(現在 過去ログ3 を表示中)

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 親記事をトピックトップへ ]

このトピックに書きこむ

レス数の限度を超えたのでレスできません。

(レス数限度:100 現在のレス数:100) → [トピックの新規作成]
■24917 / inTopicNo.13)  Re[23]: Pipitさんへ
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/07/17(Sun) 19:21:24)
    お邪魔するね。
    >みなさま< ってるから、

    No24880のなかに、

    「自分」「私」「自分自身」「自己」ってあるけど、
    これら、それぞれ、どういうの?




引用返信/返信 削除キー/
■24910 / inTopicNo.14)  Pipitさんへ
□投稿者/ マジカルモンキー -(2022/07/17(Sun) 15:46:00)
    No24901に返信(pipitさんの記事)
    > マジモンさん、おはよーございます(^○^)
    > No24898
    > >Pipitさんにご質問ですが、『 得難き主を得る 』ってどういう意味ですか?<
    >
    > pipitのイメージでこたえますね。
    >
    > 【めちゃかしこく、めちゃやさしい、智慧と慈悲から生じる行為を、主体的に選択実行が可能になる状態】をpipitはイメージします。
    > 慈悲と智慧で行為する、なんて、普通は理想であり得ない感じだから、『得難き』なんじゃないかな?と思っています。
    > 先に引用したダンマパダ160の一つ前、ダンマパダ159には【自己は実に制し難い】とあります。
    >
    > ダンマパダ159(中村元先生訳)
    > 『他人に教えるとおりに、自分でも行えーーー。自分をよくととのえた人こそ、他人をととのえるであろう。自己は実に制し難い。』
    >
    > ちょっと目に入った、『自己』の章で、印象的な句を引用しますね。中村元先生訳です。
    >
    > ダンマパダ163
    > 『善からぬこと、己れのためにならぬことは、なし易い。ためになること、善いことは、実に極めてなし難い。』
    >
    > ダンマパダ165
    > 『みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄(きよ)まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない。』
    >
    > ダンマパダ166
    > 『たとい他人にとっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ。』

    こんにちわ、Pipitさん。

    まず、『 得難き主を得る 』は理解できました。

    修得しにくい主を得る…、言った具合なんでしょうね。

    俺はその『得』って言う文字が苦手で…。
引用返信/返信 削除キー/
■24903 / inTopicNo.15)  日記
□投稿者/ pipit -(2022/07/17(Sun) 07:10:27)
    過去投稿からのコピペ。
    ここでは、城主は、『識』だね!

    ====================

    片山先生訳の『キンスカ喩経』の一部分を引用
    「比丘よ、たとえば王の辺境の都市が強固な城壁、強固な城塁、城門、六門をそなえ、

    そこにその賢明、聡明にして、有能で、智慧のある門番がおり、
    見知らぬ者を止め、
    知っている者を入れさせているとします。

    東方より急ぎの使者が来て、その門番に次のように言います。
    『これ、この城主はどこにおられるのか』と。
    かれはこのように言います。
    『そのお方は、中央の四大路に坐っておられます』と。

    そこで、そのその急ぎの使者二人は、城主に如実の使命を伝え、
    来たとおりの道を引き返します。

    西方より...
    北方より...
    南方より...急ぎの使者が二人来て...城主に如実の使命を伝え、来たとおりの道を引き返します。

    比丘よ、私は意味を知らせるためにこの比喩を作りましたが、その意味はつぎのとおりです。

    比丘よ、
    『都市』は四大種からなり、母と父から生まれ、米飯と麦菓子の集積であり、無常の、除滅の、摩滅の、破滅の、破壊の性質からなる、この〈身〉の同義語です。

    『六門』とは〈六内処〉の同義語です。

    『門番』とは〈正念〉の同義語です。

    『急ぎの使者二人』とは〈止観〉の同義語です。

    『城主』とは〈識〉の同義語です。

    『中央の四大路』とは地界・水界・火界・風界なる、この〈四大種〉の同義語です。

    『如実の使命』とは〈涅槃〉の同義語です。

    『来たとおりの道』とは〈聖なる八支の道〉、すなわち正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定の同義語です」』
    引用終了。

    『パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ『大念処経』を読む』片山一良先生、p161-162


    [四大種](都市)

    【眼φ(・_・正念】--------【耳φ(・_・正念】--------【鼻φ(・_・正念】--
    |・・・・G・・・・・・・水水G水・・・・・・・G・・・・|
    |・・・・・・・・G・・・水水G水・・・・G・・・・・・・|
    |地地地地地地地地地地地地【城主】火火火火火火火火火火火火|
    |地地地地地地地地地地地地【★識】火火火火火火火火火火火火|
    |・・・・・・・・・G・・風風G風・・・G・・・・・・・・|
    |・・・・G・・・・・・・風風G風・・・・・・G・・・・・|
    【舌φ(・_・正念】--------【身φ(・_・正念】--------【意φ(・_・正念】--

    ε=ε=ε=ε=┌(止)┘≪如実の使命(涅槃)
    ε=ε=ε=ε=┌(観)┘≪如実の使命(涅槃
引用返信/返信 削除キー/
■24902 / inTopicNo.16)  マジモンさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/07/17(Sun) 06:36:46)
    >ダンマパダ160(中村元先生訳)
    > 『自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか?
    > 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。』
    > 岩波文庫『ブッダの真理のことば 感興のことば』<

    トピ主(ぬし)の『主(ぬし)』とかで考えたらどうかな?

    ◯◯な主、
    △△な主、

    pipitが仏教に詳しいわけでは全くないので、仏教教義と全く違ってる可能性もあります。
    単にpipitのイメージなので、いろいろ間違ってたらごめんね!
    m(_ _)m
引用返信/返信 削除キー/
■24901 / inTopicNo.17)  マジモンさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/07/17(Sun) 06:18:46)
    マジモンさん、おはよーございます(^○^)
    No24898
    >Pipitさんにご質問ですが、『 得難き主を得る 』ってどういう意味ですか?<

    pipitのイメージでこたえますね。

    【めちゃかしこく、めちゃやさしい、智慧と慈悲から生じる行為を、主体的に選択実行が可能になる状態】をpipitはイメージします。
    慈悲と智慧で行為する、なんて、普通は理想であり得ない感じだから、『得難き』なんじゃないかな?と思っています。
    先に引用したダンマパダ160の一つ前、ダンマパダ159には【自己は実に制し難い】とあります。

    ダンマパダ159(中村元先生訳)
    『他人に教えるとおりに、自分でも行えーーー。自分をよくととのえた人こそ、他人をととのえるであろう。自己は実に制し難い。』

    ちょっと目に入った、『自己』の章で、印象的な句を引用しますね。中村元先生訳です。

    ダンマパダ163
    『善からぬこと、己れのためにならぬことは、なし易い。ためになること、善いことは、実に極めてなし難い。』

    ダンマパダ165
    『みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄(きよ)まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない。』

    ダンマパダ166
    『たとい他人にとっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ。』


引用返信/返信 削除キー/
■24898 / inTopicNo.18)  Re[20]: 日記
□投稿者/ マジカルモンキー -(2022/07/16(Sat) 23:03:58)
    No24880に返信(pipitさんの記事)
    > みなさま、おはようございます。
    > カント関連の記事から、pipitは仏典のことも連想するので、日記します。
    >
    > 『思想』「カント」特集記念 特別ページ*アンケート/御子柴善之先生の回答より
    >
    > 『イチオシしのフレーズとその理由を教えて下さい
    >
    > 「自分が他人に対して拘束されていると私が認識できるのは、私が同時に自分自身を拘束している限りにおいてだけである。」
    > (『道徳形而上学』から)
    >
    >  まっとうな倫理学が発するメッセージはただ一言に集約できると思う。〈あなたの主人はあなた以外にはいない〉、と。これを裏づける思想の深淵がこのフレーズから窺われる。平凡を生きてなお、自由の洞察を忘れない。
    > (御子柴善之)』
    >
    > https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/1376
    >
    > 御子柴善之先生の回答から思い出すのはダンマパダの『自己』の章にある経文。
    >
    > ダンマパダ160(中村元先生訳)
    > 『自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか?
    > 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。』
    > 岩波文庫『ブッダの真理のことば 感興のことば』
    >
    >
    > 正田大観さま日訳
    > ダンマパダ 
    > 12. 自己の章
    >
    > https://suttacentral.net/dhp157-166/jpn/daikan?reference=none&highlight=false


    Pipitさんにご質問ですが、『 得難き主を得る 』ってどういう意味ですか?

引用返信/返信 削除キー/
■24880 / inTopicNo.19)  日記
□投稿者/ pipit -(2022/07/16(Sat) 06:26:44)
    みなさま、おはようございます。
    カント関連の記事から、pipitは仏典のことも連想するので、日記します。

    『思想』「カント」特集記念 特別ページ*アンケート/御子柴善之先生の回答より

    『イチオシしのフレーズとその理由を教えて下さい

    「自分が他人に対して拘束されていると私が認識できるのは、私が同時に自分自身を拘束している限りにおいてだけである。」
    (『道徳形而上学』から)

     まっとうな倫理学が発するメッセージはただ一言に集約できると思う。〈あなたの主人はあなた以外にはいない〉、と。これを裏づける思想の深淵がこのフレーズから窺われる。平凡を生きてなお、自由の洞察を忘れない。
    (御子柴善之)』

    https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/1376

    御子柴善之先生の回答から思い出すのはダンマパダの『自己』の章にある経文。

    ダンマパダ160(中村元先生訳)
    『自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか?
    自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。』
    岩波文庫『ブッダの真理のことば 感興のことば』


    正田大観さま日訳
    ダンマパダ 
    12. 自己の章

    https://suttacentral.net/dhp157-166/jpn/daikan?reference=none&highlight=false

引用返信/返信 削除キー/
■24863 / inTopicNo.20)  Re[18]: 『キンスカ喩経』
□投稿者/ pipit -(2022/07/14(Thu) 20:26:41)
    みなさま、こんばんは。
    あれー?どこまで、なにを、調べてたんだっけ?
    と失念してしまったので、ツリーで過去投稿見てみました。

    そうか、激ムズ『蜜丸経』読んでて、寄り道勉強で、『キンスカ喩経』読んでた途中だったのか・・・

    また経典の読解を再開しようと思います!

    No24208に返信(pipitさんの記事)
    > 2022/06/28(Tue) 05:51:18 編集(投稿者)
    >
    > みなさま、おはようございます
    >
    > ■No24200
    >>必ずここを通る、という点を押さえるのは、物事を管理しようとするとき、よく使う方法だなーと、なんか日常的な感想として、今、頭に浮かびます。
    >>システム、という概念が頭に浮かびます。
    >>制御工学もなんか言葉、浮かんじゃったなあ<
    >
    > 寄り道引用!
    > 自分の中では上記感想にも関連してくるように感じて、目に止まった片山先生訳の『キンスカ喩経』の一部分を引用します。冒頭は片山先生の解説文です。
    > 『門』も出てくるよー(^ ^)
    >
    > 引用開始
    >
    > 『また、相応部「六処相応」の『キンスカ喩経』において、「六触処の生滅を如実に知ることから比丘の見は清浄になる」として、仏は次のような比喩を説いておられます。
    >
    > 「比丘よ、たとえば王の辺境の都市が強固な城壁、強固な城塁、城門、六門をそなえ、
    >
    > そこにその賢明、聡明にして、有能で、智慧のある門番がおり、
    > 見知らぬ者を止め、
    > 知っている者を入れさせているとします。
    >
    > 東方より急ぎの使者が来て、その門番に次のように言います。
    > 『これ、この城主はどこにおられるのか』と。
    > かれはこのように言います。
    > 『そのお方は、中央の四大路に坐っておられます』と。
    >
    > そこで、そのその急ぎの使者二人は、城主に如実の使命を伝え、
    > 来たとおりの道を引き返します。
    >
    > 西方より...
    > 北方より...
    > 南方より...急ぎの使者が二人来て...城主に如実の使命を伝え、来たとおりの道を引き返します。
    >
    > 比丘よ、私は意味を知らせるためにこの比喩を作りましたが、その意味はつぎのとおりです。
    >
    > 比丘よ、
    > 『都市』は四大種からなり、母と父から生まれ、米飯と麦菓子の集積であり、無常の、除滅の、摩滅の、破滅の、破壊の性質からなる、この〈身〉の同義語です。
    >
    > 『六門』とは〈六内処〉の同義語です。
    >
    > 『門番』とは〈正念〉の同義語です。
    >
    > 『急ぎの使者二人』とは〈止観〉の同義語です。
    >
    > 『城主』とは〈識〉の同義語です。
    >
    > 『中央の四大路』とは地界・水界・火界・風界なる、この〈四大種〉の同義語です。
    >
    > 『如実の使命』とは〈涅槃〉の同義語です。
    >
    > 『来たとおりの道』とは〈聖なる八支の道〉、すなわち正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定の同義語です」』
    > 引用終了。
    >
    > 『パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ『大念処経』を読む』片山一良先生、p161-162



引用返信/返信 削除キー/
■24400 / inTopicNo.21)  空(くう)日記
□投稿者/ pipit -(2022/07/06(Wed) 11:24:46)
    2022/07/06(Wed) 11:29:02 編集(投稿者)

    みなさま、こんにちは。

    文章は空(くう)という側面がある、と、pipitは思ってるのだけど、
    パーリ仏典についても、そう感じる時が多々あります。

    No24325に記した、二通りの解釈も、そのような多解釈が可能な原文になってるのではないかな、と、今の所思いました。

    > 原文は、『二つの法』とだけの記述で、
    > 中村先生は、【止観】の二つの法で考えられてて、
    > 正田大観先生は、例えば【善悪】の二つの法で考えられてて、
    >
    > あらー、どうしましょう、と。
    > 伝統的註釈書でも、もしかしたら複数の註釈があるのかな?
    >
    > ==========
    > まず、パーリ原文引用しますね。(記号未記入)
    >
    > ダンマパダ384(第二六章 バラモン)
    >
    > Yada dvayesu dhammesu,
    > paragu hoti brahma&#7751;o;
    > Athassa sabbe samyoga,
    > attham gacchanti janato.
    >
    > ※パーリ語辞典では、
    > dvaya 二種の、一対、両者 
    > とあり、
    > dhammesu は、法 という意味だと思います。
    >
    > ============
    >
    > それで、二つの法の解釈が分かれてる訳例として、(彼岸の解釈も分かれてるかな?)
    >
    > @中村元先生訳
    > 『バラモンが二つのことがら(=止と観)について彼岸に達した(=完全になった)ならば、かれはよく知る人であるので、かれの束縛はすべて消え失せるであろう。』
    >
    > A正田大観先生訳
    > 『婆羅門が、〔対立する〕二つの法(事象)について、彼岸に至る者(善悪の彼岸にいる者)として〔世に〕有るとき、しかして、彼の、〔あるがままをあるがままに〕知っている者の、一切の束縛は〔自ずと〕滅却に至る。』
    >
    > https://suttacentral.net/dhp383-423/jpn/daikan?reference=none&highlight=false

    パーリ語辞典を見ると、
    Yadaは、「・・・の時に」
    paraは、「向こうに、越えて、彼方に、他の、上の」
    とあって、

    パーリ文の直訳は、
    『バラモンが二つの法を越えているとき』
    な感じかな、と、pipitは思いました。

    それでですね、
    A正田大観さま訳の、善悪の彼岸(ニーチェさん思い出しますね!)というのは、分別を超えているって感じでの文章理解で、

    @はね、実はpipitは、ウィトゲンシュタインさんのハシゴの喩えを思い出していました。
    この解釈にある止観の2法は、仏道修行においてとても重要なものですよね。
    でも、それは涅槃に至る『手段』だと。
    キンスカ喩経でも、止観は如実の使命のメッセンジャーということで、如実そのものではないんですよね。
    それで、手段をハシゴと考えた時、目的に至るためには、(ハシゴの)極を超えていかなくてはならないんですよね。
    まあ、乗ったまま作業できることもあるかもですけど。

    というわけで、言葉は空(くう)ということと、経典の二解釈を思った時、
    私は、ニーチェさんとウィトゲンシュタインさんを思い出しました。

    むむむカントせんせが。。。
    何処ー?
    (・∀・)
引用返信/返信 削除キー/
■24336 / inTopicNo.22)  キンスカ経
□投稿者/ pipit -(2022/07/03(Sun) 18:16:39)
    今回、パーリ経典に
    『samathavipassananetam』
    サマタヴィパッサナー という一対まとめの単語の存在を知ることができて、
    嬉しい気持ちです!

    一対の急ぎのメッセンジャー、も、イメージとして印象深いしなぁ

    勉強なるなあ Σ(・□・;)
引用返信/返信 削除キー/
■24335 / inTopicNo.23)  止観について検索してみた。
□投稿者/ pipit -(2022/07/03(Sun) 18:12:17)
    コトバンクさんの『止観』から一部抜粋引用します。

    『止観
    しかん

    仏教の術語。止(シャマータsamatha)と観(ビパシャーナvipasyana)の合成語で、天台智(ちぎ)は全仏教の禅観を止観に統摂し天台観法(かんぼう)とした。止とは精神を集中し心が寂静(じゃくじょう)となった状態をさし、観とは対象や真理をありのままに観察認識することを意味し、原始仏教以来用いられ、止と観とは互いに他を成立させる不離のものである。
    (略)』
引用返信/返信 削除キー/
■24325 / inTopicNo.24)  2つの法
□投稿者/ pipit -(2022/07/03(Sun) 17:34:48)
    うーむ、
    止観について、中村元先生のダンマパダ訳に偈と解説があるのを見つけて、やったーと投稿しようと思ったんだけど、
    原文は、『二つの法』とだけの記述で、
    中村先生は、【止観】の二つの法で考えられてて、
    正田大観先生は、例えば【善悪】の二つの法で考えられてて、

    あらー、どうしましょう、と。
    伝統的註釈書でも、もしかしたら複数の註釈があるのかな?

    ==========
    まず、パーリ原文引用しますね。(記号未記入)

    ダンマパダ384(第二六章 バラモン)

    Yada dvayesu dhammesu,
    paragu hoti brahma&#7751;o;
    Athassa sabbe samyoga,
    attham gacchanti janato.

    ※パーリ語辞典では、
    dvaya 二種の、一対、両者 
    とあり、
    dhammesu は、法 という意味だと思います。

    ============

    それで、二つの法の解釈が分かれてる訳例として、(彼岸の解釈も分かれてるかな?)

    @中村元先生訳
    『バラモンが二つのことがら(=止と観)について彼岸に達した(=完全になった)ならば、かれはよく知る人であるので、かれの束縛はすべて消え失せるであろう。』

    A正田大観先生訳
    『婆羅門が、〔対立する〕二つの法(事象)について、彼岸に至る者(善悪の彼岸にいる者)として〔世に〕有るとき、しかして、彼の、〔あるがままをあるがままに〕知っている者の、一切の束縛は〔自ずと〕滅却に至る。』

    https://suttacentral.net/dhp383-423/jpn/daikan?reference=none&highlight=false

    ちなみに、
    BBhikkhu Sujato様訳
    When a brahmin
    has gone beyond two things,
    then they consciously
    make an end of all fetters.

    https://suttacentral.net/dhp383-423/en/sujato?layout=plain&reference=none&notes=asterisk&highlight=false&script=latin





引用返信/返信 削除キー/

<前の12件 | 次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -