■24400 / inTopicNo.21) |
空(くう)日記
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□投稿者/ pipit -(2022/07/06(Wed) 11:24:46)
| 2022/07/06(Wed) 11:29:02 編集(投稿者)
みなさま、こんにちは。
文章は空(くう)という側面がある、と、pipitは思ってるのだけど、 パーリ仏典についても、そう感じる時が多々あります。
■No24325に記した、二通りの解釈も、そのような多解釈が可能な原文になってるのではないかな、と、今の所思いました。
> 原文は、『二つの法』とだけの記述で、 > 中村先生は、【止観】の二つの法で考えられてて、 > 正田大観先生は、例えば【善悪】の二つの法で考えられてて、 > > あらー、どうしましょう、と。 > 伝統的註釈書でも、もしかしたら複数の註釈があるのかな? > > ========== > まず、パーリ原文引用しますね。(記号未記入) > > ダンマパダ384(第二六章 バラモン) > > Yada dvayesu dhammesu, > paragu hoti brahmaṇo; > Athassa sabbe samyoga, > attham gacchanti janato. > > ※パーリ語辞典では、 > dvaya 二種の、一対、両者 > とあり、 > dhammesu は、法 という意味だと思います。 > > ============ > > それで、二つの法の解釈が分かれてる訳例として、(彼岸の解釈も分かれてるかな?) > > @中村元先生訳 > 『バラモンが二つのことがら(=止と観)について彼岸に達した(=完全になった)ならば、かれはよく知る人であるので、かれの束縛はすべて消え失せるであろう。』 > > A正田大観先生訳 > 『婆羅門が、〔対立する〕二つの法(事象)について、彼岸に至る者(善悪の彼岸にいる者)として〔世に〕有るとき、しかして、彼の、〔あるがままをあるがままに〕知っている者の、一切の束縛は〔自ずと〕滅却に至る。』 > > https://suttacentral.net/dhp383-423/jpn/daikan?reference=none&highlight=false
パーリ語辞典を見ると、 Yadaは、「・・・の時に」 paraは、「向こうに、越えて、彼方に、他の、上の」 とあって、
パーリ文の直訳は、 『バラモンが二つの法を越えているとき』 な感じかな、と、pipitは思いました。
それでですね、 A正田大観さま訳の、善悪の彼岸(ニーチェさん思い出しますね!)というのは、分別を超えているって感じでの文章理解で、
@はね、実はpipitは、ウィトゲンシュタインさんのハシゴの喩えを思い出していました。 この解釈にある止観の2法は、仏道修行においてとても重要なものですよね。 でも、それは涅槃に至る『手段』だと。 キンスカ喩経でも、止観は如実の使命のメッセンジャーということで、如実そのものではないんですよね。 それで、手段をハシゴと考えた時、目的に至るためには、(ハシゴの)極を超えていかなくてはならないんですよね。 まあ、乗ったまま作業できることもあるかもですけど。
というわけで、言葉は空(くう)ということと、経典の二解釈を思った時、 私は、ニーチェさんとウィトゲンシュタインさんを思い出しました。
むむむカントせんせが。。。 何処ー? (・∀・)
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