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■25984 / inTopicNo.49)  田秋さんへ
  
□投稿者/ pipit -(2022/09/01(Thu) 12:31:23)
    2022/09/01(Thu) 12:35:16 編集(投稿者)

    田秋さん、こんにちは!書き込みありがとうございます
    (*^▽^*)

    No25982に返信(田秋さんの記事)
    > おはようございます。pipitさん
    >
    > 陶器を焼くとき窯変というものがあります。様々な要素が関係し合って予期しない色合いが出ます。職人の勘によってある程度変色は予想できますが、全く予想外の色合いや模様が出ることもあるようです。
    >
    > 焼きものの要素は主に土、釉薬、窯(火)ですが、それぞれが微妙に影響しあって無限の変化が生まれるそうです。
    >
    > ===
    > 先日ある方の個展で木版画を1点買いました。版画ですから再生可能です。作家さんもそこにいらして同じ版画9枚から1枚選びましたが、同じ版画なのに印象は相当異なっていました。<

    おもしろいですね!
    同じ版画なのに様々な条件で様々な作品になるのですね。

    私の出したコピー機の例も、化学反応で想定外の色が表現されるかもしれませんね。

    もしよろしければお聞きしたいのですが、
    私の出したコピー機の例で言えば、
    コピーして出てきたものをアプリオリに規定する事柄(=出てきたものが、私たちに見られる際に必ず伴ってる事柄)は何だと、田秋さんは思われますか?

引用返信/返信 削除キー/
■25982 / inTopicNo.50)  窯変
□投稿者/ 田秋 -(2022/09/01(Thu) 09:13:28)
    おはようございます。pipitさん

    陶器を焼くとき窯変というものがあります。様々な要素が関係し合って予期しない色合いが出ます。職人の勘によってある程度変色は予想できますが、全く予想外の色合いや模様が出ることもあるようです。

    焼きものの要素は主に土、釉薬、窯(火)ですが、それぞれが微妙に影響しあって無限の変化が生まれるそうです。

    ===
    先日ある方の個展で木版画を1点買いました。版画ですから再生可能です。作家さんもそこにいらして同じ版画9枚から1枚選びましたが、同じ版画なのに印象は相当異なっていました。
引用返信/返信 削除キー/
■25981 / inTopicNo.51)  Re[26]: 日記
□投稿者/ pipit -(2022/09/01(Thu) 06:51:59)
    2022/09/01(Thu) 06:56:13 編集(投稿者)

    おはようございます(^ ^)

    形式の世俗的・卑近な例として

    例えば、コピー機の設定が、赤色と黒色の二色に設定されていて、白い紙しか使えない、となれば
    どのような方がどのようなものを印刷しても、印刷されて出てくるものは、赤色系と黒色系+白い紙 という結果になる。

    形式(コピー機の設定)が印刷物をアプリオリに規定している、、、形式についてのこのような思考が、コピー機を使いながら、浮かんでいました。



引用返信/返信 削除キー/
■25980 / inTopicNo.52)  日記
□投稿者/ pipit -(2022/09/01(Thu) 06:44:35)
    No25976に返信(pipitさんの記事)
    > 2022/08/31(Wed) 23:24:59 編集(投稿者)
    >
    > ■No25975に返信(pipitさんの記事)
    >>[対象]
    >>〈経験に由来しない〉に可能なかぎりで、わたしたちが[K]する方法そのものについて
    >>
    >>   ↑の〈knowledge〉を、超越論的な〈knowledge〉と呼ぶ。
    >>
    >
    > 〈経験に由来しない〉に可能なかぎりで、わたしたちが対象を認識する方法そのもの
    > ↑
    > 超越論的 
    >
    > としたらどうかな???

    経験に由来しないで、対象を認識する、、、
    それはどんな事態か?を考えてみるために
    経験的認識から経験を取り除く思考実験してみると、カント的には、残ってるのは、認識の形式、になって、
    それは、(認識)対象の条件、と言い換え可能な論考にカント的には進んでいくのでは?

    とpipitは今のところ思ってます。が、勘違いしてるかもです。
引用返信/返信 削除キー/
■25976 / inTopicNo.53)  Re[24]: 悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2022/08/31(Wed) 22:43:31)
    2022/08/31(Wed) 23:24:59 編集(投稿者)

    No25975に返信(pipitさんの記事)
    > [対象]
    > 〈経験に由来しない〉に可能なかぎりで、わたしたちが[K]する方法そのものについて
    >
    >    ↑の〈knowledge〉を、超越論的な〈knowledge〉と呼ぶ。
    >

    〈経験に由来しない〉に可能なかぎりで、わたしたちが対象を認識する方法そのもの

    超越論的 

    としたらどうかな???
引用返信/返信 削除キー/
■25975 / inTopicNo.54)  Re[23]: 悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2022/08/31(Wed) 22:39:13)
    [対象]
    〈経験に由来しない〉に可能なかぎりで、わたしたちが[K]する方法そのものについて

       ↑の〈knowledge〉を、超越論的な〈knowledge〉と呼ぶ。

引用返信/返信 削除キー/
■25974 / inTopicNo.55)  Re[22]: 悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2022/08/31(Wed) 22:30:22)
    >1〕『わたしは、対象そのものを〈knowledge〉するのではなく、〈経験に由来しない〉に可能なかぎりで、わたしたちが対象を〈knowledge〉する方法そのものについて考察するすべての〈knowledge〉を、超越論的な〈knowledge〉と呼ぶ。<

    これをもっと縮めて?みるね。

    [対象をknowledgeする]=[K ]とするね。

    1〕『わたしは、[K]ではなく、〈経験に由来しない〉に可能なかぎりで、わたしたちが[K]する方法そのものについて考察するすべての〈knowledge〉を、超越論的な〈knowledge〉と呼ぶ。

    なんにしろわかりにくいかなぁ(^◇^;)



引用返信/返信 削除キー/
■25973 / inTopicNo.56)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2022/08/31(Wed) 22:14:24)
    2022/09/01(Thu) 06:36:17 編集(投稿者)

    小牧治先生はじめいろいろ引用ありがとう!

    小牧先生の見方も一つとして、また別の見方をしてる人の文章も引用しておくね。

    石川輝吉さんという方の『カント 信じるための哲学「わたし」から「世界」を考える』序章p10.11より抜粋引用

    『カントの哲学上の功績は、まず、人間の認識能力の限界を定めた点にある。
    人間はすべてを知ることができない。絶対的な真理を把握するのは不可能なのだ。このことを、どんな哲学者もかなわないほど徹底的に証明した哲学者がカントだった。わたしたちはこの点について、「純粋理性のアンチノミー」というカントの方法と共に詳しく見るだろう。
     だが、それだけではない。絶対的な真理は不可能になった。それだけでは終わらないところにカントのすごいところがある。カントが進んだその先の道はつぎのようなものだ。
     絶対的な真理といったものを認識することは不可能だ。だが、にもかかわらず、わたしたち一人ひとりの主観のなかに、それまで真理と呼ばれていたことの根拠がある。
     たとえば、事物の真理。わたしたちは事物そのものを絶対的に認識することはできない。なんとなれば、この目の前に事物があることさえ疑ってみることができる。だが、だからといって、わたしたちはいま目の前に見ているこの事物(たとえば、この本)が、確かに存在していることを疑ってはいない。この事物の存在を固く信じている。その理由は、きちんとわたしたちのうちにあるはずだ。
     カントは、その理由をだれにも共通の言葉(普遍的なもの)として取りだせる、と考えた。主観のなかから〈普遍的なもの〉を取りだす作業。これがカントが独自に考えた主観の哲学の方法だ。』
    引用終了

    ===========

    > にこれを代入すると、カントの言う「超越論的」は、
    〔1〕『わたしは、対象そのものを〈客観に妥当する普遍的知識〉するのではなく、〈経験に先立つ、経験に由来しない〉に可能なかぎりで、わたしたちが対象を〈客観に妥当する普遍的知識〉する方法そのものについて考察するすべての〈客観に妥当する普遍的知識〉を、超越論的な〈客観に妥当する普遍的知識〉と呼ぶ。』
    って、わたしのなかではなりました。<

    pipitの勝手な提案なんだけど、
    〈客観に妥当する普遍的知識〉を〈knowledge〉にして、
    〈経験に先立つ、経験に由来しない〉を〈経験に由来しない〉にしたらどうかな??


    〔1〕『わたしは、対象そのものを〈knowledge〉するのではなく、〈経験に由来しない〉に可能なかぎりで、わたしたちが対象を〈knowledge〉する方法そのものについて考察するすべての〈knowledge〉を、超越論的な〈knowledge〉と呼ぶ。

    ===========

    >>メルポンさんは時間と空間についてどんなふうに言ってるの?<<
    >まだ、わかりません。<

    >>悪魔ちゃんは、時間と空間ってなあに?って問いかけられたら、どんなふうに答えるの?<<
    >ん〜ん、そうね、
    〈いま、ここで〉
    〈あのとき、あの場所で〉
    っていう感じかな〜。
    でも、〈いま、ここで〉はあるけどないのかも。<

    答えてくれてありがとう!

    時間とか空間って、いざ考えるとさぁ、ちょっと、厳密な定義?が私にはわからんくなってくるよ(・・?)

    でもこの頃、怒った時とかに思うんだよ。

    怒り が生じてるのは ここに ってね。
    対象にではなく主体に、って気持ちなのかな。

    いつもいろいろありがとね!
引用返信/返信 削除キー/
■25969 / inTopicNo.57)  Re[20]: pipitさまへ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/08/31(Wed) 19:20:42)
    ■25965、
    >「カントの論の前提は、『科学は真正な認識』なんじゃない?」と言ってるのかな?<

    ちょっと長くなっちゃうかもだけど、書かせてもらうね。
    カントに関してはわたしが読んだ本は小牧治著の「カント」っていう解説本?ぐらい。
    その中にこんなことが書かれてある(前にも書いたかもしれないけど)。

    題としては
    人間は何を知りうるのか――『純住理性批判』――
    のなかの、「科学的な真理」と題して、
    *******
    そこで、まずわれわれは、自然科学での知識の正当性・真理性(正しいゆえん、真理であるゆえん)を批判・検討することにしよう。『純粋理性批判』は、こうして、自然科学的な真理の性格の検討からはじまる。
    われわれが、正しい知識、あるいは真理というばあい、それは、次のような性格をもっていなくてはならない。
     まず第一は、いつ、どこで誰に見せても通用するということである。「2に3を加えれば5になる」ということが正しいとするならば、いつ、どこの、だれにとっても「2+3=5」なのである。ところやときや人により、6になったり4になったりすることはない。もしなることがあれば、それは、間違いであり、いつわりである。いつ、どこの、だれにも通用するだけでなく、必ず、そうでなくてはならない。「2+3=5」という真理は、2+3は、必ず5であって、6や4ではならないということを意味している。こういう性格を必然性と呼んでいる。
     ようするに、いやしくも真理である以上は、いつ、どこの、だれにでも通用し、そして、必ず通用しなくてはならない。
     真理が真理であるための性格はわかった。さて、そういう真理は、いかにして可能であろうか。
    ところで、我々が真理という場合、その真理は「○○である」とか、「○○であるべきだ」とかの判断の形をとっている。そういう判断の場合、我々はいろいろの経験によってあれこれ判断をする。しかし、そういう経験的な判断は、なるほどある状況のもとでは○○であったとは言えても、いつどこにおいても通用すべきものだとはいいえない。つまり、普遍性と必然性とをもつことができない。そういう経験を何回繰り返しても、やはり、我々が観察し経験した限りでは○○だといいうるだけで、普遍性と必然性はない。だから、経験的な判断は真の科学的な知識であるとは言えない。…‥
    ********
    ってあった。

    >悪魔ちゃんにとっての「真正な」ってなあに?<
    あ、ごめんなさい。上記のようなのを、「真正な」にしちゃいました。〈必然で普遍な〉みたいな意味です。

    小牧さんのを見ると、カントは自然科学的知識は「真理である」ってしてるように見えるのね。

    No25942は、カントの『純理』についてのわたしのイメージを適当に書いちゃいました、ごめんです。


    フッサールの『デカルト的省察』のなかには「超越論的」っていう語がいっぱいでてくる。
    たとえば、
    あ、これはここじゃなくて、「つれずれ」のところに書きま〜す。
    あと、わたしが読んでるメルポンの本のなかには「超越論的」っていう用語はほとんど出てこないけど、メルポンのカントのも記述されてます。

    pipitさまに教えてもらったので見て見ます。
    (1)「超越論的」については、
    >『わたしは、対象そのものを認識するのではなく、アプリオリに可能なかぎりで、わたしたちが対象を認識する方法そのものについて考察するすべての認識を、超越論的な認識と呼ぶ。』<
    (2)「アプリオリ」については、
    >『(略)、カントの場合、経験に先立つ、あるいは経験に由来しないという意味。』<
    (3)「認識」については、
    >純理が問題にしてる「認識」は、おそらく人間にとって「客観に妥当する」普遍的知識、みたいな雰囲気にpipitは捉えているんだけど<
    から、
    カントにおいては、
    「アプリオリ」=〈経験に先だつ、経験に由来しない〉
    「認識」=〈客観的に妥当する普遍的知識〉
    ってして、
    (1)にこれを代入すると、カントの言う「超越論的」は、
    〔1〕『わたしは、対象そのものを〈客観に妥当する普遍的知識〉するのではなく、〈経験に先立つ、経験に由来しない〉に可能なかぎりで、わたしたちが対象を〈客観に妥当する普遍的知識〉する方法そのものについて考察するすべての〈客観に妥当する普遍的知識〉を、超越論的な〈客観に妥当する普遍的知識〉と呼ぶ。』
    って、わたしのなかではなりました。

    >生まれつきという意味では無い、とか力説してる文章みたりもするんです<
    もし、「アプリオリ」を「生まれつき」ってして〔1〕に代入すると、
    『わたしは、対象そのものを〈客観に妥当する普遍的知識〉するのではなく、〈生れつき〉に可能なかぎりで、わたしたちが対象を〈客観に妥当する普遍的知識〉する方法そのものについて考察するすべての〈客観に妥当する普遍的知識〉を、超越論的な〈客観に妥当する普遍的知識〉と呼ぶ。』
    ってなる。
    『対象を〈客観に妥当する普遍的知識〉する方法そのもの』は、「生まれつき」のものじゃないとわたし思うから、カントの言う「アプリオリ」は「生まれつきという意味ではない」んだとわたしも思う。

    ん?「客観的に妥当する」、っていうの、どういうこと?っていう問いが浮かんできたけど、もうやめます。

    >メルポンさんは時間と空間についてどんなふうに言ってるの?<
    まだ、わかりません。

    >悪魔ちゃんは、時間と空間ってなあに?って問いかけられたら、どんなふうに答えるの?<
    ん〜ん、そうね、
    〈いま、ここで〉
    〈あのとき、あの場所で〉
    っていう感じかな〜。
    でも、〈いま、ここで〉はあるけどないのかも。








引用返信/返信 削除キー/
■25965 / inTopicNo.58)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2022/08/31(Wed) 13:44:00)
    2022/08/31(Wed) 16:54:12 編集(投稿者)
    2022/08/31(Wed) 13:53:46 編集(投稿者)
    2022/08/31(Wed) 13:49:52 編集(投稿者)

    もしかして、
    「カントの論の前提は、『科学は真正な認識』なんじゃない?」と言ってるのかな?

    もしそうだとすると、それに応えるのはまた微妙な返答になるかもなんだけど、
    カントの場合、もし言うとするなら、
    『純粋科学はアプリオリな総合判断、が前提』という言い方になるとpipitは思ってるんよ。(違ったらごめん!)

    カントの表現はいろいろすごく慎重な気がしてるよ。
    判断と真誤の関係も、『認識に対象が従う』というカントの認識論においては、慎重に考えていかないといけない問題な気がしてるよ。

    ↓先にあげた田山令史先生の論文から関係してそうな箇所を抜粋引用してみるね。
    『カントの定義によれば、判断するとは「何かを一つの特色としてあるものに関係させること」、そして「そのものは主語、特色は述語」である。

    何かを一つの特色としてあるものに関係させることが判断である。そのあるものは主語、 特色は述語である。関係付けは、であるという繋僻で表現される
    そのままの場合、繋辞 は述語が主語の特色であることを示す。 (A47)

    カントはここで、判断を下すことと、その判断に真偽を言うこととの連動に注意を向けてい ない。
    ここに、『三段論法』の一つの性格を見ることができる。伝統的には、判断と真偽の関連は判断論の中心にあった。
    (略)

    この三段論法を構成する「判断」について議論していくなかで、二つの主題が区別さ れる。一つは総体律の基礎付け、二つにはトマスのもとで見た「白覚」の問題である。しかし、トマスで主題の一つであった「真偽」は表に立たない。
    (略)

    このように『三段論法』では、世界は判断を通して初めて人に現れることが強調されている。

    この判断に関わる悟性の能力と、人以外の動物の能力との違いなどに議論は集中し、判断と世 界の関係、すなわち、判断の真偽は問われない。判断「と」世界の関わりである真偽の聞はト マスのもとで「物と知性の一致不一致」、つまり真の対応説になっていた。一方、この、人が 判断することと世界の現われが一つであるカントの新しい体系のなかでは、対応説とは異なる 真の定義を考え出すことが必要になるのである。『三段論法』はまだその場ではない。
    (略)』

    https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BO/0085/BO00850L025.pdf

    考え出すと難しいねぇ。

    メルポンさんは時間と空間についてどんなふうに言ってるの?
    悪魔ちゃんは、時間と空間ってなあに?って問いかけられたら、どんなふうに答えるの?


引用返信/返信 削除キー/
■25945 / inTopicNo.59)  Re[18]: 悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2022/08/30(Tue) 20:35:14)
    ↓例えばこれは、田山令史さんという方の文章だけど、

    『カント時空論の研究を通じて明らかになってきたことがある
    それは「ー」の問いと でも言うべきもので、時空のーと自我の一、すなわち、時間と空間が「一つ」である ことと私が「一人」であることが関連しており、この関連からカントは多くの洞察を 得ていることである。』

    https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BO/0085/BO00850L025.pdf

    この方は、カントの時空論と自我論を同じフィールドで考察されてるみたいだね。

引用返信/返信 削除キー/
■25943 / inTopicNo.60)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2022/08/30(Tue) 20:16:03)
    こんばんは!なんか難しいね。

    No25942に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > お邪魔しま〜す
    >
    > カントが時空を感性のなかに持ち込んだのかな?<

    知らないけど、バークリーとかは?
    知覚と時空の関係は考慮してなかったのかな?
    カント以外の哲学者のことほとんど知らないからなぁ
    (・・;)

    > 時空ってもともと「物理学」が始まりじゃないのかしら?<

    そうなん?


    > そう、カントは科学を前提としてるんように、わたしには見えるんだけど、どうかしら?
    >
    > カントの場合、「科学」=「真正な認識」、ってわたし見てる。<

    いろいろややこしそうだよ。


    > カントの言う「認識」は「意識」ではなく、「真正な」が伴ってるってわたし見てるんだけど、どうかしら、pipitさま?<

    純理が問題にしてる「認識」は、おそらく人間にとって「客観に妥当する」普遍的知識、みたいな雰囲気にpipitは捉えているんだけど、「真正な」って言葉、カントの文章に出てくる?

    けっこう「真」って、難しい問題としてカントは捉えてる感じだよ。

    悪魔ちゃんにとっての「真正な」ってなあに?



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