみますね。

引用返信/返信 削除キー/
■26916 / inTopicNo.8)  Re[54]:  カントの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/10/08(Sat) 16:26:01)
    pipitさまに教えてもらたの、見て見ました。

    =======================
    (1)【Hier ist eine Stufenleiter derselben. 】
    以下は、諸表象様式の段階である。
    (2)【Die Gattung ist Vorstellung ueberhaupt (repraesentatio). 】
    類は表象一般(repraesentatio)である。
    (3)【Unter ihr steht die Vorstellung mit Bewusstsein (perceptio).】
    表象の下に、意識を伴った表象(perceptio)が属している。
    (4)【Eine Perception, die sich lediglich auf das Subjekt, als die Modifikation seines Zustandes bezieht, ist Empfindung (sensatio),】
    知覚は、主観の状態の変様としてもっぱら主観に関係する場合、感覚(sensatio)であり、
    (5)【eine objektive Perzeption ist Erkenntnis (cognitio). 】
    客観的知覚は、認識(cognitio)である。
    (6)【Diese ist entweder Anschauung oder Begriff (intuitus vel conceptus). 】
    認識は、直観か概念のいずれか(intuitus vel conceptus)である。
    (7)【Jene bezieht sich unmittelbar auf den Gegenstand und ist einzeln; 】
    【dieser mittelbar, vermittelst eines Merkmals, was mehreren Dingen gemein sein kann. 】
    直観は直接に対象に関係し、個別的であるが、概念は、いくつかの事物に共通でありうる徴表を介して、間接的に対象に関係する。
    (8)【Der Begriff ist entweder ein empirischer oder reiner Begriff, 】
    概念は、経験的概念か純粋概念のいずれかである。
    (9)【und der reine Begriff, sofern er lediglich im Verstande seinen Ursprung hat (nicht im reinen Bilde der Sinnlichkeit) heisst Notio. 】
    そして純粋概念は、それがもっぱら悟性のうちにその源泉を有するかぎり(感性の純粋形象のうちにではなく)、悟性概念[Notio]と呼ばれる。
    (10)【Ein Begriff aus Notionen, der die Moeglichkeit der Erfahrung uebersteigt, ist die Idee, oder der Vernunftbegriff. 】
    悟性概念から生じ、経験の可能性を超える概念が、理念もしくは理性概念である。
    ===========================
    について、
    わたしいろいろ調べたり考えたりしたんだけど、な〜んか長くなっちゃたから、ここに書くことにします。

    (3)〔意識を伴った表象(perceptio)〕
    perceptio(ラ)ってperception知覚のことみたい。
    で、〔意識を伴った表象〕=〔知覚〕ってする。
    ってすると、〈意識を伴ってない表象〉っていうのもあるのかな?そしてそれは知覚とは呼ばない?
    ※カントの〔表象Vorstellung〕と〔意識Bewusstsein〕、とその関係がいまいちわからない。

    (5)〔知覚〕=〔意識を伴った表象〕だから、〔客観的知覚〕=〔客観的意識を伴った表象〕っていうことになると思うんだけど、ところで、〔客観的知覚〕ってどういう知覚のこと?
    「客観」に対して「主観」ってすると、〈主観的知覚〉っていうのがあるっていうこと?
    ってしたとき、〔客観的知覚は認識〕だけど、〈主観的知覚は認識ではない〉っていうこと?
    ※カントは「知覚」をどう見てるのかしら?〔表象〕-〔意識〕-〔知覚〕の関係性がいまいちわかんない。

    (6)カントにおいては、〔認識〕は〔直観〕か〔概念〕かのどちらか、っていうことね。
    ※〔直観Anschauung〕っていうのをカントはどういう意味で使ってるのかはわかんない。
    ※〔知覚〕(カントの場合〔客観的意識を伴った表象〕)と〔直観〕と〔概念〕の関係がいまいちわかんない。

    ここでちょっとネットで調べたのを、

    *日本語の「概念」をネットで調べたら、
    ・本質的特徴により区別された事物の類,また類別する思考様式。
    ・個々の事物から共通な性質を取り出してつくられた表象
    これから、
    「概念」=思考によって、類別すること、類された表象
    ってすることにした。
    ようするに、「概念」っていうのは思考の領域に住まうものとして見られている、っていうことになるのかな?
    こう見たとき、(2)の〔類は表象一般〕っていうのよく分かんなかったんだけど、
    〈表象一般は、思考によって類されたもの〉って言ってるんかな?って。
    ってすると、すでに「思考」が「表象」の中に入り込んでる、っていうことかな?

    ここで想い出したのが、
    No26793で中島さんが言ってたのから、わたし、
    「表象Vorstellung」=「私が私の前に何ものかを立てる」
    ってしたんだけど、この「私」っていうの〈思考〉ってして見ると、
    「表象」=〈思考が思考の前に何ものかを立てる〉
    ってなってなった。

    *「概念」をドイツ語で、ってネットで調べら、
    Konzept/Begriff/Idee/Vorstellung/Grundlagen/Auffassung/Konzeotion
    ってあった。ここに出てきてるのは、Begriff。

    *Begriffは日本語で、ってネットで調べたら、
    「概念」「理解」「考え」
    ってあった。ここではBegriffは「概念」って訳されている。

    でね、
    Begriffを「概念」って訳さず、〈理解〉ってしたらどうかな〜?って。
    「理解」は〈理によって解する〉みたいな意味でね。

    (6)以下を訳しかえて見るね、

    (6)【Diese ist entweder Anschauung oder Begriff (intuitus vel conceptus). 】
    〈6〉認識は、直観か〈理解〉のいずれか(intuitus vel conceptus)である。
    (conceptus)をネットで調べたんだけど、ラテン語のようで、「胎児・胚・受精卵・受胎産物」ってあったけど、ここではこういう意味じゃなさそう。conceptのことだとして、ネットで調べたら、
    ・・・・・・
    〔例から導かれる〕概念、観念
    〔心に抱く〕考え、意見◆【同】conception
    〔基本的な〕理解、把握
    〔製品などの〕構想、コンセプト
    【他動】
    〔〜を〕考え出す
    ・・・・・・
    ってあった。
    こう見ると、Begriffを「概念」って訳さず、「理解」ってしてもいいのかな?って。

    (7)【Jene bezieht sich unmittelbar auf den Gegenstand und ist einzeln; 】
    【dieser mittelbar, vermittelst eines Merkmals, was mehreren Dingen gemein sein kann. 】
    〈7〉直観は直接に対象に関係し、個別的であるが、〈理解〉は、いくつかの事物に共通でありうる徴表を介して、間接的に対象に関係する。

    (8)【Der Begriff ist entweder ein empirischer oder reiner Begriff, 】
    ここに〔純粋なreiner〕っていうの出てきてるけど、
    No26849で、中島さんが言ってような、
    「純粋」(rein)=〔経験的(empirisch)ではない〕
    に置きかえて見ると、

    〈8〉理解は、経験的理解か経験的ではない理解のいずれかである。

    ってなった。

    (9)【und der reine Begriff, sofern er lediglich im Verstande seinen Ursprung hat (nicht im reinen Bilde der Sinnlichkeit) heisst Notio. 】
    ここに〔悟性〕とか[Notio]っていうの出てきてる。ネットでちょっと調べたら、

    *「悟性」はドイツ語で、
    Verstand/Intelligenz
    Verstandは日本語で、「理解力」「思考力」「判断力」/Intelligenzは日本語で「知能」
    (9)の独文中の、Verstandeは「理解する」「分かる」ってあった。

    *Notioは、(ラテン語)idea/knowkege/notion
    ideaは「考え」って、あった。

    でね、Verstandeを「思考力」、Notioを「考え」として、〔純粋〕のところも変えると、

    〈9〉そして経験的ではない理解は、それがもっぱら思考力のうちにその源泉を有するかぎり(感性の純粋形象のうちにではなく)、思考力理解[考え]と呼ばれる。

    ってなたよ。

    (10)【Ein Begriff aus Notionen, der die Moeglichkeit der Erfahrung uebersteigt, ist die Idee, oder der Vernunftbegriff. 】
    ネットで調べたら、
    *Ideeは、「観念」「思いつき」「理念」ってあった。
    ここでは「理念」って訳されてるから、そのままで、
    *Vernunftbegriffは「理性」ってあったから、これにかえて見ると、

    〈10〉思考力理解から生じ、経験の可能性を超える理解が、理念もしくは理性である。

    ってなった。

    並べると、
    〈6〉認識は、直観か理解のいずれかである。
    〈7〉直観は直接に対象に関係し、個別的であるが、理解は、いくつかの事物に共通でありうる徴表を介して、間接的に対象に関係する。
    〈8〉理解は、経験的理解か経験的ではない理解のいずれかである。
    〈9〉そして経験的ではない理解は、それがもっぱら思考力のうちにその源泉を有するかぎり(感性の純粋形象のうちにではなく)、思考力理解[考え]と呼ばれる。
    〈10〉思考力理解から生じ、経験の可能性を超える理解が、理念もしくは理性である。

    「思考」や「理」尽くし、っていう感じかな。

    な〜んかごちゃごちゃしちゃってるけど、せっかく考えたんで書いてみました。

    あ〜、疲れた。

引用返信/返信 削除キー/
■26875 / inTopicNo.9)  Re[53]:  カントの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/10/06(Thu) 18:23:19)
    ちょっと整理
    わたしにわかりやすく簡単に、
    カントの用語の意味について、いくつか。

    No26849から、
    (a)「純粋」(rein)=〔経験的(empirisch)ではない〕

    「ア・プリオリ」(a priori)、
    中島さんのでは、〔経験に由来しない〕。
    フッサールの『デカルト的省察』の訳注に、〔「アプリオリ」は、アリストテレスに遡る用語であるが、カントが『純粋理性批判』におて、「経験に先立つ」という意味で使い、フッサールも基本的にはこのカントの用法を継承している。とりわけ、「本質」「形相」に関わり、「可能性」に関わるものが「アプリオリ」と呼ばれる。〕ってあるから、〔経験に先だつ〕。

    (b)「ア・プリオリ」(a priori)=〔経験に由来しない〕とか〔経験に先だつ〕⇒〈経験しなくても〉みたいなんに。

    「超越論的」(transzendental)
    中島さんのは、
    〔単に「経験的な混入物がない」ことではなく、「経験的な混入物がない」にもかかわらず経験に適用されるのはなぜか、という問いの全体に関わること〕
    小牧さんのは、
    〔自然科学的な真理(あるいは「認識」)は、いかにして可能であろうか。〕って、〔可能〕ってつかってるから、これ使って、
    中島さんのを変えて、

    (c)「超越論的」=〈〔経験に由来しない〕(アプリオリ)かつ〔経験的ではない〕(純粋)にもかかわらず、経験を可能にするのはなぜか、という問い全体に関わること〉

    ってしとく。 でも、「何が?」っていうのもあるよね。

    カントのを見るときには、こういうので。

    あと、
    「経験的」と、経験的に対立する語として「アプリオリ(経験に由来しない)」「純粋(経験的ではない)」を見ている?
    ところで、「経験的ではない」っていうの、どういうことなんかしら?

    「経験的ではないもの」のうちに、「経験を可能にするするもの」を考えてた?

    No26695で小牧さんが言ってるように、
    〔合理的な形而上学を信じて疑わなかった〕とか〔厳密なゆるぎのない自然科学的真理〕ってあって、ヒュームによって、カントは両者を批判することにした、が、「純理」の始まりのようだけど。

    〔自然科学〕って基本、経験によるものよね? 自然科学(中島さんによると「物理学」?)の知識はカントの場合「真理(普遍・必然)」だったのかな。
    人間は、このような自然科学的認識が可能になる能力をもっている。では、これが可能になる(成立する)のはどうして?って哲学的に考えたんかも。
    そして、〔経験的ではない〕(純粋)なものがある、ってなって、この純粋なものは、ただ理性からのみ、ってなったんじゃないかしら?ここらへんは〔合理的な形而上学を信じて疑わなかった〕から来てるのかな?

    いろんなのが頭に浮かんでくる。

引用返信/返信 削除キー/
■26863 / inTopicNo.10)  Re[52]: 「超越論的」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/10/05(Wed) 18:44:04)
    カントの「超越論的」の意味、なんかめんどくさ〜。

    心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば…‥

    No26849
    中島さん(N)が言ってる
    〔カントの問題をやや普遍化して言い換えるならば(別の語り方ではなく)「物の空間・時間的配置ならびに運動を記述することによってのみわれわれが世界を客観的・統一的に語ることができるのはなぜか」という問いに関わることが「超越論的」なのである。〕
    のところ、

    No26571の、
    小牧さん(K)が言ってる
    〔「普遍性と必然性をもった真理はいかにして可能であるか」という問いは、「先天的総合判断はいかにして可能であるか」という問いとなる。自然科学的な真理が問題であるとするならば、問題は、「自然科学的な先天的総合判断は、いかにして可能であるか」ということになる。自然科学的な真理(あるいは「認識」)は、いかにして可能であろうか。〕
    のと、なんか似てる。

    あと、
    (N)の、
    〔世界に関する様々な記述のうち物理学こそ「客観的実在世界」を特権的に記述できる、という強烈な思い込みがある〕
    と、
    No26695に抜粋した(K)にあった
    〔合理的な形而上学を信じて疑わなかった〕とか〔厳密なゆるぎのない自然科学的真理〕
    も共通してる気がする。

    わたしが見たところ、カントの「超越論的」っていうのは、「人間の“意識”」について、っていうより、「(神に対しての)人間の“認識”」がいかに可能なのか、に限って語ってるような気がする。

引用返信/返信 削除キー/
■26849 / inTopicNo.11)  Re[51]: 「超越論的」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/10/04(Tue) 18:56:23)
    フッサールは【意味を通じて世界とかかわる】って言ってる。その哲学者の用語の意味をおさえとかなくっちゃって。
    ここでのわたしのお話しは、やっぱ現象学的方法・見方・考え方に倣って、なんだけど、フッサールの『デカルト的省察』で、
    No25970(p2)のように、
    やたらと「超越論的」っていのが出てくる。なにそれ?って思って前にいろいろ調べたなかに中島義道さんのを見つけた。そこんとこタイピングしたのがあるのでここに書いとくことにします。5000文字以内に収まりそうだから、ぜんぶ書いとく。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
       超越論的transzendental  中島義道

    この言葉は、スコラ哲学において、「一」「有」「善」「美」などアリストテレスのカテゴリーの区別を超えるあり方を表す言葉“transcendentalia”に由来する。それが、カントにおいて“transzendent”という言葉との関連において、豊かな内実をもって展開されることになった。だが、カント以降この言葉を使用しながら、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルを経てとりわけフッサールさらにアペール、ブプナーなどが本来の意味を単純化・平板化してしまった。ここでは、カントの原意に沿って述べてゆく。

    超越的と超越論的
    まず強調されねばならないこと(そしてほとんどの人が無視していること)は、「超越論的」と「超越的」(transzendent)と不可分の概念だということである。神や死後の魂の永遠などの人間の認識を超えるものに関することを「超越的」と呼ぶが、「超越論的」とはこの基本構図をのこしたまま、積極的意味と消極的意味とをあわせ持っている。積極的意味はさらに二局面に分かれる。第一は、人間の認識の限界を定めるという機能、そして第二は、その限界内でさらに夢や錯覚や妄想や印象から「客観的な実在世界」を区別する機能である。カントによると、この両機能は人間理性を探ることによりいっきょに見いだされる。つまり、各人がただただ理性を省みさえすれば、そのうちに「経験を可能にする諸条件」として時間・空間・(物の基本的あり方としての)カテゴリーを見出すことができ、これらによって構成できる限界が「可能な経験」の限界である。また、「経験を可能にする諸条件」とは、同時に時間・空間における物の基本的あり方なのだから、はじめからそのうちに夢や妄想などと区別された「客観的な実在世界」を抽出できる機能を含んでいる。すなわち、ただ人間理性のうちから「経験を可能する諸条件」を見いだし、それによって「可能な経験」(「客観的な実在世界」)を構成するという以上の手続きに関するすべてが「超越論的」と呼ばれる。『純粋理性批判』の「超越論的感性論」「超越論的論理学」「超越論的分析論」などのタイトル、またこの手続きにおいて主要な役割を演ずる「超越論的統覚」「超越論的構想力」「超越論的時間規定」「超越論的図式」などはこの意味で使われている。
    カント以降、「超越論的」という用語はこの意味に限定されてしまったと言ってよい。しかし、カントにおいてはこの積極的意味と表裏一体をなして、次の消極的意味が息づいているのである。
    人間の認識の限界を設定することができるためには、われわれはその外側に位置する「超越的なもの」にーー認識できなくとも――何らかの仕方で関与できねばならない。カントによれば、人間理性は「超越的なもの」に「仮象」(Schein)というかたちで関与するのである。つまり、「超越的なもの」を捉えようとすると人間理性は必ず仮象に陥るが、その仮象への陥り方に関することすべてに消極的意味における「超越論的」という言葉が付される。『純粋理性批判』のうちで「超越論的弁証論」というタイトルはこれを直接示しているが、そこにおいて主導的な役割を演ずる「超越論的仮象」「超越論的理念」「超越論的自由」などは、こうした意味で使われている。また、『純粋理性批判』において以上の(積極的・消極的)二重の意味を含む方法論は「超越論的方法論」である。
    こうして、カントの認識論は(イ)人間の認識の限界を設定し、さらにそのうちで客観的な実在世界を構成する積極的意味と、(ロ)人間理性が「超越的なもの」を捉えようとすると仮象に陥ることを示す消極的意味とから成り、この二重の意味で「超越論的」である。こうした基本構図を有する哲学が「超越論哲学」であり、それは人間理性を超える実在論ではないから「超越論的観念論」である。
    経験への適用
     だが、カントは、時間・空間の「超越論的研究」とカテゴリーの「超越論的演繹」におけるように、「超越論的」をさらに限定した意味でも使用している。これらの場合「超越論的」とは「形而上学的」(metaphysisch)に対する概念であり、「形而上学的」とは理性のうちからア・プリオリな条件を導出する段階にかかわる手続きであるのに対して、「超越論的」は理性から導出された概念を経験に適用する段階にかかわる手続きである。ここには、「経験を可能にする諸条件は理性から導出され、経験から導出されたのではないのに、なぜ経験に適用しうるのか」という難問が控えている。この問いは「演繹論」(カテゴリー論)の場合顕著だが、「感性論」(空間論・時間論)においても基本的には同じかたちをとる。カントの回答は、時間・空間・カテゴリー(例えば因果律)ははじめから「一般的に物理学を可能にする」ようなものでなければならない、というものである。「経験を可能にする諸条件」すなわち時間・空間・カテゴリーは、虚心坦懐に人間理性のうちを探って導出するものではなく、事実学としての物理学を一般に可能にするようなものでなければならない。時間・空間・カテゴリーとは一般に物理学を可能にするようなものでなければならず、それらによって構成される「客観的な実在世界」とは「そこで一般に物理学が可能になるような世界」である。
     ここには明らかに循環がある。むしろ、限定された意味での「超越論的」とは、この循環を端的に承認することを要求することである。ここには、世界に関する様々な記述のうち物理学こそ「客観的実在世界」を特権的に記述できる、という強烈な思い込みがある。一種の物理主義であるが、この思い込みを論駁することは、じつはそれほど容易な作業ではない。カントの問題をやや普遍化して言い換えるならば(別の語り方ではなく)「物の空間・時間的配置ならびに運動を記述することによってのみわれわれが世界を客観的・統一的に語ることができるのはなぜか」という問いに関わることが「超越論的」なのである。これは、今日なお大きな問いであろう。物理学が世界を記述し尽くすことができないことは明らかであるが、別の仕方で世界をより客観的・統一的に語ることができるわけでもない。客観的・統一的な世界記述を求める限り、やはりわれわれは時空における物の配置と運動に着目する以外の仕方ないのだとすれば、それはなぜなのか。この問いに関わることが狭義の「超越論哲学」である。

    周辺用語との区別について
    ここで、補足的に多くの研究者が誤用している「超越論的主観」(transzendentales Subjekt)という言葉の原意に触れておく。カントの場合、いまだ「主観」という言葉には「基体」(Substratum)という意味が残っており、それは実体としての不滅の魂という意味を呼び起こす危険性を持っている。そこで、彼は自我についてはこうした「超越論的主観」という側面を徹底的に批判し、「作用体」という側面だけをあらわす「超越論的統覚」を採用した。つまり、カントにとって、自我とは「超越論的統覚」であって「超越論的主観」ではないのである。
     次に、「超越論的」と「純粋」(rein)と「ア・プリオリ」(a priori)との区別に触れておく。「純粋」は、カントの場合、経験的(empirisch)ではないという否定的意味が基本であるが、積極的に理性だけからという意味を担って「根源的」(ursprünglich)と言い換えられることもある。例えば「純粋統覚」とはいかなる経験的なものも含まない統覚であるが、「超越論的統覚」とは「経験を可能にする諸条件」を含むような統覚である。「純粋総合」とは経験的な混入物を洗い流した純粋な線のような総合であるが、「超越論的総合」とは「経験を可能にする諸条件」を含む「時間」という特有の線のような総合である。
    また「ア・プリオリ」は「ア・ポステリオリ」に対する言葉であるが、カントの場合、同じように「経験的」に対立する言葉として「純粋」と重なる。しかし、違いが強調される場合もあり、「すべて変化は原因をもつ」という判断は経験に由来しないという意味でア・プリオリであっても「変化」という物質に関する判断だから、経験的なものが混入しており「純粋」ではないとされる。一方、「7+5=12」のような数学的判断は経験的なものが混入していなから、ア・プリオリであってかつ純粋な判断ということになる。だが、この用語法が常に守られているわけではない。そして、再確認すれば、「超越論的」とは単に「経験的な混入物がない」ことではなく、「経験的な混入物がない」にもかかわらず経験に適用されるのはなぜか、という問いの全体に関わることである。
     これに関連して、「超越論的」という言葉(カントの原意)は「相互主観的」(intersubjektiv)とは相容れないことを強調しておく。「超越論的」とは「事実問題」(quid facti)ではなく「権利問題」(quid juris)であり、カントは地上の上の人間すべてが事実合意しても客観性は保証されない、と考える。客観性とは、こうした「相互主観性」を超えたところにあり、しかも単なる「目的」や「理念」ではないものとして了解されている。それは独自の要請である。言い換えれば、「超越論哲学」を求めるか否かは「ひとつの客観的な実在世界」を求めるか否かの問題であり、これは(フィヒテが強調するように)「関心」の問題であり、究極的には各人の「生き方」の問題である。
     最後に、翻訳について触れておく。「超越論的」は九鬼周造が昭和4(1929)年にはじめて使用したと言われており、意外に歴史は古い。それまで、そしてこれ以降も長く“transzendental”には「先験的」という訳が定着している。この訳語は、「経験的」(empirisch)との対語が明瞭であるだけ一面的な意味に引きずられ、「純粋」や「ア・プリオリ」と区別がつかなくなる。また、”transzendental”のもうひとつの意味である「超越するもの」との消極的連関を捉えきれていない。「先験的弁証論」では何のことかわからないであろう。そこで、近年特に現象学の隆盛と相まって、言葉としては硬いがむしろ「超越的」との連関も示しながらその複雑な意味を含むという利点をもった「超越論的」が支配的になってきた。だが、依然として「先験的」という訳語を使っている研究者もおり、個々の例について「先験的」と「超越論的」に訳し分けている研究者もいるのが実情である。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    以上で〜す。

    あ、ごめんだけど、どこに書いてあったかは記録してなかったので、忘れました。
    こういうのはここではダメっていうんだったら削除していいよ、パニさん。

引用返信/返信 削除キー/
■26798 / inTopicNo.12)  Re[50]: :「表象」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/10/01(Sat) 19:25:08)
    pipitさま、こんばんわ

    pipitさまって、「純理」に関する本いろいろ持ってるのね。すご〜い。

    ■26795、
    鈴木恒夫先生の訳、ありがとございます。
    この訳の方が、訳者のよけいなのが入ってなくて、素直にいいとわたし思う。

    カントが[Vorstellung]をどういう意味で使ってるのか、これが問題なんだけど、
    鈴木さんのでわたしに思われたのは、カントの場合、「表象」っていってもいろんな表象がある、って言ってるんんだな〜、っていうこと。

    ちょっとした感想までにしときます。

    またよろしくお願いしま〜す。

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